The Project Theory Probe Journal

Issue 21
Jul. 31 2025

「もつれる」プロジェクトを見てみたい

八木翔太郎

第9回 Resonance (共鳴)

前号で、われわれは「いかにしてプロジェクトが切り開く「区別」が崩壊せずに持続し、やがて社会の中で意味を得ていくのか」という問いに辿り着いた。そのためにも、「区別」を中動態的に理解する必要に迫られている。

バラッドによれば「切断/区別」とは、関与する存在同士の相互生成的な作用 (intra-action) の中で共に生じるもの (cutting-together-apart) であった。たとえば、「男性」という区別は、知覚者が決めているのでも、対象がそう区別せしめているのでもなく、あらゆる状況が協力して区別を生み出しているのである。この時点で「区別」は、すでに中動態的な内部作用の結果として描かれてはいるものの、その過程を詳らかにしているようには感じられない。「切断/区別」を存在 (being) としてではなく過程 (becoming) として捉えられないだろうか。たとえば、「響き合う」という動詞を用いて現象として扱えないだろうか。

社会学者のハルトムート・ローザは「共鳴 (resonance)」という概念を通して、人がどのように世界と応答的な関係を結ぶかを説明している。彼はまず、「共鳴」が身体 (body) において生じることを強調する。なぜなら、人は身体を通してのみでしか自己を感じることも、世界を知覚することもできないからである。人は身体 (body) を媒介として自己と世界を結びつけており、「世界との身体的な関係 (bodily-relation to the world)」が、「共鳴」を生むか、「沈黙 (mute)」を生むかを左右するのである。

ローザは本書で、現代社会がいかに身体を「沈黙化する関係 (mute relation)」に陥らせる一方で、「共鳴」への欲求を高めているかを説明している。そのため、現代人は「共鳴」する機会を失われて、「擬似的な共鳴」ないし商品化された「反響 (echo)」を消費させられている、と分析は続くのだが、本稿の趣旨から逸れるので割愛したい。

われわれとしては、彼が「共鳴」という中動態的な動詞を使って、関係性について語っている点が興味深いところだ。というのも、関係性と区別とは垂直に交わっているからである。新たな関係性からは新たな区別が生じており、その逆も成り立っている。

「共鳴 (resonance)」はそのメタファーの通り、2つの側があることを前提としている。最も分かりやすいイメージは音叉だろう。片方の音叉が振動することで、もう片方が振動し始める現象はまさに「共鳴」と呼ばれる。この単純なイメージからも分かる通り「共鳴」には条件がある。まずは、双方が感応的 (responsive) である必要が挙げられる。片方が振動しない (影響が一方向的) であれば、それは共鳴しているとは言えないだろう。

加えて、ローザが注視するのが「共鳴」の帰結である。例えば、美しい音楽に感動した時、すでに私と音楽との区別は感動する「前」とは異なる位置にある。つまり、主体と世界が互いに影響を受け、変容し合う関係でなければ「共鳴」したとは言えないのだ。これは、過去に取り上げた「破れ」という概念と通ずるところがあるだろう。

つまり「共鳴」はパラドキシカルな現象だ。2つの側は区別されているからこそ響き合うが、結果として双方が他方の存在の前提になる形で変化し合っているため、ある意味で一体化している。そして「共鳴」を経て共に変容するということは、その関係性を規定する「区別」も新しいものになっているということに他ならない。

これはデューイがtrans-activeと呼んだ関係性に近しい。彼は著書「Knowing and Known」で知覚者 (knowing) と対象 (known) は別個に存在しているのではなく、共に立ち上がる (co-becoming) ものであることを指摘した。これは自分と対象が存立していてやり取りをしている (inter-active) とは異なる存在論である。「共鳴」はさらに、単なる存在論としてではなく現象として、関係性を紡ぎ直しているのである。

