The Project Theory Probe Journal

Issue 3
Dec. 26 2023

自己組織化するプロジェクトを見たい

八木翔太郎

第3回 「私たち」の方法論 (エスノメソドロジー)

初号では、私たちはプロマネ用語なしにプロジェクトを語れないため「プロジェクトって何だろう」という単純な問いにさえ答えられないことに触れた。そして前号では、プロジェクトが人としての在り方と密接な関係があることに触れ、欠かせない側面の1つとして言説的実践を挙げた。複数の人がプロジェクトを「それ」として同一性を持って共有できるのは、発話によって「それ」の見え方・現れ方について表明したり、経験や他者の目を通じて認識を訂正し続けられるからであると。だからこそ、誰の目にも見えない「プロジェクト」という抽象的な存在についても、人は共に知覚して議論し合うことができるのである。

ただ、ここで疑問が湧く。我々は何を「プロジェクト」として認識しているのだろうか。

いや、この問いは誤っているかもしれない。これは認識する前から「プロジェクト」があらかじめ「在る」ことを不当に前提にしてしまっている。繰り返しになるが「プロジェクト」とは誰の目にも見えないのであるー果たして「プロジェクト」はそう呼ばれる以前から存在していたのだろうかーここから、問うべきかもしれない。

社会学者のハロルド・ガーフィンケルは前者を「対応説」、後者を「同一説」と呼んで区別した。対応説では「一方に具体的対象が存在し、他方に対象の概念的再現が存在する」とする一方で、同一説では「知覚された対象と現実の対象は区別されない」と整理したうえで、彼は後者の立場を採用するに至る。極端な話、知覚されることで初めてプロジェクトXが形作られているのであり、Aさんの考えるプロジェクトXと、Bさんの考えるプロジェクトXが別物であるという立場である。「プロジェクトX」の同一性はAさんBさん各々によって仮定されているに過ぎない。

永らく「プロジェクト」の存在を当然視してきたプロマネの歴史からすると、コペルニクス的転回とも呼べる逆転の発想かもしれないが、プロジェクトという概念に対応する具象物がないことを踏まえると、「プロジェクトはそう呼ぶまで存在しない」という発想こそむしろ自然なのではと思えてくる。

この場合「プロジェクトとは何か」という問いに答えがあるかも怪しくなってくるだろう。もし現場ごとに同一性を仮定していくものだとするとプロジェクトの定義などは一般化できないかもしれない。一方で、何かを「プロジェクト」と呼ぶことで組織されている秩序は確かにある。つまり「プロジェクト」そのものよりも「プロジェクトと呼ぶこと」によって可能になることの方が、プロジェクトという現象を理解する上では本質的に重要なのではないか。

プロジェクトは存在している (being) のではなく、成って (becoming) いるという着眼。正確には、私たち自身が成り立たせているのだから達成 (accomplishing) されているという発想。これは先述のガーフィンケルが興した、エスノメソドロジーと呼ばれる社会学的立場に通じている。私たち (エスノ) の実践がどのような方法論 (メソドロジー) に則って「プロジェクト」を達成しているかを明らかにすること。

前号のように人の能力と結び付けてプロジェクトを捉えるときから、すでにプロジェクトは「達成」されているものとして捉えていたとも言えよう。ここでの「達成」はいわゆるプロジェクトの「成功」とは異なる。プロジェクトが成り立ってること自体が奇跡であり、そのことを「達成」と呼んでいるのである。

「何を今さら」と思われるかもしれないが、「達成」できないケースは即「失敗」であることを踏まえると、ここにプロジェクトを上手く進めるヒントが隠れてるとは考えられないだろうか。

プロジェクトは会話のように当たり前のように組織されている。しかし、会話の原理を探究するのにエスノメソドロジーや会話分析の研究を待たねばならなかったように、いまプロジェクトの原理を明らかにする研究が求められていると言えるのではないか。次回はその原理を扱う前提の1つとして、そもそも人はなぜ未来の可能性について語り合えるのか考えてみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(3) ルール

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フライトデータシステム (FDS) にトラブル

八木翔太郎

Voyager 1 Credit: Caltech/NASA-JPL

NASA により1977年9月に打ち上げられたボイジャー1号は地球から最も遠い距離に到達した宇宙探査機である。地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が収められたゴールデンレコードをのせており、METI (Messaging to Extra-Terrestrial Intelligence) = Active SETI (能動的な地球外知的生命体探査) の例としても知られており、ヘリオスフィア (Heliosphere) とも呼ばれる太陽圏を突破した初の人工物としても知られるいる同機だが、現在困難に直面している。

