The Project Theory Probe Journal

Issue 7
Apr. 30 2024

自己組織化するプロジェクトを見たい

八木翔太郎

第7回 場とは何だろう

前回、プロジェクトにおいて特徴的な、というよりも否が応でも顕在化してしまう社会の重要な側面として「複雑性」について触れた。複雑性というのを、複雑性科学の語り口調から想起されるような客観的な性質ではなく、社会 (意味空間) の多重性によってもたらされていると考えた方が、それらを寄り合わせているプロジェクトの営みをよりよく理解できるのではないか、と。

では、この寄り合い (Assemblege) の場はどのようにあるべきなのだろうか。こう問うときに、われわれは面白い転回を試みている。多重な秩序の絡み合った結果として「場」を捉えるのではなく、どのような「場」ならば併存する秩序 (Multiplicity) を束ねうるのか。そもそも「場」に働きかけることなどできるのだろうか。「場」を少なくとも対象として扱うには「場」とは何かを問わずにはいられない。

しかし、この問い。一筋縄ではいかないことに気付かされる。例えば、経営学の文脈に「場」の概念を紹介した野中幾次郎は、それを「共有された動くコンテクスト (shared context in motion) 」と説明している。しかしながら、共有されているから社会的であり、共有されていないものは含まれないという説明はト―トロジカル (同語反復的) であると指摘されているし、それは実際、現場で実践することを困難にしている。

これを回避するには「場」を人々や物事が関わり合っている動的なプロセスとして理解する必要があるが、これは Project Theroy Probe が長期的に取り組むべき規模のテーマでもある。そこで、本稿では真正面に「場」とはを説明しないまでも「場」の構造をもとに、どのようにすれば個が活かされるのかについて論じた清水博の思想について触れてみたい。

長らく生物学を研究してきた彼によれば、生命には「遍在的な場」と「局所的な場」が存在するという。例えば、身体のなかで活動する細胞を想像すると良いかもしれない。これらは相互に活かしあっている。清水はこれを人間にあてはめて、自己の卵モデルを提示した。前者を白身、後者を黄身とするならば、複数の卵が重なり合ったときに、それぞれの場がどのようになるかがイメージしやすい。白身が互いの区別がつかないほどに交じり合いながら、黄身はあくまで独立を保つのである。

清水博 「場の思想」東京大学出版会

この黄身にあたる「局所的な場」を活かしているのが白身にあたる「遍在的な場」に他ならない。すなわち、全体と接続しながら自身を表現しているときには、各々は自律的でありつつ活かされている状態である。

ここで注意したいのが、単に「大きな場」があるからこそ「個」が活きると言ってるのではないという点だ。こう表現すると、ともすれば場と個体とが分かれて認識されてしまう。だが、清水の述べる卵モデルは自己の「二重存在性」である。つまり「個」の境界を広くとって「場」も含めて自己 (生命) だと考えてはどうか、という提案をしているのだ。

さて、ここで「遍在的な場」のことを「全体」と言っていて、「全部」と言わないことは注目に値する。部分をすべて集めたときにできるのは「全部」であるが、「全体」はそれ以上のものを指している。だからこそ、「個」は全体と接続できるのである。彼は「全部」に基づいたパラダイムを「ブロック型」、「全体」に基づいたパラダイムを「箱庭型」と呼んで、いかに現代がブロック型の病理にさいなまれて閉塞しているのかを力説している。一方で、日本文化が「場」の文化と言われるのは「全体」を基礎としているからであり、そこから学ぶことは数多くありそうだ。

個が活き活きと表現できるのは箱庭型であるが、時間が経つと配置が固定化していきブロック型の閉塞感を生み出してしまう。それが閉塞しないのを担保するのが、開かれた場、すなわち「出会いの場」である。清水は一期一会の人生を賭けた「出会いの場」と、「群れ合いの場」をあえて区別している。言い換えるならば、全人格的な出会いか、表面的な出会いかの違いだろうか。全人格的に出会おうとすると、ときには前提が全く違うという事実に直面してしまう。だが、それをも踏まえて相互理解ができた暁には、「遍在的な場」を共有できているに違いない。そして、その際に「遍在的な場」は、それは当初各々が考えていた「全体」よりも広い「全体」を指し示しているだろう。

清水によれば、それを最大限に拡げた場が「純粋生命」であり、それと接続した表現は創造的である。一方で、そこに近づくような全人格的な出会いを実現するのが「慈悲」の心だという。

