The Project Theory Probe Journal

Issue 6
Mar. 31 2024

自己組織化するプロジェクトを見たい

八木翔太郎

第6回 複雑性とは何か

この連載を始めてもう6回目になるとは驚きだ。これまで多様な側面からプロジェクトという現象そのものに光を当ててきたつもりだが、不思議と通底するものが見え隠れしているのを感じる。今回はプロジェクト・マネ―ジャーが苦戦しながら対処している「複雑性」とは何なのかを考えてみたい。

デンマークの有名なビジネス・デザインスクールであり、クリエイティブな起業家・PM 人材を輩出する Kaospilot の校長、クリスター・ヴィンダルリッツシリウスも「複雑性」をテーマに博論を執筆しているように、実に探究し甲斐があるテーマだ。複雑性への対処はイノベーションひいては組織経営にも大きな影響を持っていると言えるだろう。

ところで「複雑性」とは何だろうか。ここで、複雑性を分解してみたり (e.g. ステーシー・マトリクスManagement 3.0 の Structure-Behaviro Matrix) 、分類してみたり (e.g. クネビンフレームワーク) することも出来るだろう。しかしながら、複雑性というのは果たして「分解」したり「分類」できるほど外在的なのだろうか。

われわれが普段「複雑」という言葉を使うとき、その基準はかなり主観的であることが多い。辞書にも「物事の事情や関係がこみいっていること。入り組んでいて、簡単に理解・説明できないこと (デジタル大辞泉) 」とある通り、そもそも認識主体であるわれわれの理解・解釈を抜きには語り得ない概念でさえあるのではないか。そしてその解釈によっては、シンプルなものも複雑に、あるいはその逆にもなり得る。つまり、この両極端の性質が同じものに併存しているとさえ考えられるのである。

社会学者のジョン・ローと身体人類学者のアネマリー・モルが共同編集した「Complexities」と題された本によれば、「複雑性」は様々な秩序が同居している「多重性 (multiplicity) 」の結果に過ぎない。だからこそ本書のタイトルは複数形なのだが、例えば、航空機の開発が複雑なのは、空を飛ぶための力学的な秩序だけでなく、乗客の快適性という秩序、パイロットの航空技術を生み出す人材開発の秩序、いかに安価に運用するかという経済的秩序など、挙げれば切りがないほどの様々な秩序の結節点を成しているからである。様々な秩序同士が絡まり合っているさま。こう捉えるならば「複雑性」を単なる形容詞としてではなく、現実に対する解釈あるいは向き合い方として考えた方がしっくり来るのではないだろうか。

プロジェクトの重要な概念の1つに「ステークホルダー」があるが、そもそもなぜ彼らが利害関係 (ステーク) を持っているのかと言えば、彼らの秩序 (スペース) を背負っているからではないか。例えば、校長であり、母親であり、日本人であり、といったアイデンティティとともに、その背景となる秩序 (システム) を引き受けているのである。むしろ根源的には「スペースホルダー」であると表現した方が良いのかもしれない。そして、これは人間のみに該当するわけではない。モノであっても、それが意味づけられて秩序を背負っている限りにおいて「スペースホルダー」であると言えるだろう。

プロジェクト固有の「秩序」があるのだとしたら、こうした様々な併存する秩序 (Multiplicity) を束ねているはずである。David Guile と Clay Spinuzzi はこのさまを「Assemblage」という概念を用いて説明している。プロジェクトが作成物を媒介として推進できるということは、すなわち、そこに関わる様々な秩序のいずれにとっても作成物が許容されているということである。言い換えれば、プロジェクトではモノを創り出すことによって、多くの秩序が共存する新たなスペースを作って、寄り合わせている (Assemble) とも言えるのである。

"That which is complex cannot be pinned down. To pin it down is to lose it."
複雑なものは明確に定義できない。定義することはそれを失うことに等しい。

これは著書「Complexities」の導入章を締め括っている文章である。もしも複雑性が現実の「多重性」の結果であり、むやみに単純化することで失ってしまうのであれば、あるがままに扱っていく実践が必要となってくる。それには多様な秩序を認めつつもその共通となる新たな秩序を生み出していく仕組みが必要だろう。言い換えれば互いの「スペース」に配慮しながら共存できる新たな「スペース」を作っていくことこそが、複雑性 (multiplicity) に対処する方法に他ならないのではないだろうか。次回は、そのスペースこと「場」について考えてみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(6) 作成物

