The Project Theory Probe Journal

Issue 5
Feb. 29 2024

自己組織化するプロジェクトを見たい

八木翔太郎

第5回 秩序はどこから生じるか

「プロジェクトとは何か?」という疑問から始まったこの連載だが、連載タイトルの通り、我々の目論見はプロジェクトが自己組織化していく側面に光を当てていくことである。「現象としてのプロジェクト」を探索するために、前号では実践者がどう未来と関わりうるかを確認したが、今回も別の側面を照らしながらもう少し寄り道を楽しんでみたい。

他にプロジェクトらしさはないだろうか。そもそも、なぜ「プロジェクト」と呼び合えるのだろうか。そこに少なからず A さんと B さんの間で「同じプロジェクト」を指しているといえるだけの自立した「何か」があるからだろう。でも目に見えないし、会社や組織と違って名前も図表もないことだってありうる。それでも、名指せるということは何かそこに固有の秩序があるということではないだろうか。この固有さと自立性はどこから来るのだろうか。

たしかにプロジェクトの秩序は社会規範に完全に従ったものではないはずだ。実際にプロジェクトは往々にして革新性をもたらすものが多く、自ら秩序を生み出していると言っても良い側面がある。このような自由さを与えながら、同時に秩序を与えるものとは何だろうか。

ロバート・ブランダムによれば、人は何かを認知するときに同時に推論も行っているという。たとえば「草」を認知する際には、「草は緑である」ということのみならず、「今日まで草は緑だったので、明日も草は緑だろうが、次第に枯れて朽ちるだろう」という推論も無意識に行っている。その証拠に、草が100年朽ちなかったら誰もが驚くだろう。つまり、認知には予測が含まれているのである。特に人の認知の多くが名指されることによって為されるのだから (e.g.「UFO だ!」) 、言葉を使うということはすなわち世界を予測しながら (秩序を与えながら) 生きていることに他ならないと考えられる。

ただし、ここで疑問が生じる。例えば各々の考える「秩序」が食い違ったりしないのかと。第3回で触れたように、同じ言葉を使っているからといって、名指されている事柄が同じとは限らない。これは、例えば「足し算」のような厳密な記号においてさえそうであることがソール・クリプキによって指摘されている。例えば 68+57=5 だと主張する人がいて、大真面目に「125 以上の演算では必ず 5 とするのが足し算だ」と考えていたとする。なるほど、125 以上の演算をしてこなかったならば、こういう人が出てきてもおかしくはない。これは、個別の例をもとにルールを導く (帰納する) 以上必ず付きまとう問題だが、このような例をどこまでも排除しきれない以上、厳密な言葉でさえその内容を規定できないことは明らかだ。このように、ある言葉をもって全員が異なる内容を想起しているならば、個々人が言葉を使って世界を秩序立てて認知しているとしても、集団として秩序が生まれるとは限らないのではないか…?

これに対して、クリプキは消極的解決を与えている。上記の足し算の例のように、反応が一致しているからといって同じ推論をしているとは確認できない。しかし、反応が一致していなければ異なる推論をしていると見て間違いないだろう、というものだ。つまり、人はすれ違ったときにはじめて異なる認知をしていたことに気付くのである。逆に言えば、すれ違うまでは人はみな同じ認知をしていることを前提にして社会実践を営んでいる。これを盛山和夫は「初発仮説」と呼んだが、「世界は私が見えているように在るという仮説に基づく以外に、いかに人は行為すべきだというのだろうか」。

こんなナイーブな仮説はすぐにボロが出そうなもの。ところが「初発仮説」は綻びを隠ぺいする。例えば、「草」が豚を指していると考えている人がいたとする。もちろん、その人はいずれ指摘されて全ての人と同じように「草」を草と認識するに至るのであるが、指摘を受けるまでは全ての人が「草」が豚を指していると思い込んでいるのである。不思議なことに、彼にとって指摘される前も後も、全ての人が同じ認識 (ルール) をしているという思い込み (初発仮説) は変わらないのである (!) 。かくして、言葉は自由に世界を秩序付けることを可能にしながら、しかも個人間の食い違いを隠ぺいする。本人にとっては常に、世界は他人と同じものなのだ。

さて、以上の話は何も草のような「モノ」の認知に限らない。未来に起こる「コト」、やろうとしている「コト」などにも当てはまる。人は能動的に、そうした「コト」を言葉で示すことによって未来にまで秩序を拡げながら、認知のズレをすり合わせているのである。その指し示す対象が「我々」にまで及んだらどうだろうか。「我々」自身に関する推論は、アイデンティティやコミットメントとして規範にもなってくるのである。そこに社会生活の日常的実践や、組織固有のものとは異なる、独自の秩序を生み出す萌芽があることは十分に考えられるだろう。