余談だが、そしてこれは個人的な連想だが、「慈悲」を英語でコンパッションと翻訳すると、他者への理解やケアといった多少実践的なニュアンスが加わってくる。他者 (あるいは自己) を背景から理解して許容しようとする実践。清水が重要性を強調する慈悲心を、そこに繋げるのは強引かもしれないが、仮にダナ・ハラウェイの豊穣の倫理や、多様性を活かすケアの実践などもつながってくるとしたら面白い話ではないだろうか。そのあたりは別稿に譲りたい。

今回は、あくまでイメージではあるが、プロジェクトにおいて多重に絡み合う「場」の構造について清水博の理論を中心に深ぼってみた。次号では、ここまでのプロジェクトの性質を鑑みながら、当初の問いである「プロジェクトとは何か」に立ち帰って改めて思考を深めてみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(7) おじさんの基準

ハッカー文化の伝道師 7 アリスター・コーバーン

菊地玄摩

アジャイルの解説を試みる書籍シリーズ「アジャイルソフトウェア開発」の企画者であり執筆者、あるいは KPT (Keep Problem Try) メソッドの発案者として知られるアリスター・コーバーンは、アジャイルマニフェストに署名した17人の中でも、シーンを代表する筆頭のひとりに数えられる人物だろう。

IBM とスウェーデンの銀行システムの開発現場で得た経験を背景に、コーバーンがまとめた各種の知恵の集成は、いずれも明瞭な構成と、現場主義的で率直な表現に貫かれている。データモデリングの専門家に向けて書かれた「ユースケース実践ガイド」(翔泳社) はもちろん、技術職ではない役員やプロジェクトマネージャーを読者に想定しているとされる「アジャイルプロジェクト管理」(ピアソン・エデュケーション/桐原書店) でさえ、その冒頭はこれを知らなければアジャイルを手がける資格なし、といった趣のシリアスなオブジェクト指向プログラミングの解説に費やされている。決して読みやすいものではないが、その思想的な背景が、妥協のないプロフェッショナルの現場から発していることがよくわかる。

2001年、思想を共有する複数の方法論が合流してアジャイルマニフェストが起草されるとき、コーバーンは「クリスタル方法論」をもってそこに参加していた。しかしクリスタル方法論には、エクストリームプログラミングやスクラムとは単純に並べられない特殊性がある。方法論でありながらもその不可能性から出発し、方法論構築の方法論として提示されているのである。
クリスタル方法論は、方法論を組み立てるために必要な部品や、コミュニケーションの基盤になる見取り図を提供しつつ、コピー可能な全体像を描くことを避けているように見える。画一的なパッケージを配る代わりに、あらゆる組織やプロジェクトに、その事情に応じて意識的に、自らの方法論を構築することを求めているのである。そのぶん、アジャイルの原則や、思想的な核心を力説している。

コーバーンのアジャイルにまつわる主張は、どんな状況でも見失うべきではない原則と、小さくても確実な前進をつくる技術の両面によって提示されているように見える。そして、コーバーンの語りに頻繁に登場する「ゲーム」という語に象徴されて、一見両極端な材料のあいだにひとつの世界が立ち上がる。ソフトウェアの力を借りてビジネスを成功させるために「ソフトウェア開発ゲーム」を円滑に進めよう、プロジェクトは与えられた条件下でコミュニケーションをどう発展させるかという「協調ゲーム」である、など。これがコーバーンの思い描くアジャイルが実現する世界なのだろう。

ゲームは、パターン化した実践によって制することはできない。ゲームに必要なのは適合である。ゲームを成り立たせている環境と、その結果を左右する力学を正しく理解し、プレイヤーがそのなかで多種多様な状況に対応できるようにすることが必要である。この考えは結果として、ソフトウェア開発を、ビジネスの遂行手段という地位から開放している。ソフトウェアは自ら発展するとき、もっとも成功するのである。このあらゆる自律・協調の議論に通じるであろう存在論の転換が、コーバーンの主張の根幹に据えられているように思われる。自ら参加し、楽しむことによって成功する現場。それこそがソフトウェア開発の現場で見出され、アジャイルによって昇華された、ハッカー文化の美徳であろう。

今月の一冊: Empirism & the Philosophy of Mind ウィルフリド・セラーズ

八木翔太郎

前回ジョン・マクダウェルの本を紹介したが、その重要な前提となるウィルフリド・セラーズの本を紹介していなかったことに気が付いた。セラーズは、ローティやブランダムなどの新しい潮流のプラグマティズムの祖の1人であり、言葉を使うこと (言説的実践) を基礎とした認識論を展開した人物である。