さて、われわれの前号の問いに戻るならば、この「共鳴」は「切断/区別」とどのような関係にあるのだろうか。ここまで見たように「共鳴」はバラッド的な「切断」のように偶有的で刹那的である。しかし一方で、共鳴し合うためには両者がそれぞれの声で語る (speak with their own voice) 程度には存立しており、ゆえに「共鳴」しない可能性 (inaccessibility) と隣り合わせでないといけない。この点においてはルーマンのコミュニケーション (情報が届かない可能性と隣り合わせである) と非常に近しい性質を持っている。つまり「共鳴」は既存の区別を前提としながらも、それを乗り越えて新たな「切断/区別」を生む現象のことを指しているのではないだろうか。

では、こうした「共鳴」を起こしていくにはどうすれば良いだろうか。ローザ曰く、この問いの立て方は誤っている。なぜなら「共鳴」は世界が自己に触れるときに生じるのであり、それを能動的に起こそうとしては一方向的となり、もはや「共鳴」でなくなるからだ。つまり「共鳴」は動詞として中動態的にしか成立しない。だからこそ、ローザはあくまで「開かれたあり方」を取り続けることしかできないとしつつ、それは時にはあらゆるリソースを放棄してしか辿り着けないこともあると述べているのである。これは奇しくも現代、プロジェクトが計画から偶有性へ開かれた態度をとる必要に迫られている状況と軌を一にしている。

さて、ここまで「区別」を「共鳴」という角度から捉えることにより、「区別」を動的にかつ中動態的に捉え直すことができた。つまり、自己と世界のあいだにおいて、互いに変化を引き起こし合うような応答的な出来事 (共鳴) として新たな区別が立ち上がる。そのような区別の在り方として「共鳴 (resonance)」は極めて示唆的であり、身体を介した感受のプロセスを通じて、バラッドの量子力学的な「切断」に文字通り身体性を与えてくれている。

一方で、ローザの議論は共鳴の「生成」に重きが置かれており、それがいかにして社会的な制度や実践へと構造化され、持続的な意味を持つに至るのかについては踏み込まれていない。の問いに向き合うため、次にバラッドの友人でありながら実践理論の第一人者であるジョセフ・ラウスの理論を覗いてみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(21) 歴史は繰り返す

THE ARCHITECTURE OF INTIMACY

Kitty Gia Ngân

Cutting to Connect: On Intimacy, Risk, and Ethical Entanglement

In The Codification of Intimacy, Niklas Luhmann explains how—from a sociological perspective—intimacy functions as a communication system that uses the symbol of "love" to enable the sharing of personal information. This system solves the "threshold problem" where human need to set himself apart from all others to form deep, personal relationships within a society that increasingly operates through impersonal codes. Intimacy becomes the space where individuality can be communicated, thus paving the way for emotional resonance and mutual recognition in a system otherwise geared toward abstraction and efficiency.

As I’ve established elsewhere in this series, intimacy arises in moments of truly seeing someone—thus, experiencing entanglement or the feeling of oneness. Entanglement, as the fundamental condition of the world, is the premise of this series. Through dominant cuts reinforced by societal systems, we temporarily forget this oneness and become caught in the illusion of separation. Yet intimacy helps us remember that there is no pre-existing distinction between self and other, subject and object, observer and observed. These separations are momentary enactments we perform—often unconsciously—in order to function in the world.

Paradoxically, alongside the illusion of separation exists another kind of distinction: what Karen Barad calls agential cuts. These are situated and temporary distinctions made within entanglement. To live is to make choices—to make distinctions, to perform cuts. Barad writes that every cut reconfigures the world through a specific enactment of momentary separability without denying the deeper relationality. An agential cut does not sever relationship—it reconfigures it, and in doing so, reconfigures world-making. It shapes what and who gets to matter, what is included and excluded, what futures become possible. Living, then, is inevitably an ongoing ethical act. A loving and intimate society is one in which we take responsibility for the boundaries and meanings we help produce. Setting boundaries, or cutting, is not a rejection of intimacy—it is a vital part of its architecture. It is a refusal to remain complicit in harmful patterns and a reclamation of world-making through insight.

