The Project Theory Probe Journal

Issue 11
Aug. 31 2024

自己組織化するプロジェクトを見たい

八木翔太郎

第11回 ケアの規範

ここまで「プロジェクトとは何か」という問いに始まり、プロジェクトをそれとして名指す実践 (あるいはそれを前提とした指し示し) によってプロジェクトの自己組織化が生じているのではないかと議論をしてきた。そして前号では、名指しを含めた言説的実践を可能にしている規範として、ヒュープライスの挙げる3つの規範 (主観から真理に至るまで) あるいは主張可能性を紹介した。

特に3つ目は「真理」をそれと見做しうる規範であり、これらは言説的実践の末に同じ共通認識 (真理) に辿り着くことを促してくれている。ある意味で科学的な知識観だろうが、ことプロジェクトにおいても同様なのだろうか。明らかな反証がなされるまで、主張を問い直して撤回する必要が生じないようなダイナミズムなのだろうか。そこに存在論的転回から垣間見られるような豊かな多様性は含まれているのだろうか。

ここで真理 (Truth) に拡大した解釈を与えてみる余地はあるまいか。「自らに誠実である (Be true to yourself) 」という表現があるが、それはすなわちその人とっての真理 (What’s true to one’s self) を尊重するということに他ならない。このときの真理 (Truth) が、単なる言葉遊びではなく、確実性という観点から「より真理である」とすら言えることを確認してみよう。

ここまで読んできた方であれば、もはや真に「客観的」なモノなど存在しないことは同意いただけるだろう。客観的だと思われている事柄は、検証された主張 (主観) でしかない。われわれは認識を共有していると普段考えているが、それは見做されている (同一説) だけであり、本当にそれが他人と同じであると確認するすべを持たない。

例えば人狼ゲームにおいて、互いに誰が村人で、誰が狼かは一見して分からない。隣の人が、同じルール (村人) でゲームに参画していると思い込んでいたら、実は全く違うルール (狼) で動いていることを知って驚くのである (驚かなければゲームにならない) 。単なるゲームではあるが、言説的実践の重要な様相を浮き彫りにしてはいまいか。現実はもっと単純で平和だと思ったら大間違いだ。ゲームは答え合わせができるが、現実は合わせるべき正解すらないのだから。

ただ、もしも「客観」がないのだとしても、その人にとっての「主観」があるというのは確実な真理なのではないだろうか。その人とっての真理 (What’s true to one’s self) 。たとえ合わせられなくとも。それを尊重 (ケア) していくことはできる。あるいは、それこそが重要だという発想すら可能だろう。なぜなら、それはその人だからこそ感じられる知覚であり、プロジェクトに重要な示唆をもたらす可能性すらあるからである。

他者の主観 (感情・世界観・存在論) を指し示すことは、共に存在することを可能にしてくれる。オーストラリアの先住民であるアボリジニーの儀式には、多様な精霊と共存するための実践があるのだという。共役不可能であっても互いの世界を尊重し合うこと。私がスウェーデンを訪れた際にサイモン・ウェストさんがそれを「ケアの実践」と呼ぶのだと教えてくれたが、まさにそうした実践がプロジェクトを「われわれ」として自己組織化することを助けてくれる。

これを、あえて第四規範と呼ぶとするならば、このように記述ができるだろう。

  • non-p であると信じている人が存在するときに、p であると主張することは正しくない。このような状況で p であると主張することは、非難または不承認の一応の根拠を提供する

これは第三規範 (□¬p→¬□p) よりも自然な規範 (◇¬p→¬□p) となっている (含意「→」ではなく同値「⇔」にもなりうるという意味で) 。ここで、「p である」と「私には p だと感じられる」という言明を区別していることに留意したい。そもそも、セラーズによれば全ての「である (そのように実在している) 」という言明はその根拠を持たない。しかしながら、われわれは「である」という言明を日常的に使いすぎているがために、その他でありうるということを忘れてしまうのである。

さて、先の規範で発話者が事前に「non-p であると信じている人が存在する」ことを知り得ないのではないか、という反論もあり得るだろう。そこで、対話の参加者 (interlocutor) にも均等に義務を負わせることもできるかもしれない。

  • 対話者が p を信じていないのに、p であるという結論に対して違和感を挙げないことは誤りだ。このような状況で p を黙認している人が居ることは、その人あるいはその状況を作り出した事態に対して、非難の一応の根拠を提供する