ハッカー文化の伝道師 6 マイク・ガンカーズ

菊地玄摩

UNIX は、息の長いオペレーティングシステムの系譜であるだけでなく、ハッカーの自己像を左右する文化圏の重要トピックのひとつであり、いくつもの歴史的な騒動を経験してきている。そのビッグワードをタイトルに掲げて1994年に出版され、古典として読まれている本に「UNIX という考え方」(オーム社) がある。その著者がマイク・ガンカーズである。

ガンカーズは「The UNIX Philosophy (原題)」を、その9つの教義を通して説明する。スモール・イズ・ビューティフル、効率より移植性、一つのことをうまくやろう、できるだけ早く試作を作成する…など一連の教訓と、その根底に流れる主義の解説である。それは、ゲームを移植したいという個人的な動機によって生まれ、後にソフトウェアコミュニティによって育てられた歴史的経緯や、それ自体が小さなツールの集合体として成立している技術的なありようを、なぜそのようにあるのか、どのように扱うと壊れてしまうのかを提示することで部分と全体を再帰的に描き出す、巧妙なレトリックである。「イノベーションの神話」のスコット・バークンは誤解から出発して真実まで読者を案内しようとするが、「UNIX という考え方」は全く逆に、UNIX を支える精神を、姿そのままに描いている。

ガンカーズは、「The UNIX Philosophy」の10年後に「Linux and the Unix Philosophy」(Elsevier) と題した改訂版を出版している。ガンカーズはこの著作の中で UNIX 哲学の解釈を拡大し、Linux と Windows を代表例とするオープンソースとプロプライエタリの対立、サンマイクロシステムズの Java の成功、エクストリームプログラミングの台頭など、90年代に起こった広範な現象を、UNIX 哲学の潮流の中に位置づけようと試みている。
それらは UNIX なのか?と問うてしまうと、そうとは言い切れない。大雑把にすぎるという批判は免れないだろう。しかしガンカーズの関心が、その背景にある、見出されるべき信条にあるとすれば、UNIX はそのための入り口にすぎないと考えることができるだろう。UNIX だけではない。インターネット、オープンソース、アジャイル、ハッカー…そのどれもが、信条そのものの呼び名としては、不十分であるということは認めなければならないが、しかし、それらの背後にある何か、と呼ぶ以外にどうすることが可能だろうか? UNIX を通してそちらの世界を案内しよう、その存在を祝福しようというガンカーズの試みは、この困難さの上にある。

ところで、UNIX との関わりについて、ガンカーズのプロフィールには Digital Equipment Company (DEC) 社のエンジニア時代に手がけた Ultrix Window Manager (uwm) の開発が挙げられている。uwm は DEC 社のコンピュータ製品で動作する UNIX の派生バージョン、Ultrix で動作するグラフィカルユーザーインターフェイスの実装で、のちに X Window System の標準インターフェイスとして広く使われた。これは確かに、DEC 社のエンジニアとしての職務を超えた、UNIX 生態系への貢献と言うべきものだろう。

しかし uwm 以外の業績について、社内文書の検索システムや、その後在籍した企業における在庫管理システムなど、業務アプリケーションのプロジェクトへの関与がいくつか紹介されているものの、それらが UNIX の歴史の本流を成す活動であるかというと、そうでもないと言わざるを得ない。UNIX 哲学の語り手という看板に比較すると、ガンカーズ本人のキャリアは UNIX に対して周縁的な位置にある。
このことは「UNIX という考え方」が30年にわたって、その伝統を知るために読むべきものであり続けた、重要な背景になっているように思われる。思想の境界に立つことこそ、正しく伝道師であるために必要なことだろう。ガンカーズのように UNIX を生み出した「何か」を見つめ、その魅力を語ることは、コミュニティの中心にいる有力ハッカーであればあるだけ、簡単ではないはずだ。

今月の一冊: Mind and World ジョン・マクダウェル

八木翔太郎

対象が先にあって認識できるのか。それとも認識感覚が先にあって対象を認識できるのか。おそらく、このような議論は哲学史の中で繰り返し議論されてきたに違いない。我々は一般的には対象が先にあると考えている (だからこそデータに語らせようとする) 。でも考えるほどに認識感覚がなければ対象を認識できないことに気付く。

それでは、どちらが先なのだろう。対象は実際にそのように「ある」のだろうか。それとも単に我々の感覚がそのように「ある」と思わせているだけなのだろうか。これはニワトリ卵のように決着がつかない議論のように思えるし、それで何ら問題がないようにも思われる。しかし、何を世界の現れの基礎とすべきなのかは哲学的には大問題だろう。やはり人は何か確固とした基礎、あるいは前提 (所与) を求めてしまう。