To do this, we must become attuned to the patterns of entanglement we’re already part of—and take responsibility for the boundaries (or lack thereof) we enact within them.

Cuts and entanglements are two continuous sides of the same reality we live in. One of the most powerful ways we facilitate and reconfigure them is through language. Language enables us to draw and redraw these cuts. Self-disclosure, for example, is a performative cut—it signals who we are and who we are not. It enables a kind of closure and connection by distinguishing a subject, but that distinction is never final. It is ongoing. To say "I am me and I love you" is to cut again and again—to reaffirm and reconfigure the relationship anew.

The Repetitions of Intimacy

Intimacy, like all else, is a continual practice of re-cutting, re-knowing, and re-configuring. You cannot fully know someone, marry them, and call it done. There is no final revelation of the self. There is only the ongoing risk of being known—and of being rejected—all over again.

This risk is central to intimacy, which always involves asymmetry and exposure. It requires that we allow ourselves to be affected by another, and that we affect them in return—unequally, and without hierarchy. The paradox is, once intimacy operates within hierarchy, we lose sight of entanglement and the risk intensifies.

In assemblage theory, a revolution in relationship—whether romantic, political, or personal—cannot be sustained by a single rupture. It must be followed by many lines of flight and new compositions: new codes, rituals, and environments that resist capture by dominant structures. When intimacy becomes rigid or hierarchical, it is quickly absorbed back into systems of control or exploitation. To keep it alive, intimacy must remain an ongoing experiment in relationality—one that takes risks and sustains new rhythms of care and mutual transformation.

In this way, intimacy is not the soft margin of life—it is one of its most radical sites of invention. It is where we rewire the codes of the self and the social. It is where we cut mindfully and continually—not to sever, but to begin anew.

実践!プロジェクト推進のコツ

定金基
この提案で「チームが後退しない!」と信じられたら進めてよい

前回は、質の高い意思決定の「材料」として、助言する側は「私はこう思った」と伝え、助言される側は「あとは私に任せてください」と責任を引き受けるマインドセットが重要だとお伝えしました。

しかし、いざ「任された」として、どのような基準で決断を下せばよいのでしょうか。特に、先行きが不透明で変化の激しいプロジェクトにおいては、一つの決断が大きな影響を及ぼす可能性もあり、意思決定のプレッシャーは計り知れません。「最善の決断」をしようとすればするほど、分析に時間をかけすぎてしまい、結局何も前に進まない…という事態に陥りがちです。

今回は、この「決断の重圧」から私たちを解放してくれる、ティール組織で実践される新しい意思決定の仕組み、「助言プロセス」をご紹介します。

はじめに:なぜ新しい意思決定の方法が必要なのか

プロジェクトを進める上で、私たちは常に何らかの意思決定を迫られます。書籍『[イラスト解説]ティール組織』によれば、組織の意思決定の方法は、歴史的に見ても大きく分けて3つのタイプに分類できるとされています。

  1. トップダウン型 (階層型): リーダーやマネージャーなど、特定の権限を持つ人が一人で決定を下す方法です。スピーディーですが、現場の知見が活かされにくく、メンバーの主体性も育ちません。
  2. 合意形成型: 全員が納得するまで話し合い、合意形成を目指す方法です。しかし、この方法には大きな落とし穴があります。
  3. 投票型 (多数決型): 投票などにより、多数派の意見を採用する方法です。一見公平に見えますが、少数派の意見が切り捨てられ、対立構造を生む可能性があります。

変化が激しく、複雑性の高い現代のプロジェクトにおいて、これらの方法はどれも一長一短があり、十分とは言えません。そこで第四の選択肢として登場するのが「助言プロセス」なのです。

誰でも決断していい「助言プロセス」とは

書籍『[イラスト解説]ティール組織』では、助言プロセスを「自己管理を支える重要な革新」と位置づけています。これは、従来の意思決定とは全く異なる思想に基づいています。

