「プロジェクトとは何か?」という疑問から始まったこの連載だが、連載タイトルの通り、我々の目論見はプロジェクトが自己組織化していく側面に光を当てていくことである。「現象としてのプロジェクト」を探索するために、前号では実践者がどう未来と関わりうるかを確認したが、今回も別の側面を照らしながらもう少し寄り道を楽しんでみたい。
他にプロジェクトらしさはないだろうか。そもそも、なぜ「プロジェクト」と呼び合えるのだろうか。そこに少なからず A さんと B さんの間で「同じプロジェクト」を指しているといえるだけの自立した「何か」があるからだろう。でも目に見えないし、会社や組織と違って名前も図表もないことだってありうる。それでも、名指せるということは何かそこに固有の秩序があるということではないだろうか。この固有さと自立性はどこから来るのだろうか。
たしかにプロジェクトの秩序は社会規範に完全に従ったものではないはずだ。実際にプロジェクトは往々にして革新性をもたらすものが多く、自ら秩序を生み出していると言っても良い側面がある。このような自由さを与えながら、同時に秩序を与えるものとは何だろうか。
ロバート・ブランダムによれば、人は何かを認知するときに同時に推論も行っているという。たとえば「草」を認知する際には、「草は緑である」ということのみならず、「今日まで草は緑だったので、明日も草は緑だろうが、次第に枯れて朽ちるだろう」という推論も無意識に行っている。その証拠に、草が100年朽ちなかったら誰もが驚くだろう。つまり、認知には予測が含まれているのである。特に人の認知の多くが名指されることによって為されるのだから (e.g.「UFO だ!」) 、言葉を使うということはすなわち世界を予測しながら (秩序を与えながら) 生きていることに他ならないと考えられる。
ただし、ここで疑問が生じる。例えば各々の考える「秩序」が食い違ったりしないのかと。第3回で触れたように、同じ言葉を使っているからといって、名指されている事柄が同じとは限らない。これは、例えば「足し算」のような厳密な記号においてさえそうであることがソール・クリプキによって指摘されている。例えば 68+57=5 だと主張する人がいて、大真面目に「125 以上の演算では必ず 5 とするのが足し算だ」と考えていたとする。なるほど、125 以上の演算をしてこなかったならば、こういう人が出てきてもおかしくはない。これは、個別の例をもとにルールを導く (帰納する) 以上必ず付きまとう問題だが、このような例をどこまでも排除しきれない以上、厳密な言葉でさえその内容を規定できないことは明らかだ。このように、ある言葉をもって全員が異なる内容を想起しているならば、個々人が言葉を使って世界を秩序立てて認知しているとしても、集団として秩序が生まれるとは限らないのではないか…?
これに対して、クリプキは消極的解決を与えている。上記の足し算の例のように、反応が一致しているからといって同じ推論をしているとは確認できない。しかし、反応が一致していなければ異なる推論をしていると見て間違いないだろう、というものだ。つまり、人はすれ違ったときにはじめて異なる認知をしていたことに気付くのである。逆に言えば、すれ違うまでは人はみな同じ認知をしていることを前提にして社会実践を営んでいる。これを盛山和夫は「初発仮説」と呼んだが、「世界は私が見えているように在るという仮説に基づく以外に、いかに人は行為すべきだというのだろうか」。
こんなナイーブな仮説はすぐにボロが出そうなもの。ところが「初発仮説」は綻びを隠ぺいする。例えば、「草」が豚を指していると考えている人がいたとする。もちろん、その人はいずれ指摘されて全ての人と同じように「草」を草と認識するに至るのであるが、指摘を受けるまでは全ての人が「草」が豚を指していると思い込んでいるのである。不思議なことに、彼にとって指摘される前も後も、全ての人が同じ認識 (ルール) をしているという思い込み (初発仮説) は変わらないのである (!) 。かくして、言葉は自由に世界を秩序付けることを可能にしながら、しかも個人間の食い違いを隠ぺいする。本人にとっては常に、世界は他人と同じものなのだ。
さて、以上の話は何も草のような「モノ」の認知に限らない。未来に起こる「コト」、やろうとしている「コト」などにも当てはまる。人は能動的に、そうした「コト」を言葉で示すことによって未来にまで秩序を拡げながら、認知のズレをすり合わせているのである。その指し示す対象が「我々」にまで及んだらどうだろうか。「我々」自身に関する推論は、アイデンティティやコミットメントとして規範にもなってくるのである。そこに社会生活の日常的実践や、組織固有のものとは異なる、独自の秩序を生み出す萌芽があることは十分に考えられるだろう。
以上、プロジェクト特有の秩序がどこから来うるのか、少し認識論に遡って考えてみた。秩序に関して語るべきことはまだまだ多い。とはいえ紹介したいプロジェクトの側面もまた多い。次は、プロジェクトの特徴とは言わないまでも、プロマネが必要となる契機でもある「複雑性」について考えてみたい。