以上、プロジェクト特有の秩序がどこから来うるのか、少し認識論に遡って考えてみた。秩序に関して語るべきことはまだまだ多い。とはいえ紹介したいプロジェクトの側面もまた多い。次は、プロジェクトの特徴とは言わないまでも、プロマネが必要となる契機でもある「複雑性」について考えてみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(5) 仕事人

ハッカー文化の伝道師 5 ケント・ベック

菊地玄摩

オレゴン州ののどかな環境に20エーカーのプライベートな牧場をもつことを望み、バンジョーの演奏や、家族とすごす時間のプライオリティの高さを強調するケント・ベック。自らを職歴や開発実績を通して語ろうとはしないが、実際には過酷な現場をくぐり抜けてきた一級のプログラマーであり、チームリーダーであり、ソフトウェア開発手法の研究者である。

ケント・ベックのプログラマーに対するメタな視点、あるいは研究者としての追求は、学生時代からすでに始まっていたようである。建築家を志す学生たちと同じ寮にいたことをきっかけに、クリストファー・アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」に触れることになる。テクニックに溺れるソフトウェアエンジニアに対して感じていた自らの違和感と共通するものを、建築家について展開される批判の中に見出したことを、クリストファー・アレグザンダーとの出会いの体験として振り返っている。建築設計における問題解決を集成したクリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージは、のちにソフトウェア開発のパタン・ランゲージに目覚め、発展させていくケント・ベックの原点となった。

ケント・ベックは90年代を通して、ソフトウェア開発の現場に身を置きながら、プログラミング言語 Smalltalk の実践手法、テストの自動化フレームワーク、設計のブレインストーミング手法など、有用な実装や知見を次々に発表し、最終的にはエクストリームプログラミングに至る。エクストリームプログラミングは、歴史上見出されたソフトウェア開発についてのベストプラクティスを統合しつつ、社会的な要請にも応えていくための方法論で、インターネットとパーソナルコンピュータの普及によって急激に拡大する開発ニーズを背景に、開発者の支持を広く集めることになった。2001年、アジャイルソフトウェア開発マニフェストを発表する17人にケント・ベックが名を連ねたのは、台頭するエクストリームプログラミングを代表する人物としてである。ケント・ベックが建築との類似性のうちに見出したソフトウェア開発の本質は、このマニフェストを契機としてアジャイルという大きな潮流と合流し、ソフトウェア開発の領域を超え、ビジネスの世界にも広がっていくことになる。

2022年になってひとつのエッセイが公開された。「Help Geeks Feel Safe In The World: My Personal Mission (ギークが安心できる世界のために: 私の個人的な使命)」と題されたテキストの中で、ケント・ベックは自らの過去の活動を総括し、その意義について「explaining people like me to people unlike me (私と同じような人々について、私と違っている人々に説明すること)」と書いている。自ら作り出した道具、見出した知見を30年、40年とソフトウェア業界に提供し続けた続けた上で、あとからその価値に気づくというのは、自然に高いレベルに到達してしまう、天然のハッカーにしかできないことだろう。
しかし朗らかで人間的なトーンを身に纏った、ハッカーの良心とビジネスの世界を調停する、謙虚な伝道師は、一方で、ビジネスの論理は速度や価格と引き換えに妥協を要求するが、品質は譲ることができない、と強い調子で言い切ることもある。鳥のさえずりに囲まれる穏やかな暮らしを引き合いに出す執拗さは、ハッカー (ケント・ベックはギークと呼ぶ) 文化の代表者として、その静謐さを守り抜く、揺るぎない覚悟と対応しているように思える。

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Meetup! Mar.14 2024

今月の一冊: 行為の代数学 大澤真幸

八木翔太郎

この本を最初に知った経緯は忘れてしまったが、その書評を読んだときに最初に目に飛び込んできた文章は今も忘れられない。「我々はおそらく (数理) 社会学の古典として長く語り伝えられるべき著作にめぐりあったのである」と。この本は博士論文を出版したものではなかったのか。書評当時ほやほやの博士論文が「古典」とはこれ如何に…?