この問題に 「所与の神話 (Myth of the Given) 」という鮮烈な表現を用いながらひとつの決着をつけたのが、認識論でも有名な哲学者ウィルフリッド・セラーズである。彼は、そのように「ある」ということ自体ではなく、そのように「ある」と発話すること (言説的実践) の意味を考えることによって「斜め上」から解決を与える。対象が先か、感覚が先か、そのどちらをとっても矛盾を免れ得ないからこそ、言説的実践というある意味での「中道」が必然であると示したセラーズは、現代のプラグマティズムや言語哲学者に多大な影響を与えたのだが、今回紹介する書籍の著者であるジョン・マクダウェルもその一人である。

マクダウェルもまたセラーズの思想を継ぎながら、さらなる「中道」を示した一人だ。それは、自然 (Nature) と理性 (Reason) という二元論の解消である。本書のテーマは、セラーズが「所与」を否定する中で代わりにその重要性を浮き彫りにした意味空間、すなわち「理由の空間 (Space of Reasons)」をどのようなものと捉えるべきか、という問いだ。

プロジェクトが、この「理由の空間」に属している現象であると考えられる考察については別稿に譲りたいが、もしそうだとすると「理由の空間」の位置づけを検討している本書は非常にプロジェクトの理解にとっても有益だと考えられまいか。

意味空間を扱えるのは言語が使える人間の特権的な能力だと一般には思われている。もちろん大方正しいのだが、果たしてどこまで「特権的」なのだろうか。マクダウェルは人は (哲学史においても) 長らく理性 (論理的能力) を特権視しすぎてきたと指摘する。一方で、理性を自然の領域の中で因果的に描こうとすることにも無理がある。

両者の中道を行くということは、経験と概念の距離をどう考えるべきかという話とつながってくる。彼はその接続を「自発性 (spontiniety) 」という契機に見出している。ここで自発性とは「主体が自分の思考のありかたを主体的に統御する能動的な営為」のことを指している。そして、彼はそれが「概念能力」なしには成し得ないことを指摘する。言い換えれば、概念能力のない動物は環境に受動的に反応するしかない一方で、能動的に経験を概念と紐づけられる人間は、能動的に行動することができるのである。しかしながら、これは動物と我々との間に大きな隔たりがあることを意味しない。例えば、肺を人は能動的に動かせるが、それは常に受動的にも動いてもいるのと同様である。

そして、概念を使えるということは、事象を概念へ分類できることのみならず、その分類が妥当かどうかの判断も行えるということである。この判断はアリストテレスの倫理学における「実践知 (practical wisdom) 」の獲得よって可能となるのであり、その獲得を「第二の天性=習慣 (Second Nature) 」と表現することができよう。言葉遊びのようであるが「第二の自然」という表現は、まさにマグダウェルが本書で説明を試みたことー「理由の空間」が独特の領域であるとしながら、「自然」にその萌芽を見ることーを綺麗に体現してくれている。

さて、「習慣 (Second Nature) 」の獲得は、ドイツ語でいえば「Bildung」であり、具体的には言語を習得することで歴史や伝統へ接続するようなケースを含んでいる。なぜなら「実践知」を通じて獲得される判断能力とは、その理由や背景を名指せることに他ならず、それを無限に繰り返せば、蓄積されてきた歴史や伝統に接続されるからである。

本書のこうした結論にはとても勇気づけられる。というのは、人間の社会的な営みもまた、自然 (生物学的) な現象と同様にオートポイエーティックに説明できることを示してくれているからである。このような歴史、あるいは「理由の空間」と接続できることによって人は、個人を超えた生命体的なものの一部を構成している一方で、マグダウェルが (カントやマルクスに呼応しながら) 述べたように、単なる生物的なニーズへの応答という呪縛から自由にしてくれているのである。

このごろの Project Sprint

賀川こころ

音楽理論からプロジェクトを理解する 2

前号では、モノフォニー、ポリフォニー、ホモフォニーという音楽由来のメタファーからプロジェクトを理解しようと試みました。今回は、管弦楽と室内楽を取り上げます。

管弦楽とは、いわゆるオーケストラのことです。比較的大規模な編成で、様々な楽器が交代しながら旋律を奏でていく、ホモフォニー指向の音楽です。管楽器は原則として各メンバーが別々のパートを担当しますが、弦楽器は1つのパートを複数人で演奏します。大編成ならではの広い表現の幅をもち、具体的なテーマやストーリーを表現することができます。一方室内楽は、より少人数で編成された器楽合奏を指します。明確なルールはありませんが、奏者の数は2人以上から多くとも10人程度で、各メンバーがそれぞれ別のパートを担当します。小規模な編成で楽曲の構造もシンプルだからこそ、楽器ごとの音色の違いや各メンバーの奏でる旋律の美しさが引き立ちます。