打ち上げから46年が経過して、NASAはボイジャーに搭載されているフライトデータシステム (FDS) に問題が発生したことを発表した。現在、地球から約244億km (約163天文単位) 離れたところにあるため、地球との通信は片道だけでも22時間34分5秒かかり、そこからボイジャー1号に向けて送信したコマンドの返事が届くのは約45時間先となる。

プレスリリースによれば「ボイジャーが遭遇した課題の解決策を見つけるには、多くの場合、この問題を予期していなかった技術者によって書かれた数十年前のオリジナル文書を参照する必要がある。そのため、予期せぬ結果を避けるために、チームは新しいコマンドが宇宙船の運用にどのような影響を与えるかを理解しなければならず時間を要する」とのこと。

ボイジャーが事故に見舞われたのはこれが初めてではない。2022年にもボイジャー1号は姿勢制御システム (AACS) に問題を抱えてエンジニアが修復に数カ月を要したことがある。今回も解決にあたっては数週間以上が見込まれるとのこと。NASAはボイジャーが2025まで稼働することを見込んでおり、Deep Space Network (DSN) の活用により2030年代半ばまで探査機と交信が可能であることが見込まれている。

FDS ボイジャーに搭載されたフライトデータシステム (FDS) Credit: JPL/NASA

244億km離れた半世紀前のシステムにコマンド1つ往復45時間かけてやりとりするとは、まるでSF映画のようであるが、現在進行形で進んでいる現実のプロジェクトだから驚きである。ここで当初想定されていたミッションのスコープを大幅に超越していることに着目したい。だからこそ、半世紀前のエンジニアが「予期しなかった問題」に直面しているのである。それでもなお、プロジェクトが継続しうるのは、想定していないことに対して応答できる人間と、想定されてない動きを可能性として残している探査機の存在があるのではないか。

ここで、プロジェクト継続の必須条件はゴールでも計画でもない。互いに応答し合えることである。応答し合えるからこそ想定期間を超えて新しいミッションが可能となっているわけだ。その応答が不安定ないま、現在のNASAエンジニアは探査機の応答に応答している。すなわち、理解 (understand) に努めているわけである。いま彼らとっては探査機がまるで1つの宇宙のように映っているに違いない。また応答し合えること、共にプロジェクトを遂行できる関係性を取り戻せること祈るばかりである。

ハッカー文化の伝道師 3 ポール・グレアム

菊地玄摩

ポール・グレアムは、のちに買収によって Yahoo! Store となったインターネット・サービス Viaweb の創業メンバーであり、プログラミング言語 LISP の信奉者であり、著述家である。そう書いてしまうと、コンピュータサイエンスの博士であるだけでなく、哲学と絵画を学んだ経歴を持つことや、2000年代には Y Combinator を設立して後進のベンチャー企業を育てたことなどが欠けている、という感覚に陥る。ついその活動を列挙する誘惑に負けて、要約を避けてしまうような、多才さ、関心の広さを持つ人物である。しかしハッカー文化の伝道師という文脈においては、卓越したエッセイストであることが、やはり最も強調されて然るべきだろう。

エッセイ集ハッカーと画家(オーム社) は、ポール・グレアムのウェブサイトに掲載されたテキストの集成である。なかでも同名のエッセイハッカーと画家には、ポール・グレアムのハッカー観が直接的に綴られている。
ハッカーとは何か。それは創る者だ、とポール・グレアムは断言するところから出発する。建築家がコンクリートを使って建築を実現し、画家が絵の具を使って絵画を生み出すように、プログラミング言語を使ってソフトウェアを創る人々がハッカーなのだと。
それに続く記述は、ハッカーについての誤解を解くことに費やされている。大学や研究所はハッカーに科学者のように振る舞うことを求め、企業は会議の決定にしたがう技師として振る舞うことを求めるが、ハッカーは自らをそうだと思ってはならない、といったような内容である。ただし、ここで取り上げられるエピソードは、ハッカーの生きづらさを嘆くためにあるのではない。ハッカーを自縄自縛から開放し、創る者としての本性を目覚めさせるための、励ましとしてあるのである。本来プログラミングをする者は、画家が絵の主題を考えるように、ソフトウェアで何を解決するべきかを選択できるし、スケッチをするように、コードを書きながら自分が何を作りたいのか考えてよい、というように。

この語り口は、ハッカー界をそうではない世界に説明しようとする、スポークスマン役としてのエリック・レイモンドのそれとは違っている。創ることを通して思考し、成長する創造的な人は、誰もがハッカーであり得る。偉大なハッカーへの道のりは果てしないが、あらゆる人に開かれたハッカー像がそこにはある。その可能性の豊かさを楽しげに語る姿は、ひとりのハッカーであるポール・グレアムが、自らを祝福しているようでもある。「ハッカーと画家」が時代を超えて読まれるのは、ここに理由があるだろう。