この本は薄いのだが (全181ページ) 、なんとそのうち74ページがローティの前書きとブランダムの解説だ。ページ数の少なさと、 (孫) 弟子の文章のサンドイッチが、逆に本書の重要性を物語っている気がする。この本が攻撃しているのは、観察前にデータが存在しているとする実証主義者である。彼はこの立場を「所与の神話 (Myth of the Given)」という言葉を使って痛烈に批判するわけだが、とてもシンプルで、しかし予想外の結論に導いてくれている。

まず、セラーズは実証主義者が擁護している3つの命題を並べてみせた。

  1. Xさんが「赤い」という感覚内容「S」を感じたということは、Xさんが「S」とは赤さであると非推論的に知っていることを意味する
  2. 感覚内容を知覚する能力は (後天的に) 獲得されない
  3. 「x は F である」といった形式の分類的な信念を持つ能力は (後天的に) 獲得される

どれも正しいと思えるような命題である。A に関して「非推論的に」というのは外部からのインプット (知覚) によって把握していることを指していて、「赤さ」の内実というのを説明しろと言われたら言葉に窮してしまうことからも、真だと言えそうだ。B に関して、こうした能力は確かに努力して得たものではなく先天的だと見做せそうなので、真だろう。C に関して、これは概念化が現実そのもの以上に普遍的な分類了解を含むことから、学習を経る必要があると考えられ、これも真だと考えられる。

かくしてセラーズ曰く、データの観察を信じる実証主義者はこれら3つを基礎にしながら、人が客観的な世界を知覚しており、かつそのようにして感覚世界を分析すべきだと信じている。しかし実のところ、この3つは相矛盾しているのである (!) A かつ B ならば C が成り立たず (全て先天的に知っているはず) 、B かつ C ならば A が成り立たず (非推論的ではないはず) 、A かつ C ならば B が成り立たない (後天的なはず) 。

しかし同時に、どれか1つが欠けてしまっても問題が生じてしまう。A が欠けることは、知識の根拠を失うことに等しい。B が欠けることは、日常的に前提にしている共通感覚 (五感、感情、残像、かゆみ等) に疑問を差しはさむことを意味する。C が欠けることは、実証主義者の唯名論的な考え方を危ぶませてしまう。

かくして感覚データの実在をナイーブに信じている実証主義者の前提はくつがえされてしまう。つまり所与にできるものはないーゆえに「所与の神話」だったということである。

セラーズの「異端な」提案は、赤いものがあるという感覚 (sensation) を知覚的・認識的な事実として見てしまう衝動 (これが上記 A-C の矛盾を生んでいる) をグッとこらえて、独自の文法を持つものとして捉えてみようというものだ。「X は φ だ」だと述べたとき、それは実は「X は Sさんにとって φ に見える」という主張を言い換えているに過ぎないと考えてみてはどうか。実際に感覚内容φが存在するかどうかの事実確認はできず、もしそうしているように見えたときには「通常の基準で通常の観察者にとって X は φ に見えるだろう」という主張に過ぎないと考えてみてはどうか。

「これは青いネクタイだ」と主張した店員が、翌日、外にそれを出したら緑に見えたとして、おそらく彼は「店内では青いネクタイに見えたが、外では私には緑に見える」と主張を改めるだろう。これは、こうした命題の表明 (青いネクタイだ) が、観察の表明にとどまらず、その真実性の主張を含んでいることを示唆している。ただ観察者と観察条件を省略可能であるようなものが「青いネクタイだ」という直接的な表現に耐えられているに過ぎない。これは真実がいかに規範的な領域に属するかを示している。

つまり、非推論的 (感覚的) であるということは、一般的に考えられているように他の信念と関係がないわけではなく、むしろ状況と直接的な関係があるということであり、概念のネットワーク (理由の空間) と密に関係しているということだ。先ほどの規範的な側面を加えるならば、主張が意味を持つためには正当化する活動 (言語ゲーム) に参加している必要がある。「実証的な知識は合理的だが、それは基礎 (所与) を持つからではなく、逆に全ての主張を反故にできる (全て一遍にではないが) からこそである」ということだ。

こうしたセラーズの主張が (意味論的ではなく) 規範的言説的に繋がっていくのは容易に見て取れる。ブランダムが「私にとってヒーローは (セラーズ) 唯一人だった」と述べていた理由がこれで少し分かった気がする。新しいプラグマティズムの思想の源流をこの本から確かに確認できるだろう。