管弦楽と室内楽の大きな違いは、まず指揮者の有無です。管弦楽は大編成であるため、各メンバーが全体の音を聞くのは困難です。指揮者を置かないオーケストラとして知られている楽団もあるものの、通常は音楽をまとめあげる役割としての指揮者が必要です。それに比して室内楽は小編成のため、演奏者たちが互いの音を聴き合いながら、対話するようにポリフォニー的に音楽を創り上げていくことができます。プロジェクトにおいても、管弦楽的な大規模なものであれば全体をまとめる役割を果たす人が必要ですが、チーム単位ではシェアドリーダーシップのような室内楽的な進め方ができます。スクラムガイドでは、アジャイル開発チームの適正規模は9名以下とされています。室内楽の編成も、ちょうどその規模に当たります。聖徳太子は10人の話を同時に聴けたとされています (諸説あり) が、やはりその程度の数が人間の認知の限界なのでしょう。

管弦楽と室内楽の違いをもうひとつ取り上げるなら、個性が求められるかどうかです。バロック時代以降の貴族たちの間では、お抱えの音楽家を置いて邸内で演奏を楽しむことが盛んになりました。この習慣のもとに発展したのが室内楽です。リテラシーの高い少数の聴き手のために奏でられるものとして自由で技巧的な表現が追求され、メンバーそれぞれが個性を発揮することが歓迎されます。他方で管弦楽は、室内楽よりもあとの時代に登場し、より大衆向けに発展してきた音楽であるため、聴衆を巻き込んで一体感を共有させることに長けています。その分、メンバー全員が指揮者の意図と全体の調和を重んじながら演奏する必要があります。ウォーターフォール的なプロジェクトでは、各メンバーが個性を発揮するよりも、管弦楽のように全体の中の1パーツとして計画に従って進めるほうが適切でしょう。一方環境の変化を想定した可変的なプロジェクトにおいては、室内楽のようにメンバーの個性や魅力がプロジェクトの可能性を拡げ、成果をより豊かなものにしそうです。

しかし、プロジェクトにおいてはどのような個性でも発揮することが歓迎されるというわけではありません。個性の発揮に当たってどのようなマインドセットであることが望ましいかを、Project Sprint のメンテナーチーム内でも議論しているところです。

プロジェクトと呼びたいもの

八木翔太郎

イーロン・マスクが2月11日に火星に100万人送る計画を策定中であることを明らかにした。これは野心的で果てしないムーンショットであることは疑いえない。なのに、プロジェクトっぽさを感じないのはなぜだろうか。ここまでの5回にわたって宇宙のプロジェクトを数々取り上げてきたが、この投稿を題材に改めて、われわれが何をもってプロジェクトを取り上げてきたかを省みてみたい。

例えば火星に100万人送る「プロジェクト」が遂行されたとしよう。その送られた人、あるいはその二世の中には「地球に居たかったのに」と思う人もいるだろう。そして果たして100万人という数字に意味があったのかと問われるに違いない。なんだか100万人という状況になった時点でフロンティア感がないのみならず、恣意的な数字に政治的な匂いを感じる。

ジェイン・ジェイコブスの「市場の倫理 統治の倫理」では、まさにこうした違和感が道徳的体系の違いとして表現されている。彼女は、人間社会で「善い」とされている倫理観は、じつは矛盾するものが多く、並べてみると2つの全く異なる倫理観 (統治の論理・市場の倫理) に分かれると語っている。簡単に言えば、統治の倫理は限られたリソースという前提の下で推奨される騎士道的な道徳観であり、市場の倫理とは可能性に開かれた状況下での合理的な道徳観である。彼女の指摘するところによれば、この2つが混ざるときに腐敗が生じてしまう。

もちろん「何かが可能である」ということ自体は、どちらの道徳体系でも追及されるべきものである。ただし、その「可能になった事柄」に対する向き合い方が大きく異なるのである。さらなる可能性に開かれると考えるのか (市場の倫理) 、それともしがみつくのか (統治の論理) 。それは、世界をどのように捉えるかにも通じている。