…と思いながら買ってしばらく積んでいた。差し迫って読むきっかけがなかったのが理由だが、生物の自己組織化理論であるオートポイエーシスを社会学に適応して発展させたニコラス・ルーマンを理解するには、どうやらジョージ・スペンサー・ブラウンの算術を学ぶべきらしいと聞きつけ、ならば算術を駆使しながら社会学との接続を図っている本書でイメージを掴もうとページを広げたのが最初である。とはいっても正直難しい。たまたま、スペンサー・ブラウンの弟子によるYoutubeの解説動画を発見して「形式の法則 (Laws of Forms) 」の通り算術を手元でやってみてなければ、途中で挫折していただろう。なるほど、本書はスペンサー・ブラウンの「区別」と社会における「行為」とを結び付けて、また違った角度から「形式の法則」を読み解ける参考書とも言えそうだ。とはいえ算術の解釈豊富にして独自の社会理論を創り上げており、目から鱗の連続であったのは言うまでもない。

当時は、プロジェクトメンバーの自由演技のような行為が、どのようにプロジェクトとしての共有されるロジックを作り上げていくのかに関心を寄せていたが、まさに算術は「観察者による区別が世界を分節していく」という前提のみから形式が現れてくる様を描いており、ページをめくるたびに心が躍った。本書で繰り返し登場するのが「書かれざる囲い (Unwritten Cross) 」という言葉である。この回りくどい表現は、ある区別 (線: cross) が引かれた際に、内側 (中身) と外側 (背景) が生み出されるが、その背景を認識して区別しようと思ったとき更に外側に区別 (線) を引かなければならないことに由来している。つまり、区別が生じる瞬間、その背景 (あるいは前提) というのは区別 (cross) されてない (unwritten) というものである。これは現象学を研究する友人曰く「地平」という概念にも通じている。水平線のように近づいたら離れていく。仮に背景を区別したとしても、その背景は囲われていないわけで、永遠に書かれざる囲いは無くならない。

Cross / Unwritten Cross

個人的に興味深いのは「区別は書かれざる囲いを伴う」という幾何学的な図式から、区別すること (=観察/認識すること) の様々な含意を導いている本書の論考である。区別の外側は、先述の通り「背景/前提」でもあれば、こちら側ではない「あちら側 (他者) 」でもある。しかし、それらは「こちら側」を規定するかのように現れている。しかも「あちら側」の囲いは「書かれざる」のだから対象化して区別されるまでは定義すらされないのである。規定してくる得体の知れない「あちら側」。大澤はこれを「第三の審級」と呼んだが、さしずめ「顔のない視線」のようなものだろうか (ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる灰色の男達を思い出す) 。「あちら側」は理由であったり、規範であったり、権威であったりと様々だろう。何であるかは名指せなくとも、それに従っているという感覚。

しかしながら当然「あちら側」は区別なしには生じ得ないし、その区別も観察者自らによって生み出されているのである。さらに、区別が単なる境界 (cross) であることを踏まえれば、「こちら側」と「あちら側」に構造的な差は何もない。「あちら側」から見れば「こちら側」が第三の審級にあたるのであり、上述のような感覚が幻想であることは明白であろう。しかし、「こちら側」という視点が存在することで、区別によって生じる世界は否応なくそう現れてしまうのである。

本書は、「形式の法則」の章立てと軌を一にして、あるいは社会学的な関心に従えば当然でもあるが、時間と安定化という主題にまで発展させながらどのように社会構造が生じるかを論じている。一方で、プロジェクトという観点から見ると、「安定」に留まってしまっては些か窮屈であろう。むしろ、第三の審級に「従う」ことが日常的な社会実践なのであれば、プロジェクトはそれを対象化して新たな秩序を生み出すところに本質を持つのではないか。

さて、一方でスペンサー・ブラウンには数多くの疑念が持たれていることも確かだ。社会学者の間でもスペンサー・ブラウンの研究者はキワモノ扱いだと聞くし、その名を冠した (!) 論文 (「女性、男性、ジョージ・スペンサー・ブラウン」) を書いたルーマンでさえ、どれもほぼ算術に入り込まずに引用している。特に、日本において有名な批判の1つが「スペンサー・ブラウンなんていらない」というストレートな名前のウェブサイトである。ここで掲げられている批判が妥当か否かを検討するには、「存在」と「区別」の本質的な違いを考えなければならず (実は本書も解答を与えているのであるが) 、オートポイエーシス的な議論に入り込んでしまうので別稿に譲りたい。