この「助言プロセス」は、かなり力強いものです。そこにある問題や可能性に強く心動かされる人は誰でも、そこに変更を加える提案ができます。そして同時に、どの決定も「集合知」という形によって発表され、そこにかかわる人たち誰にでも知ることとなります。

つまり、役職や立場に関係なく、課題に気づいた人なら誰でも意思決定のプロセスを始めることができるのです。ただし、そこには重要な義務が伴います。

意思決定者は、すべての助言を真剣に受け止めなければなりません。しかし、決定はただ水増しされた妥協案であってはなりません。意思決定者は慎重に考え、ベストな行動方針を選択します。それは近しい同僚からの助言に反することもあり得ます。

意思決定の権限と責任は、あくまで提案をあげた「個人」にあります。助言を求めるのは「許可」を得るためではなく、多様な視点を取り入れ、決断の質を高めるためなのです。

判断基準は「プラスになるか」ではなく「後退しないか」

では、集めた助言を元に、意思決定者は最終的にどう判断すればよいのでしょうか。ここで、このプロセスの最もユニークで強力な考え方が登場します。それは、「この提案でチームが後退しない!」と信じられたら進めてよい、という判断基準です。

多くの意思決定は、「これをやればプラスになるか?」という視点で行われます。しかし、未来が予測困難な状況で「確実なプラス」を証明するのは、ほぼ不可能です。この問いを立てた瞬間に、私たちは無限の分析と議論のループにはまり込んでしまいます。

そうではなく、問いを反転させるのです。「この提案を実行することで、取り返しのつかないような害悪がもたらされたり、チームが明らかに後退したりすることはないか?」と。そして、その問いに対して「ノー」と自信を持って言えるのであれば、その提案は「試す価値がある」と判断し、前に進めることができます。

これは、完璧な正解を探すのではなく、「安全に試せる範囲で、まず一歩踏み出してみる」というマインドセットです。この一歩によって、私たちは机上の空論では得られなかった新しい「事実」や「実践知」を手にすることができ、次のより良い一歩へと繋げていくことができるのです。

この「後退しないなら進めてよい」という考え方は、前回お話しした「許容可能な損失」の考え方とも密接に繋がっています。失敗しても致命傷にならない範囲で、最前線にいるプレイヤーが迅速に意思決定を繰り返していく。それこそが、変化の激しいプロジェクトを推進していくための、現実的でパワフルなエンジンとなるのです。

このプロセスの良いところは、意思決定の心理的ハードルが下がるだけでなく、チーム全体で「まずやってみよう」という文化が育まれることかもしれませんね。それに、全員が100%賛成する完璧な合意形成なんて、誰もがその存在を信じたがるけれど実際には誰も見たことがない――そんなユニコーンのような想像上の動物みたいなものですから。

本文中全ての引用元
タイトル: 『[イラスト解説]ティール組織――新しい働き方のスタイル
著者: フレデリック・ラルー著、エティエンヌ・アペール イラスト
訳: 羽生田栄一監訳、中埜博・遠藤政樹訳
発行所: 技術評論社 2018年

南の島の Project Sprint

賀川こころ

第9回 制約の中でこその自由

わたしが人生で初めて「自由だ」と感じたのは、海の中だった。

小笠原独特の、濃く深く、それでいてどこまでも透き通った青い海。目にした人を虜にするこの神秘的な海の色は、ボニンブルーと呼ばれている。島沿いには浅い珊瑚の海もあるが、すこし岸から離れればすぐに数10mの深さになり、1時間程度船を走らせるとそこはもう、最深部では水深10,000mに及ぶ伊豆-小笠原海溝だ。かつてわたしがまだ観光客のひとりだったころ、マッコウクジラを探して船を走らせている途中に、水深1,000mを超えたあたりの表層で泳いだことがある。太陽に照らされた海面の水は温かくても、10mほど潜ると水温はぐっと落ちる。海底などもちろん見えるはずもなく、自分が飛び込んできた船さえも波の煌めきの間に見失いそうになって、上下の感覚が曖昧になる。濃度の異なる青さの中で、肺の中の空気は次第に酸素が希薄になり、海の小さなざわめきに耳鳴りが混じり、遥か上から差す陽光と視界の端の星が交錯する。けれどその瞬間、どこまでも不自由な海の中で手足を伸ばして、わたしはどこにいるときよりもなにを手にしたときよりも、たしかに自由を実感していた。

