前号で、われわれは「いかにしてプロジェクトが切り開く「区別」が崩壊せずに持続し、やがて社会の中で意味を得ていくのか」という問いに辿り着いた。そのためにも、「区別」を中動態的に理解する必要に迫られている。
バラッドによれば「切断/区別」とは、関与する存在同士の相互生成的な作用 (intra-action) の中で共に生じるもの (cutting-together-apart) であった。たとえば、「男性」という区別は、知覚者が決めているのでも、対象がそう区別せしめているのでもなく、あらゆる状況が協力して区別を生み出しているのである。この時点で「区別」は、すでに中動態的な内部作用の結果として描かれてはいるものの、その過程を詳らかにしているようには感じられない。「切断/区別」を存在 (being) としてではなく過程 (becoming) として捉えられないだろうか。たとえば、「響き合う」という動詞を用いて現象として扱えないだろうか。
社会学者のハルトムート・ローザは「共鳴 (resonance)」という概念を通して、人がどのように世界と応答的な関係を結ぶかを説明している。彼はまず、「共鳴」が身体 (body) において生じることを強調する。なぜなら、人は身体を通してのみでしか自己を感じることも、世界を知覚することもできないからである。人は身体 (body) を媒介として自己と世界を結びつけており、「世界との身体的な関係 (bodily-relation to the world)」が、「共鳴」を生むか、「沈黙 (mute)」を生むかを左右するのである。
ローザは本書で、現代社会がいかに身体を「沈黙化する関係 (mute relation)」に陥らせる一方で、「共鳴」への欲求を高めているかを説明している。そのため、現代人は「共鳴」する機会を失われて、「擬似的な共鳴」ないし商品化された「反響 (echo)」を消費させられている、と分析は続くのだが、本稿の趣旨から逸れるので割愛したい。
われわれとしては、彼が「共鳴」という中動態的な動詞を使って、関係性について語っている点が興味深いところだ。というのも、関係性と区別とは垂直に交わっているからである。新たな関係性からは新たな区別が生じており、その逆も成り立っている。
「共鳴 (resonance)」はそのメタファーの通り、2つの側があることを前提としている。最も分かりやすいイメージは音叉だろう。片方の音叉が振動することで、もう片方が振動し始める現象はまさに「共鳴」と呼ばれる。この単純なイメージからも分かる通り「共鳴」には条件がある。まずは、双方が感応的 (responsive) である必要が挙げられる。片方が振動しない (影響が一方向的) であれば、それは共鳴しているとは言えないだろう。
加えて、ローザが注視するのが「共鳴」の帰結である。例えば、美しい音楽に感動した時、すでに私と音楽との区別は感動する「前」とは異なる位置にある。つまり、主体と世界が互いに影響を受け、変容し合う関係でなければ「共鳴」したとは言えないのだ。これは、過去に取り上げた「破れ」という概念と通ずるところがあるだろう。
つまり「共鳴」はパラドキシカルな現象だ。2つの側は区別されているからこそ響き合うが、結果として双方が他方の存在の前提になる形で変化し合っているため、ある意味で一体化している。そして「共鳴」を経て共に変容するということは、その関係性を規定する「区別」も新しいものになっているということに他ならない。
これはデューイがtrans-activeと呼んだ関係性に近しい。彼は著書「Knowing and Known」で知覚者 (knowing) と対象 (known) は別個に存在しているのではなく、共に立ち上がる (co-becoming) ものであることを指摘した。これは自分と対象が存立していてやり取りをしている (inter-active) とは異なる存在論である。「共鳴」はさらに、単なる存在論としてではなく現象として、関係性を紡ぎ直しているのである。
さて、われわれの前号の問いに戻るならば、この「共鳴」は「切断/区別」とどのような関係にあるのだろうか。ここまで見たように「共鳴」はバラッド的な「切断」のように偶有的で刹那的である。しかし一方で、共鳴し合うためには両者がそれぞれの声で語る (speak with their own voice) 程度には存立しており、ゆえに「共鳴」しない可能性 (inaccessibility) と隣り合わせでないといけない。この点においてはルーマンのコミュニケーション (情報が届かない可能性と隣り合わせである) と非常に近しい性質を持っている。つまり「共鳴」は既存の区別を前提としながらも、それを乗り越えて新たな「切断/区別」を生む現象のことを指しているのではないだろうか。
では、こうした「共鳴」を起こしていくにはどうすれば良いだろうか。ローザ曰く、この問いの立て方は誤っている。なぜなら「共鳴」は世界が自己に触れるときに生じるのであり、それを能動的に起こそうとしては一方向的となり、もはや「共鳴」でなくなるからだ。つまり「共鳴」は動詞として中動態的にしか成立しない。だからこそ、ローザはあくまで「開かれたあり方」を取り続けることしかできないとしつつ、それは時にはあらゆるリソースを放棄してしか辿り着けないこともあると述べているのである。これは奇しくも現代、プロジェクトが計画から偶有性へ開かれた態度をとる必要に迫られている状況と軌を一にしている。
さて、ここまで「区別」を「共鳴」という角度から捉えることにより、「区別」を動的にかつ中動態的に捉え直すことができた。つまり、自己と世界のあいだにおいて、互いに変化を引き起こし合うような応答的な出来事 (共鳴) として新たな区別が立ち上がる。そのような区別の在り方として「共鳴 (resonance)」は極めて示唆的であり、身体を介した感受のプロセスを通じて、バラッドの量子力学的な「切断」に文字通り身体性を与えてくれている。
一方で、ローザの議論は共鳴の「生成」に重きが置かれており、それがいかにして社会的な制度や実践へと構造化され、持続的な意味を持つに至るのかについては踏み込まれていない。の問いに向き合うため、次にバラッドの友人でありながら実践理論の第一人者であるジョセフ・ラウスの理論を覗いてみたい。