このごろの Project Sprint

賀川こころ

音楽理論からプロジェクトを理解する

プロジェクトはよく、サッカーなどのスポーツに喩えられます。一定の制約に従いながら、共通のゴールを達成するために、チームワークを維持しつつ各メンバーが個性を発揮してプレーする。プレーの中では、状況に応じて素早く判断し、生じた問題にその場で対応していく。なるほどスポーツとプロジェクトはよく似ています。Project Sprint のメンテナーチームでも、スポーツをはじめとした様々なメタファーを取り入れて議論してきましたが、ここのところ音楽にまつわる用語や理論を通してプロジェクトを理解し表現しようとしています。

バロック時代以前に登場した音楽様式として、モノフォニー、ポリフォニー、ホモフォニーという3つの概念があります。モノフォニーとは、単一の旋律から成る音楽です。単一と言っても、奏者が一人だとは限りません。一人でも複数人でも、全員が同じ旋律を奏でているのならばそれはモノフォニーです。それに対して、ポリフォニーとホモフォニーはどちらも複数のパートから成る音楽です。ただし、ポリフォニーにおいて各パートがそれぞれ対等に調和し合うのに対し、ホモフォニーにおいては主旋律と伴奏が明確に区別されます。特徴をざっくりと捉えるならば、ポリフォニーはより複雑な世界観や感情を表現することができ、ホモフォニーは主旋律や歌詞をより強く伝えることができるといったところでしょう。

プロジェクトにも、ポリフォニー的なプロジェクトとホモフォニー的なプロジェクトがあります。環境の変化が激しく複雑なプロジェクトには、各メンバーが対等な立場でそれぞれの役割を果たすポリフォニー的なスタイルが効果的でしょう。各メンバーが個々の活動の中で得た多様なアイデアや違和感を余すところなく取り込んで、全員の力でプロジェクトを進めたり改善したりしていけるからです。他方、プロジェクトの立ち上げ段階や、何らかの方向転換・急加速が必要になった際に、誰か一人の強い意思のもとでプロジェクトを進めていくほうが進みが良い場合があります。こういうフェーズでは、あるメンバーが主旋律を強調し、他のメンバーがそれに追随・調和するホモフォニー的なスタイルを取るほうがよさそうです。

バロック時代以降現代にいたるまで、音楽はホモフォニーが主流となってきました。先に生まれたポリフォニーが徐々に廃れたのは、各パートが対等であろうとすることが主旋律や歌詞の軽視であるとして問題視されたからでした。しかし、前号で取り上げた、「みんなで進める」「個性を活かす」という Project Sprint の価値観と親和性が高いのはポリフォニーでしょう。どちらかのスタイルに固執するよりは、プロジェクトの性質や状態を見極めて、プロジェクトチームの意思によってポリフォニーとホモフォニーを自由に行き来するのが理想的です。

Project Sprint の効果を実感し理解を深めるためには、プロジェクトの現場での実際の体験を通して納得感を得ることが重要だとわたしたちは考えています。それと同様に、誰もが一定の経験や実感をもつ音楽というメタファーは、プロジェクトというものへの理解を形成するうえで大きな助けになりそうです。

「H3」2号機と、糸川英夫の「紙」ロケット

八木翔太郎

新世代大型ロケット「H3」2号機が17日午前9時22分55秒、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられた。H2に比べて衛星搭載能力は3割増、打ち上げコストも半額の50億円となっている。そもそも宇宙に繰り返し飛ばすことが前提で、効率化を目指すようになったとは凄い時代である。かたやNASAを中心として、本格的な月面探査を目指す「アルテミス計画」、そしてゲートウェイ (月周回有人拠点) 計画などを通じて火星を目指す「月から火星へ」探査計画も遂行中であり、今後どんどんフロンティアが拡がるのだろう。

H3 JAXA

さて、概して宇宙開発は途方もないプロジェクトだ。莫大な資金とリスクがあるのにリターンが保証されているわけではない。野心的で魅力的な宇宙開拓に数多くの優秀な担い手が集まるのは納得だが、なぜ資金などが集まり続けるのだろうか。

政治界や軍事産業の思惑があるという説明をしてしまえば理解は早いだろうが、実際の予算折衝や投資判断の場でそんなことを大真面目に意識しているケースは稀だろう。むしろ、これまでも目指してきたから、さらに上を目指していこうと発想するケースが殆どではないか。

プロジェクトは良く考えると、マクロでもミクロでも、そういう構造を取っている。これまで為されてきたことを前提として、次に何ができるかを画策しているのである。さらには、未来までも既成事実化することではじめて、それに向かって全員で行動を起こし始められる側面すらある。