わたしは通常、ウェットスーツもウェイトもなしのスキンダイビングで潜っている。自分の肺に入る分だけの空気で、自分に扱えるだけのサイズのフィンで。もちろん水中にいられる時間には限界があるし、行きたいところに行けるわけでもない。けれど、その限界の中で、心から自由だと感じる。スキューバのライセンスも持ってはいるけれど、レギュレーターを咥えていては、わたしは海には溶け込めない。隔絶や拒絶を強く感じる。本来海を自由に泳ぐための道具であるはずの重器材は、わたしにとっては鎧であり枷だった。そうやって人間本来の領域や限界域を拡張することに、やっぱりどうしようもなくおこがましさや違和感を覚えてしまうのは、わたしが凡庸な人間だからなのだろうか。

「海は人間に興味がないから好きだ」と言っていた時期があった。今でこそもうそういうシニカルな表現をしようとは思わないけれど、海への慕情の根底にあるのは今もそういう感情かもしれない。まなざされることに過敏になり、自他の境界を上手く引きあぐねていた当時のわたしにとって、最も適切な「他者」はイルカたちであり、さらには海であったような気がする。イルカはわたしを愛さないので、わたしはイルカを愛しつづけることができる。海はわたしに興味がないので、わたしは海でわたしでいられる。

「規定性の中にあって、なお規定されていないと感じること」に「自由」の本質があるとヘーゲルは言う (苫野一徳『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』NHK出版)。自身の欲望とそれを阻む制約を自覚したうえで、その中でできるだけ納得し満足して、「『生きたいように生きられている』という実感」を得られているとき、人は「自由」を感じる、と。

現在最新版として公開している Project Sprint v4.3 には、「より多くのプロジェクトを自由で創造的なものにする」ことを願うと記述されている。現在構築されつつあるv5ではより「人」に焦点が当たり、プロジェクトを通してより多くの人が自由で創造的であれる世界が目指されるだろう。この自由はヘーゲルの言う「自由」であり、それを獲得した人間が Project Sprint の目指す「自律的な状態」を体現することになる。

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今月の概念

八木翔太郎

応答可能性 (Response-ability)