フロンティアとは何か

八木翔太郎

先端的なプロジェクトを取り上げるなかで、プロジェクトの側面を捉えようと試みてきた本コーナーだが、前号では人類のフロンティアである宇宙開発のプロジェクトにおいても、プロジェクトっぽさが比較的薄れているものがあるのではないかと触れた。

本コーナーで最初に触れたプロジェクトは Parker Solar Probe と呼ばれる NASA のプロジェクトである。「太陽に触れる」という合言葉のもと進められているプロジェクトだが、これは何が本質的に違うのだろうか。

NASA’s Goddard Space Flight Center/Mary P. Hrybyk-Keith

Project Theroy Probe に先立って、よく議論していたのはプロジェクトには2つの方向があるのではないかという話である。1つ目は、抽象から具体に落としていく流れ。2つ目は、具体ではなくより抽象を目指していく流れである。左から右に具体化していくダブル・ダイアモンドをイメージするならば、前者は右向き、後者は左向きの流れに該当する。

The Double Diamond by the Design Council is licensed under a CC BY 4.0 license.

右向きの流れは、確かにプロジェクトっぽくはある。ふんわりとした要件を具体化して実装してリリースする流れ。しかし、一方で右だけに進むプロジェクトは果たして冒険心や探索に溢れる「プロジェクト」といえるのだろうか。逆に左向きの流れは何を意味するのだろうか。

左向きの流れは、例えば問い直しのようなプロセスを示していると考えられる。言い換えれば、既成概念を手放して異なる在り方を探索するような行為、あるいはインサイトを探りに行くような行為が該当するのではないだろうか。こういう動きがあるところには、新しい可能性だったりイノベーションが生じているような気がする。

例えば、Parker Solar Probe では「太陽に可能な限り近づく」ことで何が明らかになるのかを探索するために灼熱に耐えうる人工衛星が打ち上げられた。もちろん、裏で物理学者が数多く仮説を持っているのだろうが、それを手放してみないことには十分に観測したデータから学ぶことはできない。逆に言えば、そのような謙虚さが、巨額な費用とリスクを負ってでもなお人工衛星を飛ばすという帰結に現れているように思われる。そこには、たどり着かない限り分からないことがあるという自覚、いわゆる無知の知があるだろう。

この「左向きの流れ」という特徴に意識的になると、われわれは「フロンティア」と呼んでいたものを改めて定義し直さなくてはならないことに気付かされる。フロンティアとは単に誰もやってこなかったことではない。より正確には、「認知の限界」を差しているのではないだろうか。それは何も宇宙に限った話ではなく、深海、地下、量子世界など色んな場所にフロンティアが存在することを示唆している。

プロジェクトにおいては、そこに「実際に赴いている」という点も重要であろう。単に望遠鏡を覗き込んで新たな発見をしているのではプロジェクト感は薄れてくる。実際に到達する、あるいは実現されてしまったことで、新たな地平に辿り着いてしまう状態。だからこそ、われわれは新たなプロトタイピングや、探査機打ち上げに、大きな関心を寄せてしまうのかもしれない。

このごろの Project Sprint

賀川こころ

個人の期待をプロジェクトの起点にする

プロジェクトをよりよく進めるにあたって、誰か1人にリード役を背負わせるのではなくチームメンバー全員がプロジェクト推進の担い手でありたい。そのために、与えられた仕事に人が合わせるよりも、メンバー同士の違いを尊重しそれぞれの個性を活かすことで、より創造性豊かなプロジェクトを実現したい。これが Project Sprint のベースとなる価値観です。

「プロジェクトチームの意思がプロジェクトにおけるあらゆる事柄を決定する」と Project Sprint でも記述していますが、プロジェクトチームがチームとしての意思を持つためには、まず個々のメンバーが自分の意思を自覚する必要があります。

物事を考えるときのスタンスとして、この世には観察・分析可能な絶対的な真実や真理があり、主体はそれら客体と分離されているとする実証主義的なスタンスと、主体と客体は相互依存関係にあり、ものの見方や認識はその関係性の上に成り立つ主観的なものであるとする相対主義的なスタンスがあります。

プロジェクトにおいて、プロジェクトストーリーを設定するためのアイデア出しをしたり会議のアジェンダを記入したりするといった、なんらかの解釈を求められる場面で、つい実証主義的な思考回路で「この場における正解」「プロジェクトを外側から眺めたときの最適解」を求めようとしてしまうことは、誰しもあるのではないでしょうか。けれど、最初から実証主義的にプロジェクトを客観視して説明しようとしても、手が止まってしまいがちです。「自分事として考える」という言葉に違和感を覚える人が多いのは、実証主義的な世界の主体となることをいきなり求められる戸惑いからでしょう。

