本連載では、これまで自明だと考えられてきた「プロジェクト」のイメージに対して、各号疑問を投げかけながら、徐々に新しいイメージを形作ってきた。もし、プロジェクトが新しい世界認識を生み出すような創発的な場なのだとしたら、それは「有期的な業務」と定義するよりも、例えば「小さな社会」の萌芽だと見たほうがしっくり来る。通俗的な社会規範から自由でありながら新たな社会を作り出すことができるのは、ここで語ってきたようなプロジェクトを通じてより他はないだろう。
では、上手くプロジェクトを推進するとはどういうことだろうか。もはやプロジェクトを「管理」するという考え方は全くそぐわない。プロジェクトを言説的実践の結果として創発され発展していく現象だとみた場合、それは促進されるか、阻害されるかのいずれかだろう。
プロジェクトをそれとして名付ける行為自体が、プロジェクトを自己組織化させることに触れた。ある意味で、プロジェクト自体が自身を名指しているということは、自己言及構造を取っている。しかしながら、自己言及構造はこれに限らない。むしろ、あらゆる名指す (あるいは区別する) という行為自体が、その意味を確定させる (対象を同定させる) にあたり、その背景となる区別全てを暗に指し示すという操作を完結させている自己指示であると考えられる。つまり「プロジェクト」を前提とした指し示しが行われる場合には、同時に、「プロジェクト」が自己言及されていると考えられるのである。
ただ、ここで疑問が沸き起こる。果たして「プロジェクト」という言葉で意味されるものが誰にとっても同じであることなどあり得るのだろうか。クワインが「翻訳の不確定性」の主張を通して、これを完全否定したのではなかったか。メンバーがどのようにして「共通認識」を持ち得るのかが、ここにきて問題になってくる。この「共通認識」をどのように築いていくかに関する共通認識、あるいは前提了解を作る前提となるプロトコルのことを、ここで規範と呼ぶことにしよう。
正直、「規範」という言葉を使うのは気が引ける。クリプキ=ヴィトゲンシュタインのように「後からあったものと見做されるルールに過ぎない」という立場から、ブランダムのように言説的実践の規範を指しているものまで数多くの立場が存在するため、あらゆる誤解を招きかねないからだ。以下、ここでは自己組織化を促すような規範について考えることとしたい。
さて、「共通認識」をより普遍化すると別の名を得る。それは真理 (Truth) である。もちろん、確固たる真理なるものの存在は証明できないという前提で、真理がどのように定まるのかを探求してきた哲学分野の1つにプラグマティズムがある。150年もの歴史の中で多くの変遷を辿ってきたプラグマティズムだが、「真理」に関する探求という姿勢は一貫しているように思われる。パースのように事実を価値と峻別しない立場から、ローティのように真理には社会的連帯の意味しかないとまで言い切る立場、そしてブランダムら新しいプラグマティズムによる「人間的探究がもっている客観的な次元とは何か」という問いへ。いくつかの研究が「規範」がどのようにわれわれを真理に近づけるのかについて検討している。
ヒュー・プライスは「真理」について考えるにあたり、思考実験として3つの規範を並べてみせた。
- 発話者が p を信じていないのに、p と主張するのは誤りだ。このような状況で p と主張することは、非難または不承認の一応の根拠を提供する (主観的言明可能性)
- 発話者が p であると信じるための十分な (個人的な) 根拠がない場合、p であると主張するのは誤りだ。 このような状況で p と主張することは、非難の一応の根拠を提供する (個人保証付き言明可能性)
- not-p の場合、p であると主張するのは正しくない。もしnot-pである場合は、一応の非難の根拠を提供する (真理)
ここで第一規範から第三規範になるにつれて、より強固に共通認識を生み出す効力を発揮していることが見てとれる。例えば、第二規範までしか持たない人々が仮にいると考えてみよう。彼らは単に自分の主張を述べあうのみで、意見の不一致があったとしてもいずれかが誤っていたり、規範を破っていることを示唆しているとは捉えないだろう。プライスは彼らのことをモーアン (Mo’an = merely-opinionated assertion) と茶化して呼んでいるのだが、もし世界がモーアンだけであるならば、もちろん互いのことは信頼し合えるが、何が共通して納得できることなのかを議論する機会はついに訪れず、真理の探求は停滞するのである。一方で、第三規範がある社会においては、自分の言明とほかの人の言明が矛盾する場合において、どちらが真実なのかを議論する必要性が生じる。つまり、真理が先にあるのではなくて、こうした規範が真理に辿り着かせてくれるのであり、この働きによって人々は種として繫栄を許されてきたと考えられはしないだろうか。
さて、これら規範はプロジェクトにおける「共通認識」を築く手助けをしてくれるだろうか。確かにプロジェクトをコミットメントの束として考えた場合、いわゆる科学的な探求態度に近しい第三規範は、それを下支えしてくれるだろう。矛盾がある場合にすぐさま問い合える規範を持つチームは、上手くプロジェクトを進められるに違いない。第三規範をもってしても反証できない言明は「共通認識」として捉えられることとなり、プロジェクトの自己言及を容易にしてくれることだろう。こうした規範は、確かにプロジェクト推進を促進してくれそうだ。
では、果たしてプロジェクトは科学的探究と同じダイナミズムであると言い切って良いのだろうか。こう問われると、少し立ち止まりたくなる。前号で垣間見たプロジェクトは、むしろプロジェクトにとっての真理が新たに生み出されるような場ではなかったか。次号では、真理 (Truth) を拡張して捉えることで見えてくる、さらなる規範について思考実験を重ねてみたい。