  • 責任 (responsibility) は、多くの場合、外部から与えられるものと理解されている。たとえば、役職者が不祥事の責任を取って辞任する場面や、ノブレス・オブリージュのような合言葉に象徴されているだろう。特に、物事が上手くいかないときに責任は姿を現し、社会規範に従うように働きかけてくるのである。
  • しかし、 複雑な要因が絡み合い、複数の主体が関与し、因果関係が不透明な状況において、果たして「責任の所在」を明確に特定することは可能だろうか。たとえばスリーマイル島原発事故のように、主体が分散し、境界が流動化し、完全には制御できない要素が含まれるような事例では、責任という概念は意味を為さないだろう。
  • まして、存在が「在る」のではなく、関係性そのものが生成的であるという理解に立つとき、私たちは責任をどのように捉え直すことができるのだろうか。
  • ダナ・ハラウェイにとって責任とは社会的に課されるものではなく、むしろ何かに応答 (response) する実践によって自ら絶えず引き受けている関係性である。それは「困難を即座に解決すること」ではなく、むしろ著書名にもなっているように、乱雑で不確定な「困難の中にとどまる」実践を意味している。
  • この応答は、人間同士の関係にとどまらず、動物や環境、機械、歴史、そして未来世代との**異種間的・時空間的なつながり**にまで広がる。応答可能性 (response-ability) は、そうした関係に対して倫理的に応答するなのである。
  • この応答可能性は、「他者と関係を結ぶべきだ」という道徳的命令ではなく、自らが常に関係性のうちに共生成 (making-with) されているという存在論的理解に基づいている。この点で、エマニュエル・レヴィナスが述べた「他者の顔」に対する応答としての倫理と通じる部分もあるが、彼の他者論が超越論的かつ人間中心的であるのに対し、ハラウェイはそれをより実践的かつ非人間中心的な次元へと開いている。
  • カレン・バラッドは、この応答可能性を存在論の根本構造として捉え直している。彼女は量子物理学の知見を援用しながら、存在とは事前に独立してあるものではなく、応答する関係性のうちに存在が立ち上がることを示した。このとき、応答可能性 (response-ability) とは単なる倫理的選択ではなく、存在が立ち現れるための条件そのものである。そのためバラッドは、自らが「関係しあっている世界」にすでに巻き込まれているという事実に感受性をもって向き合う手法として、回折 (diffraction) という実践を提唱したのであった。
  • 彼女はゆえにこう問いかける:「私たちはどのような世界の生成に関与しているのか?」「私たちはいかに共に生き、行動し、応答しうるのか?」
  • 応答可能性の持つ力は時に凄まじい。C.A.シャープなどの活動家が、犬という種の歴史と病理学を深く理解して、ブリーダーによる身勝手な遺伝子選択の帰結を乗り越えようとするとき、彼女らは種族を超えて関係性を生み出し、新たな関係性さえ紡ぎ直せるのである。
  • ここでふと疑問が湧く。応答可能性の「倫理」は、結局のところ「応答すべき」という能動的命令なのではないかと。もしそうであるならば、能動性は主体 (存在) を前提とする以上、応答可能性を「存在に先立つ倫理である」とする主張と矛盾してしまう。
  • この矛盾を解く鍵は、「行為せよ (Do)」と「そのようであれ (Be such)」という呼びかけが、似て非なる要請であるという点にある。前者は能動態であるのに対して、後者は中動態である。つまり、応答可能性の倫理は「中動態にとどまれ」という要請なのではないか。そこでは、行為主体になることは前提とされず、むしろ変化の只中にあることが求められる。
  • ローザが「共鳴 (resonance)」を失いつつ現代社会に出した処方も、まさに「互いの変容し合う関係性」にある身体を肯定し、それを閉ざさずにいることであった。応答可能性を持つことは「共鳴 (resonance)」する身体を持つことでもある。そこで関係性は双方向に生成されるのであり、まさに能動でも受動でもない、中動態的な在り方といえるだろう。
  • ハラウェイの「好奇な実践 (curious practice)」も、実践である前に「あり方」への要請だと捉えるべきなのかもしれない。