プロジェクトの中で各メンバーが真に個性を発揮するためには、それぞれの立場から自分自身を主体として相対主義的に考え始めることが重要です。プロジェクトストーリーに対するアイデアであれば、まずはプロジェクトに対する期待や欲望といった個人的な感情の発露でかまいません。会議のアジェンダ出しであれば、メンバー個人が体験したり経験したりした出来事を、その当事者の個性 (専門性と言い換えてもよいでしょう) によって解釈した上でチームに共有することこそが重要です。その際にも、「このアジェンダを提出することを通して、どういった状態になることを期待しているか」を考えることで、書き始めやすくなります。そうして得た素材をチームに共有するという主体と客体の分離プロセスを経ることで、個人の意思はチームメンバーやチーム外の組織といった主体以外の存在にも一定程度理解可能なものになります。そのあとで、実証主義と相対主義を行ったり来たりしながらチューニングを行っていきます。

「期待」という言葉は一見ポップでファジーなようですが、ポジティブな気持ちで、ナチュラルに相対主義的に物事を考え始めるうえで非常に有効です。なんらかの解釈が必要な際、ぜひ一度、「自分がこのプロジェクトやタスクに期待することは何か」から考え始めることで、相対主義的な世界を体験してみてください。それが、プロジェクトで個性を活かすことにもつながります。

Editor's Note

菊地玄摩

Project Theory Probe Journal の各連載は、大きなテーマを共有してスタートしつつ、その月に何を書くかについては各連載の書き手が独自に設定しています。ですから時間軸を共有しない進行になるはずなのですが、結果を見てみると互いに申し合わせたような内容になることが1度や2度ではなく、驚いています。今月も、チームと個人の相互補完的な関係や、それを可能にする場についての話が出そろいました。チームメンバーに内面化された、カリスマによらないリーダーシップは、どのように可能になるのか。その特集号のようです。

アリスター・コーバーンの「アジャイルソフトウェア開発」(ピアソン・エデュケーション/桐原書店)に、「反省会テクニック」という節があります。「アジャイルと自己適応」を説明する第5章で紹介される、最後のテクニックです。4ページ足らずのこの簡潔な記述が、その後広く知られることになる KPT (Keep Try Problem) の最初に提案ということになります。

そこで描かれているのは、次のサイクルにおいても続ける価値のある活動は何か、という問いにチームが意識を向ける様子です。現サイクルの良かったことは何か、という問いは、Keep というフレームを通して、私たちの良いところは何か、という目線に変換されています。ここでは Keep「すべき」、というニュアンスはふさわしくないでしょう。チームは Keep「したい」ものに注目します。チームの良いところは何ですか?という質問に答えることは難しくても、次のチャンスにも続けたいと思えることは何ですか?という問いであればいくらか考えやすい。アジャイルのタイムスライスとイテレーションのマジックをうまく活用しています。

次に続く Try も同様です。私たちのよい部分 (Keep) の延長にどんなものがあり得るか。これでチームの将来がより楽しみになります。そして最後に、Problem を扱います。コーバーンは、Problem はできるだけ小さく簡潔に、と強調しています。なぜなら問題を解決することは、よりよいチームになるために役立つことではあっても、それ自体に焦点を当てるべきものではないからです。

今回コーバーンの言葉を遡ったことで、 KPT という広く知られたシンプルなテクニックの中に、アジャイルが持っている精神を再発見することになりました。それは、私なりに言うなら、次には私たちはもっと良くなろう、という意志をもつことです。アジャイルは、よりよいソフトウェア生産を実現したいという意欲に焦点を当て、それを肯定し、チームの不断の成長を目指すという意味で、自己目的化したプロセスなのです。

アジャイルを何かを達成する「手法」としてだけ捉えてしまうと、この精神を見過ごしてしまように感じます。アジャイルが支持されるのは、何かの目的に対して最適であるとか、有用だからではなく、今日の共同体を考える上で不可欠の有り様と対応しているからではないでしょうか。Issue 7 はそれを可能にする力を探す試みになりました。秩序の共存する場、ゲーム、個人的な期待の表明、分からないことの自覚、もっと良くなろうという意志…これらを束ねる、明瞭な表現が見つかるとよいのですが、今月はここまでです。

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