今月の一冊: ルーマン 『社会の理論の革命』

八木翔太郎

異才の社会学者、ニコラス・ルーマンの「まとめ本」である。定価で1万円を超えるので躊躇われるが、それだけの価値があると思う。というのも、ルーマンは大量に執筆を行ったことで知られており、執筆リストだけで (翻訳も含めてはいるが) 優に200ページは超えている。その秘密は、彼自身が生み出した「ツェッテルカステン (Zettelkasten) 1」と呼ばれるアイデアの管理手法にあり、彼のファイリングキャビネットの引き出しのなかにはインデックスカードが約90,000枚ほどビッシリと入っていたという。「書き散らしている」と誰かが表現したのは少々失礼かもしれないが、この量の文献を纏め上げたこの書籍の価値は言わずもがなである。

さて、上記のような状況に加えて、社会をオートポイエーシス的に解釈する試みをしているルーマンの理論は内容としても難解である。しかも彼の理論は年を重ねるごとに変化し続けているので容易に批判できたものではない。個人的な意見だが、彼ほど世間から理解されてない社会学者は珍しいのではないだろうか。何を隠そう、私も学部時代、ルーマンといえば「コミュニケーション」を詳しく分析した社会学者くらいにしか思っていなかった。これは半分正しくて、半分間違っている。彼は確かに「コミュニケーション」を軸に社会を語っているが、逆のベクトルとして、社会が「コミュニケーション」のみから形作られているという強い主張のもと社会システム理論を構築している。

どういうことだろうか。例えば、それは彼の「コミュニケーションをするのは人間ではない。コミュニケーションだけがコミュニケーションできるのだ」という有名な命題にも表現されている。オートポイエーシス (自己創出) を提唱したマトゥラーナは「観察」という行為の積み重ねが生命現象をはじめとするオートポイエーシスを生み出しているとしたが、ルーマンは「コミュニケーション」という単位にそれを託しているのである。「コミュニケーション」とは単なる意味の伝達ではない。コミュニケーションは受領までを含む単位であり、そもそもコミュニケーションとして見做されないものは存在できないのである。例えば役所で、所定の形式内の申し込みは受け付けられるが、不備などで「エラー」として処理されるものもあれば、そもそも「存在していると見做されない」ような不平不満もあるだろう。このとき、何が有効なコミュニケーションかを選別するのは人間ではない。もちろん職員は不平不満を1人の人間として聞けるが、組織のコミュニケーションの俎上には載らないのである。つまり、組織のコミュニケーションが有効なコミュニケーションを選別しているという事態が生じている。だからこそ、組織をはじめとした社会システムは、どんな個人がコミュニケーションを担おうとも自己保存的に再生産されていくのである。

…と、まだ書籍の紹介に辿り着けていないのであるが、導入だけで大分紙面を食ってしまった。そもそも「まとめ本」の密度で667ページもある本書を1つの記事で紹介することが土台無理だったかもしれない。また別の機会にしっかりと紹介することとして、最後にルーマンとプロジェクトの交差点に触れて本稿を締めてみたい。もし組織が社会システムの1つであるならば、プロジェクトは社会システムの萌芽と見られるのではないか。ルーマンは初期の文献で「メンバーシップ」について厚く語っていたように、既に成立している社会システムを主題としている。しかしプロジェクトにおいては、誰をメンバーとするかが常に変化しているし、むしろ意識的にそのメンバーシップを拡張するために柔軟にコミュニケーションを変えていくところに実践の醍醐味がある。そして、それは人が自らのコミュニケーションを省みることができることの結果なのである。これはルーマンの言うところの「二階の観察」であり、まさに社会学 (的) なメタな視座なのであるが、そうした「コミュニケーションに関するコミュニケーション」がプロジェクトを可能にしているのではないか。このような実践を密に行うプロジェクトがどのように社会システムを形作るのか、もう少し本書を精読しながら考えてみたい。

1 余談だが Project Theory Probe のデジタルガーデンである Obsidian も、Zettelkasten と相性が良いことで知られている

Meetup! Dec.7 2023

12月7日に Project Theory Probe 初の Meetup! が開催された。コンピューターの黎明期に Homebrew Comuputing Club のメンバーが集った (Gathering) ように、ただ同じ場所で語り合うような場。当日の様子は動画テキストによる要約で公開している。

次回は3ヶ月後に開催予定。

このごろの Project Sprint

賀川こころ

コミットメントを明示する - todo と try

このコーナーでは、定例会議を活用したプロジェクト推進のためのフレームワーク「Project Sprint」の構築現場でたった今議論されている、ホットなトピックをご紹介します。第3回は、タスクとアクション、そしてアクションの2つのタイプを取り上げます。