Concept of the Month

Shotaro Yagi

Response-ability

  • Responsibility is often understood as something imposed from the outside. For instance, it is evoked when a public official resigns after a scandal or expressions like noblesse oblige remind us of socially expected obligations. Responsibility tends to appear most clearly in moments of failure, urging us to comply with prevailing norms.
  • That said, can we meaningfully specify who is responsible in situations where multiple factors are entangled, various agents are involved and causal relationships are opaque? In fact, the conventional notion of responsibility fails to hold in cases such as the Three Mile Island nuclear accident, where agency is dispersed, boundaries are fluid and certain elements lie beyond anyone’s full control.
  • Moreover, nowadays, we are increasingly aware that being is not simply given and relations themselves are generative. How, then, should we reconceive responsibility?
  • For Donna Haraway, responsibility is not something externally imposed by society. It is instead an ability to respond (response-ability) that allows one to hold the kinship with others. It is not about "resolving trouble" but rather—as her book title "Staying with the Trouble" suggests—about remaining within the ongoing, indeterminate and messy middle of the relationship.
  • This responsiveness extends beyond human-to-human interaction. It reaches across species, environments, machines, histories, and generations. Response-ability refers to the ethical capacity to remain accountable to such entangled relations.
  • Importantly, this is not a moral imperative to "form relationships with others." It is rather the ontological recognition that we are already co-constituted (making-with) within relational fields. In this sense, Haraway’s idea shares ground with Emmanuel Levinas’ ethics of responding to "the face of the Other." The difference is, however, whereas Levinas’ ethics remain transcendental and anthropocentric, Haraway’s formulation is more practical and posthuman.
  • Karen Barad goes further still, rethinking this response-ability as part of the very fabric of ontology. Drawing on insights from quantum physics, she argues that entities do not exist prior to relations, but come into being through what she calls "intra-action". That is, existence emerges within responsive relations.
  • In this light, response-ability is not merely an ethical choice—it is the very condition by which entities come to exist. This is why Barad proposes diffraction as a methodological practice: a way of attuning to the relational entanglements we are already part of and asking how we participate in world-making.
  • She thus asks, "What kinds of worlds are we helping to bring into being?" "How shall we live, act, and respond—together?"
  • The power of response-ability can be immense. For instance, activists like C.A. Sharp, who deeply study the history and pathology of dogs as a species, strive to undo the genetic harm caused by careless breeders. In doing so, she not only forge interspecies relationships but also reweaves the fabric of multispecies kinship.
  • But this powerful example makes me wonder: Is the ethical claim of response-ability, after all, simply an active commandment to "respond deeply?" If so, isn't it contradicting to claim that "ethics precedes being" when that very ethic requires an actor (being)?
  • The key to resolve this contradiction lies in distinction between the imperative "Do!" and the invitation "Be such." The former is in the active voice, while the latter belongs to the middle voice. The ethics of response-ability, then, is not a command to act, but a call to remain in the midst of transformation.
  • Hartmut Rosa’s diagnosis to the erosion of resonance< in modern society was similarly to affirm the body’s capacity to remain open to mutual transformation. To be response-able is also to be resonant. And resonance, as it require both sides to participate in generative relation, is neither active nor passive but middle-voiced.
  • Haraway’s concept of curious practice might likewise be understood not as a "practice" in the traditional sense of skillful execution, but as a way of being called into relation.

WHAT’S LOVE* GOT TO DO WITH IT?

Kitty Gia Ngân

This month's What's Love* Got To Do series covers the topic, Ways to make a conversation feel more alive.

Language is humanity’s greatest tools for disclosure and building bonds. Yet, many of our daily conversations are dull. Let’s call these "zombie conversations"—they are corpses of what’s no longer alive. This booklet shares simple tips that preserve a conversation’s living soul. The art of engaging in life-affirming conversations is a continual practice and craft—one that certainly enriches every life it touches.

Through the zine, you will get to see that conversing is truly an act of love — it calls for mindfulness, attentiveness, kindness, insight, and practice.Each conversation holds the potential to be a gift — one that gently renews our aliveness, together.

What’s Love* Got To Do With
HAVING ALIVE CONVERSATIONS?

  • 68 pages
  • Trilingual! Available in Japanese, English, and Vietnamese
  • 30 tips, based on understanding of diffractive intimacy
  • This printable zine has space for reflection and journaling

Read here. (PDF 24.1MB)

Editor's Note

菊地玄摩

これをやるのは嫌だなあ、と気が乗らないとき。表面上は取り繕ったとしてもその「身体」は重く、成果も芳しくないものになってしまうでしょう。反対に、理由はよくわからなくても「乗っている」ときには、よい気持ちですらすらといろんなことを達成してしまう。すべきこと、すべきでないことを知っている「身体」が、私たちにそれを教えてくれているかのようです。

「身体」の洗練された動作と呼べるものは、いくつもの状況に対応する柔軟性を備えているでしょう。一回の結果は大きく違わないように見えても、それが一回きりの間に合わせか、洗練されたプロセスかによって、効率、柔軟性、安定性は大きく異なり、何度もくり返すうちに大きな差が生まれます。その差は、身体がもっている特性と、環境との調和の程度によるでしょう。身体が重くなく、乗っていけるような動作は、部分と全体、主体と環境とが相互に浸透し合う意味において、自然的なのです。

