この前提に、生物学の側から異議を唱えたのがイスラエルの物理生物学者エシェル・ベン=ジェイコブだ。彼は、生命が環境の問題を「解く」とき、それは刺激に対して正しい出力を返しているのではなく、状況の意味を解釈しながら自分自身を変えているのだと主張した。この差は些細に見えて根本的だ。出力が同じでも、そこに至るプロセスが「計算」なのか「解釈」なのかによって、そのシステムが何であるかがまったく変わるからだ。
ベン=ジェイコブは複雑系系の研究者らしくゲーデルの不完全性定理から議論を始めている。1931年、クルト・ゲーデルは、算術を扱えるほど十分に豊かな形式体系は、矛盾がない限り、必ず「その体系の中では証明も反証もできない命題」を含むことを証明した(ゲーデルの不完全性定理)。どれほど精密な規則の体系であっても、自分自身について答えられない問いが必ず残る。
通常これは「限界」の話として語られる。しかしベン=ジェイコブはここで視点を反転させたのであった。ゲーデルの定理は任意の形式体系に適用されるわけではない。適用されるのは、自然数の加算と乗算を表現できるほど豊かな体系だけだ。つまり、ゲーデルの定理に「かかる」ということは、すでにある種の深みを持つことの証明なのだ。
ベン=ジェイコブはさらに踏み込む。もし生物が完全なプログラムで動くだけの存在なら、自分を観察することも、状況に応じて変わることもできない。不完全だからこそ、生命には「自分が何であるか」を問い、自らを変える余地が生まれるのでは、と彼は論じる。これは単なる比喩ではなく、生命が情報処理機械とは異なる種類の存在であることの、形式的な論拠として提示された。
もっとも、「余地が生まれる」ことと「実際に意味を解釈している」ことの間には、大きな論理的跳躍がある。この跳躍を埋めることが、ベン=ジェイコブの実験的・理論的研究の課題となった。
その課題に取り組む場として、ベン=ジェイコブが選んだのが細菌だった。ともかく、最近というのは重要な存在である。地球上の生命は細菌から始まったのであり、マクスウェルの悪魔さながらに高エントロピーの無機物を低エントロピーの有機分子へと変換している。私たちの体内には約4万種の腸内細菌が住み、細胞内のミトコンドリアさえもかつての細菌であるように、高等生物は今なお細菌の能力に依存して生きている。
もしその細菌の段階ですでに「意味の解釈」が起きているなら、それは脳や神経系が登場するはるか以前から、生命の中核に知性が宿っていたことになる。ベン=ジェイコブの問いの射程は、知性の起源そのものに向かっていた。
彼は、細菌コロニーは「集団的な自己認識」を持つと考えた。バクテリアは単なる刺激反射ではなく、「自分たちが何であるか」を問い、その答えに応じて自分たちを変えている。そしてその「問い」と「変化」の過程そのものが、意思決定の原型であると。
この仮説を裏づけるために彼が注目したのが、Paenibacillus vortex だった。このバクテリアはベン=ジェイコブ自身が発見・命名した種であり、彼の研究の中心的な実験対象となった。同じ遺伝子・同じ環境で培養しても、コロニーは毎回異なる空間パターンを形成する。個々の細胞が化学信号でやりとりし、自分がこの集団のどの位置にいるかを認識しながら遺伝子の発現を変えている。中心にいる細胞、周辺にいる細胞、後方の細胞、それぞれが役割を変え、全体の秩序に参加している。
さらに、同じ親株のコロニーと異なる親株のコロニーを隣に並べると、バクテリアがそれを「見分ける」ことが観察される。自分たちの内部状態を持ち、他者の集団状態に応じて異なる成長パターンを示す。クォーラム・センシングと呼ばれる仕組みでは、一定の密度に達すると化学信号を通じてコロニーが「われわれは十分な数になった」と互いに認識し、遺伝子発現を同期させる。そして同じ化学分子でも、栄養が豊富なときと枯渇しつつあるときでは、まったく別の反応が引き起こされる。つまり、文脈に応じて同じシグナルが異なる「意味」を持つのだ。
ベン=ジェイコブはこれらの観察から、いくつかの理論的枠組みを提示した。一つは、細菌の化学的コミュニケーションを単なる信号伝達ではなく「意味に基づく言語」として捉える見方だ。同じ化学分子でも、細胞の内部状態や過去の経験に応じて異なる意味が割り当てられる。つまり細胞が構文だけでなく意味論を持つ言語を持っているという主張だ。もう一つは、ゲノム自体が単なる設計図ではなく、環境の問題を認識し、転移因子(ゲノム内に蓄積された遺伝子の断片ライブラリ)を使って自らを書き換える自己修正システムではないか(ゲノム・サイバネティクス)という仮説である。
しかし脱人間中心主義的な思想を追ってきたわれわれから見れば、これらの主張には根本的な難点がありそうだ。「自己認識」「意味」「言語」「意思決定」といった概念はいずれも、人間の経験に引きつけたアナロジーとして使われており、細菌に適用する際の定義が曖昧なままだ。たとえば「同じ分子が文脈によって異なる意味を持つ」という観察は事実だが、それは「意味」なのか、それとも異なる入力に対して異なる出力を返す精巧な機械に過ぎないのか。意思決定の主体がどこにあるか、記憶がどこに宿るか。こういった問いには、観察だけでは答えられない。より厳密には、「関係の中に答えがある」という可能性を記述するための概念的道具そのものが、当時は馴染みが薄かったのかもしれない。
2015年に他界したベン=ジェイコブが遺したのは、完成された理論よりも、還元主義が覆い尽くした科学に別の道を切り開いた「問い」そのものだったと言えるだろう。集団的な自己認識、文脈に応じた意味の生成、コロニー間の相互識別と経験からの学習—これらの観察は、その後の集団知性研究に大きなインスピレーションを与え続けている。
さて、ベン=ジェイコブの議論には、もう一つの深い含意がある。それは「自己とは何か」という問いが、知性を考える上で本質的に重要だという示唆だ。彼の研究対象はあくまで、細菌単体ではなく細菌コロニー、ゲノムではなく「ゲノミックウェブ」であったのだが、実はこれにもゲーデルの影が及んでいる。ゲーデルの不完全性定理からは「あるシステムは、自分自身より高度なシステムを自己設計することはできない」という補題が導かれるのだが、もしそうだとするのなら、個体ゲノムが自分を根本的に書き換えることは原理的に不可能だ。そこで彼が着目したのが「協働」だったのである。ストレス下のコロニーでは、一部の細菌が膜を開いて外部の遺伝子材料を取り込み、別の細菌が溶解して自身の遺伝物質をコロニー全体に放出する。こうして形成される「ゲノミックウェブ」は、個体ゲノムにとってのパラドクスを解きうる高次のシステムとなる。つまり個体の限界が集合の必然性を生み出すのであり、彼の研究対象がコロニーやウェブであったのも必然であったと言えるだろう。
ただ、彼の議論は「個体が先にあり、ネットワークは後から召喚される」という順序を前提にしていた。しかし、「自己とは何か」をめぐるこの問いを、さらに根本から問い直す存在がある。それが菌類だ。菌糸体では個体が先にあってネットワークを形成するのではなく、ネットワークが先にあり、個体性はその特定の読み方にすぎない。菌糸は物理的に融合し(anastomosis)、「個体に戻る」という状態が原理的に存在しない。
ベン=ジェイコブが知性と「自己」の関係を問うたとするならば、菌類はその問いをさらに鋭化させるのではないか。この直感を軸に、次回は、菌類についての科学的知見を描き直したメルリン・シェルドレイクを訪れたい。