タスクという言葉は、プロジェクトの中で各メンバーが与えられたり引き受けたりする「やるべき事項」と各メンバーが実際に手を動かす「具体的な行動」の双方を含む概念として捉えられることが多いでしょう。Project Sprint では、後者の「具体的な行動」を「アクション」と名付け、「タスク」とフラクタルな (タスクに包含される) ひとつの活動と捉えています。タスクの設定にはチームの期待が反映され、アクションの設定には実行メンバーのコミットメントが反映されます。同じ目的を共有する別個の視点から二通りに表現されたものを見比べることで、チーム内での認識の齟齬を発見・解消しやすくするのが狙いです。

Project Sprint における定義

タスク: 何らかの活動の推進や改善のためにやるべき事項

アクション: タスクを実現するための、作成物の生成を伴う身体的な行動

タスクに紐づくアクションを割り振る際や引き受ける際、チームからの期待と実行メンバーのコミットメントはできるだけシンプルに、かつ認識のずれの生じない語彙で表現できることが望ましいものです。Project Sprint では、アクションに todo と try という2つのタイプを設定し、それらをチームメンバー間の共通語彙とすることで、個々のアクションに対する認識ずれの早期発見と擦り合わせをよりスムーズにしようとしています。

Project Sprint における定義

todo: 具体的な完了の定義に対する共通認識がチーム内に明確に存在し、実行メンバーがその完了の定義に到達しないとチームに成果をもたらせないアクション

try: 実行メンバーが探索的に取り組んでなにかを発見すること自体がチームからの期待であり、事前に想定した完了の定義に到達しなくてもチームに何らかの成果をもたらすことができるアクション

※ todoの定義に当てはまらないアクションはすべてtryとして扱うため、tryに分類されるアクションの内容にはグラデーションが存在する。

このアクションタイプを用いて会話することで、実行メンバーのコミットメントがチームに明示され、アクションの工数や結果がチームの想定と大きく異なるのを未然に防ぐことができます。try の場合は当初設定される完了の定義が仮説的であるため、異なる結果が出力されることもありますが、try 的なアクションであることが事前に分かっていれば、チームに生じる混乱も少ないでしょう。実行メンバーの行動の変更可能性や変更の程度をチームが予め把握することで、実行メンバーの行動が周囲に与える制約や要件が見えやすくなり、周囲のメンバーもそれを踏まえてより自律的に行動できるようになります。

Editor's Note

菊地玄摩

Project Theory Probe Journal のいくつかの連載は、八木翔太郎さんと私が行ってきた過去1年の対話がベースになっています。八木さんは社会学や哲学、私はテクノロジーやアートの方面から対話を続けてきました。当初は面白そうな予感がありつつも、ここが一致しているポイントだとはっきりと説明したり、認識することはできていない状態から始まりました。それが対話ごとに近づいて、ついにこれだ、という地点までたどり着いたのです。この過程をトンネルの開通と呼んでいます。山の両側からそれぞれ掘り進んで開通したので、奇跡みたいなものだと感じます。

この活動 (Project Theory Probe と前身の Project Sprint Quest) はずっとそうなのですが、トンネルが開通した当人たちはその実感があるものの、それが何を意味するのか、何がどう面白いのか、対話の過程を共有してきていない人に向けて説明するのが非常に難しいのです。それまでの道のりを「まとめ」たい、とは思うのですが、言うは易しで、とてもできそうにありません。そこで私と八木さんを勇気づけたのが、Journal を毎月発行するというアイディアでした。開通に至るトンネルには、いろんな経由地点があります。その主な経由地を毎月ひとつずつ紹介していけば、12回くらいかけて開通地点まで行けるのではないか、と。
今回八木さんが書いているプロジェクトの同一性の話は、開通地点へ到達するための重要な経由地です。私のハッカー文化の紹介も、インターネットの発展を駆動した原理、を経由して、最終的には開通地点へ接続される予定です。これらの材料なしに、その先を話すことがなかなか難しいのです。ここからどこへたどり着くのか、楽しみにしていてください。

ところで、そのように Journal は過去の対話をなぞる形で進んできているのですが、開通後のトンネルはどうなったのかというとちゃんと続いています。最近は Twitter (X といったほうがいいんでしょうか) Space で毎週対話を続けていて、そこでは八木さんも私もまだよくわかっていない領域の話をしています。12月20日の対話は、エスノメソドロジーに対して、テクノメソドロジーという用語を立てて、トンネルの外側に広がっている両側には何があるのか、といった話をしています。

Journal にこの話が登場するとすれば、1年後か、それより先になるのでしょう。できればすぐにでも書きたいのですが、文書に書くような認識になるまでそれくらいかかってしまうのです。もし現在進行中の作業にも興味があれば、録音を聞いてみてください。