ところで「コンピュータの身体」についてはどうでしょう。コンピュータにも、外界と内部を隔てる境界があり、エネルギーで駆動しており、知覚・応答の能力と、個体の歴史を保持する記憶をもち、それらすべての総合として発揮される個性があります。もちろん、生物の身体とは異なります。しかし例えば、(いまあなたに読まれている) このテキストを表示することは、それを可能にしている (あなたの手もとにある) コンピュータの「身体的特性」にとって自然で好ましい動作なのか、無理をしなければ達成できない、気が乗らない仕事なのか、と問うことができるでしょう。洗練された自然な動作と、そうでないものの差をつくるコンピュータの「身体」の事情が、そこにあるということです。

人間にとって有益なことをコンピュータに実行してもらうことが、プログラミングの目標です。そのとき、できるだけコンピュータの性質と調和した環境や手順の内容を整えられるかどうかが、プログラマーの腕の見せどころであり、達成される品質の源泉です。この品質は、洗練された動作を達成すること、つまりコンピュータの身体の自然と調和することと深く関わっているはずです。

すぐれたプログラマーは、どのようにしてそれを知り、達成するのでしょうか?プログラマーを励ますことを生涯の使命とするケント・ベックが自身16年ぶりの書籍「Tidy First? ―個人で実践する経験主義的ソフトウェア設計」(オライリー・ジャパン)で、プログラミングコードを整頓 (Tidy up) することについて、こんなことを書いています。

改めて整頓するもう一つの理由は、学習ツールとしての役割だ。コードは自分がどのように構造化されたいかを「知っている」。あなたがその声に耳を傾けて、現在の構造から望んだ構造へ移行しようとしているのなら、必ず何かを学ぶはずだ。整頓はあなたの設計のあらゆる結果を意識するための素晴らしい方法だ。整頓は設計がどのようになるかを照らし出すのだ。

学びが強調されている点において、大理石の中に掘り出されるのを待つ天使が「見えて」いるミケランジェロとは、少し違った事態のようです。ケント・ベックはさらに踏み込んで、こうも書いています。

これまであなたが発見したいちばん強力な抽象化のいくつかは、実行中のコードから派生したものだ。それらは推測からは決して生み出すことはできなかっただろう

現在作られつつあるもののあるべき構造を、当のコード自体から学ぶことができる。むしろ、学ぶべきだというのがケント・ベックの主張でしょう。プログラマーの仕事を、人間が思い描いた観念をコンピュータに指示して達成させる、と捉えるような視点から見れば驚くべき内容です。しかし、実際そうなのです。表面上は従順なコンピュータが、実は嫌がっていないか。どうすればよい動きになるか。それを対話的に見出すのがよいプログラマーの資質ということになるでしょう。この学びと、思考の飛躍が、多くのプログラマーを魅了し、「実装は楽しい」と言わせているのです。

自身と対象 (コード) とのあいだによい関係を築き、自らも進んで新しい段階に到達する。それは「共鳴」的な態度と言えるでしょう。コードの声を聴き、自らの思考の限界を超えることが、効果的なコードを書くことはもちろん、楽しく仕事をするために必要なのです。そして「共鳴」的態度への応答性において、大理石や紙のような素材とコンピュータは異なっているようにも見えます。ソフトウェアは (人間の意図などかまわずに) いつでも壊れます。そしてその理由は、コンピュータが抱えた事情の、内的な矛盾にあるのです。矛盾を起こすような部分と全体の調和の問題を、大理石や紙はもっていません。プログラマーが身体を投げ出して共鳴しなければならない理由、そして「コンピュータの身体」について私が語りたかった理由がここにあります。

コンピュータが文明の全体に行き渡りつつあることと、社会のなかに生命的なプロセスを取り込む契機が増えていることの同時性は、偶然とは思えません。新しいテクノロジーは歴史上たびたび、人類の新しい側面を開花させてきました。そして私には、ケント・ベックの描く、学びに開かれた態度が、その入り口のひとつを示唆しているように思えるのです。