国産ロケットの父こと糸川英夫がロケット開発に着手した当初は全く予算が無く、初期には鉛筆大のロケット (通称: ペンシルロケット) しか作ることができなかった話は良く知られている。そこで彼は、大学院生に紙で大きめのロケットの模型を作らせ、新聞記者に写真を撮らせた。これが新聞に掲載されたことの効果は絶大で (当の学生はハッタリに冷や汗をかいたと語っているが) 、すぐに国際プロジェクト参画の声が掛かったり、のちの資金獲得の呼び水になったりしたのだという。

ロジカルなロケット技術開発とは対照的な、奇天烈な発想だが、プロジェクトの重要な側面を映し出している出来事のようにも見えてくる。糸川先生は写真を新聞に載せた時点で、国産ロケット開発を既成事実化したのではなかろうか。写真は言葉よりもリアリティがあり雄弁なのだろう。「ここまでできてるなら…」と更なる協力を呼び込んだのである。それを繰り返すことでペンシルロケットが幾世代を経てやがてH3ロケットに至る。月面着陸がやがて火星生活に至る。こうして、既成事実が積み上がった状況に対して「なんでそれやってるんですか」と問う人が居たとしたら、その人の方が奇異の目で見られてしまうという構図がここに見てとれる。

こう考えると、プロジェクトは課題解決型である必要性は必ずしもないかもしれない。できちゃった達成が、好奇心をくすぐり、あるいは新規性が高いほどに話題にのぼり流布する。流布したら既成事実となり、新たな挑戦を呼び込むという循環。もしかすると、アジャイル手法で重要だと言われているイテレーションの効用は、改善と検証のみならず、既成事実を積み上げていくことにもあるのかもしれない。

社会課題というのは共通利益となるため協力を仰ぎやすい。一方で、単に新しいことや、フロンティアを切り拓くことも、人類にとっては新情報として「有意味」であり、受容されて既成事実化し、発達していきやすいのではないだろうか。ここに、プロジェクトを冒険的に進めるヒントが隠されているような気がする。

Editor's Note

菊地玄摩

2022年の夏頃、Person Group Prototype というツールを実装していました。プロジェクトチームの在り方をモデル化し、現実のできごとの成り立ちを解明するシミュレータの設計を考えていたのですが、当時私は、悩んでいました。ツールの行く末を左右する、迂回するわけにはいかない疑問を抱えていたのです。

ツールは、プロジェクトの断片的な説明を入力として、その全体像を複数のユーザが共同で発展させていくように作られています。疑問は、何か一つの操作をしたときに (例えば、プロジェクトのマイルストーンを立てる、など) 、それが自動的に、どのチームメンバーにも、正確に、瞬時に共有されるという状況は、果たして現実を反映しているのか?という点でした。実装としては簡単なのでそうしてしまいそうなところですが、どうもこれはおかしいと感じていました。

最終的にツールは、人それぞれ認識しているものが、互いに異なっていることが (たとえ同じ資料や、ホワイトボードを眺めていたり、同じ言葉を発していたとしても) 自然であり、積極的に同じであることを確認するまでは、すべての要素が関係づけられることがない世界、として計画されることになりました。ユーザごとにその人自身の世界が立ち上がるものの、相互に見ることがなかなかできない、というめんどくさいツールです。

しかし考えてみれば、自分ではない誰かの頭の中を覗いたり、書き換えたり、なんてことは現実にはあり得ないですし、あってほしくないものです。Person Group Prototype を実装するために、その状態を出発点にしようと決心することで、さまざまな発見がありました。実装上のコア機能につけられた名称「RelativeWorld」がそのひとつで、当人の認識している世界をまず対象化し、そのつぎに他の人の認識と接続することで、Group (複数の人の関わりの構造、プロジェクトチームなど) を見出していこうということです。しかし当時は相互にどうつなげばいいのか、よいアイディアがなく、行き詰まってしまうことになりました。

今月の自己組織化するプロジェクトを見たいは、Person Group Prototype が出発点にしようとした事情を、哲学や社会学の成果を引用しながら見事に説明してくれています。私にとって、八木さんに実装の事情を聞いてもらうことができる状況は、学術の知見による解釈と、さらに遠くまで行くための論理的なヒントが得られるという意味で、作り進める上でこの上ない後押しになっています。当時、「RelativeWorld を相互に接続する何か」という形でしか認識できなかったものは、その後の議論の中で、生物学や数学からもヒントを得て、「複数の RelativeWorld が互いを巻き込み、共に進化するプロセス」として描かれはじめています。これは次のプロトタイプと、将来の Journal が解説する対象になっていくはずなのですが、もう少しお待ちいただきたいと思います。