おそらく、 (少なくともイーロン・マスクにとって) 火星に行くことは既に可能なことであって、それ自体はどちらの道徳体系にも属していない。だが、火星に行くことで、地球外の資源開発・地球外生命体の探査といった更なる可能性を目指すのか、それとも、都市を作るというコミットメントにしてしまうのか。これによって、プロジェクトの様相が大きく変わってくるだろう。前者は依然として可能性に開かれているのに対して、後者は開かれていない。一見小さな違いなようで、プロジェクトの文化 (倫理観) を決定してしまうほどにクリティカルなのではないだろうか。

逆に言えば、可能性に対する「オープンさ」がプロジェクト「性」なのだとすると、プロジェクトか否かという判断とは別に、程度のグラデーションを描けるということなのかもしれない。具体的には、プロジェクト性の高い定常業務であったり、プロジェクト性の低いベンチャー・プロジェクトなどもあるだろう。イーロン・マスクの火星移住計画は、どちらなのだろうか。今後の展開を見守りたい。

Editor's Note

菊地玄摩

オフリス・アピフェラ (蜂蘭) の変わった形の唇弁はマルハナバチの雌蜂にそっくりで、それによって雄蜂に受粉の媒介者になってもらうことができるのだそうです。香りにも誘惑された雄蜂は、雌蜂のような姿をした唇弁にしがみつき、そこで花粉の受け渡しが行われます。人間がみても、かわいらしい蜂が花の蜜を吸いに来ていると思ってしまいそうな、よくできた姿です。雄蜂にはややかわいそうな仕組みですが、種を超えてうまく連係するものだなと感心します。

By Bernard DUPONT from FRANCE - Bee Orchid (Ophrys apifera), CC BY-SA 2.0

しかし地域によって、パートナーであるはずのマルハナバチがもう生息しておらず、植物の側にだけ在りし日の雌蜂の姿が残っているという状況があるそうです (それでもオフリス・アピフェラは媒介者によらず、自家受粉もできるようになって生き延びたということです)。

ランドール・マンローのウェブコミックのエピソードにもなったこの話は、Project Theory Probe の日ごろの議論の中で度々引用されてきました。私たちは、人間界の努力について考えようとしているわけですが、共進化 (とその痕跡) の事例は、自然界における生物の相互作用と、人の社会に共通することが何かないだろうか、という視点を提供してくれます。

オフリス・アピフェラのエピソードが興味深いのは、蜂と蘭の間の相互作用が消えてしまったあと、形質が残ることによって、相互作用を合理的に説明したはずの理由が宙ぶらりんになってしまう、という点です。相互作用が存在する理由として、他方がもう一方を利用することで利益を得られるからだ、と言ってみるとビジネスの世界にもありそうな説明になります。しかし利用すべき蜂がいなくなったあとの蘭は、蜂に似ていることから利益を得られているようには見えません。最初は目的のために必要だった形がたまたま残っている、という説明は可能かも知れません。しかしそうまでして、形質に先立つ理由を求める必要はあるでしょうか。蜂と蘭が話し合って契約を交わしたのではないにしても、仮に私たちは共生しよう!という目的があったとして、その目的は何のために、どこからきたのか。遡っていくと、種は何かの目的のために存在しているのか、という話になっていきそうです。

ここで起こっているのは、蜂と蘭がただ存在し、同時に、自らの姿を変形させるほどに、互いに関わりあった、ということなのではないでしょうか。関わり合ったといっても、何かのためにそうしたわけではなく、自らの種の営みをそれとして続けることの延長上に、隣の存在とうまく噛み合うポイントを見つけ、それに順応しただけのことのように見えます。蜂には蜂の秩序が、蘭には蘭の秩序があるとして、それを何か上位の目的に従属させたり、別の秩序のために妥協させたり、何かの手段と見なす理由が見つかるでしょうか。複数の秩序は併存し得る、Multiplicity は可能であるということを、オフリス・アピフェラとマルハナバチが教えてくれているように感じます。

ウェブサイト

毎月の Journal は Project Theory Probe のウェブサイトにアーカイブされます。Project Theory Probe の活動場所である GitHub や Digital Garden へのリンクなども提供しています。

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Meetup! Mar.14 2024

3月14日に Project Theory Probe 2回目となる Meetup! が開催された。毎週 PTP Weekly で会話を重ね、毎月 Journal を執筆するというサイクルが定常化し始めたからこそ、ここまでの歩みを振り返る良い機会となった。当日の様子はテキストによる要約で公開している。

次回は3ヶ月後に開催予定。