もちろん、ケアの深さあるいは多様性の許容の度合いによって第五、第六の規範もあり得るだろうが、ここで踏み込んだ論考は割愛したい。そこまで論じなくとも、少なくとも第四規範で大きな転換を見ることができるからだ。それは、真理の所在が外ではなく内にあるという転換である。「プロジェクト」と呼ばれてきた共通認識 (Truth) はわれわれの外に存在しているのではなく、実はわれわれ自身と不可分である (True to us) という再認識だ。

こうしたプロジェクト観に立てば、プロジェクトが直面する「未知」は外ではなく、むしろわれわれの内側に属している。そもそも、われわれ自身を介さずしてどのように世界と関わるというのだろうか。この「未知」は、われわれ自身が想像しているよりも多様なことを感受できることに通じている。自らを通じて世界を認識しているということに素直になることによって、「自分たち」に誠実 (True) な世界を共に紡ぎだすプロセスこそが「プロジェクト」だということになるまいか。

さて、次号は本連載を締めくくることになる。ここまで議論してきた内容が、プロジェクトにどのような実践的示唆を与えるのか、そして新たにどのような疑問を生むのかについて考えてみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(11) 責任帰属

What’s Love * Got To Do With Knowing The Werewolf

Kitty Gia Ngân

What shocked me the most when I am working with communities who historically have been underserved and marginalized is (1) how kind these people are, and (2) how unkindly they allow the world to treat them. They don’t know that they deserve to be treated kindly in return. It is as if one-sided empathy and forgiveness are engineered into the abused to survive the abusive treatment. Overjustification, apologies, and forgiveness are tools that some people have been taught to do relentlessly at the expense of their own sanity for the comfort of the dominant one.

Against popular notions of love, this booklet urges us to…

STOP

  • blaming ourself for a moment
  • forgiving the other person
  • justifying for their misdeeds
  • spiritual bypassing our pains

START

  • admitting that we were hurt
  • validating our own reality
  • placing accountability where it’s due
  • truth-speaking about our experiences

On a macro level, by questioning who benefits from how we currently understand "love", I hope "love" widens to include the marginalized.

What’s Love* Got To Do With Knowing The Werewolf
(Surviving Narcissistic Abuse)

  • 24 pages
  • What’s inside:
    • A playbook on building immunity against abuse
    • Understand gaslighting
    • 10 survival tactics
    • Questions to spot abuse
    • Resources on narcissism
    • The biggest point about
    • surviving abuse

Read here. (PDF 25.9MB)

ハッカー文化の伝道師 11 マーティン・ファウラー

菊地玄摩

過去30年以上にわたって、その著作とブリキ (ブログとウィキの中間形態のサイト) を通してソフトウェア開発コミュニティに大きな影響力を持ち続けてきたマーティン・ファウラー。その言葉がまず同業者たちを勇気づけてきたことは間違いないが、ベストプラクティスとしてまとめ上げられた現場の知見は、アジャイルの潮流がソフトウェア業界を超えて広がってゆくための欠くことのできない基礎となった。ロバート・C・マーティンケント・ベック、ジェフ・サザーランドらコミュニティの外部にまで影響力をもった伝道師たちの仕事は、マーティン・ファウラーが育てた語彙抜きには存在しえなかっただろう。

マーティン・ファウラーは、ソフトウェアの優れた設計とそれを支える質の高いコードの価値を、内部品質 (Internal Quality) と呼んでいる。低い内部品質は中長期的に開発チームのスピードを低下させ、コスト面あるいは品質面でプロジェクトを袋小路へ追い込む原因になる。一方、優れた設計を重視し、継続的にコードの改善を行えば、チームとその開発スピードは指数曲線を描いて向上することになる。これはマーティン・ファウラーが設計=スタミナ仮説と呼ぶ持論であり、設計を将来の機会または実装に直結する現場に委ね、より多くの情報とともに重要な決断を行うことで利益を得ようとするあらゆるアジャイルの方法論が、その根拠としているアイディアである。

しかし、目に見える機能追加を伴わない内部品質の改善は、開発プロジェクトにおいて冷遇されがちである。開発者たち自身がその価値についてまだ十分な説明を持っていない時代において、コードを美しく保つことと、技術のひけらかしや自己満足の混同を避けられなかったのも致し方のないことであった。「リファクタリング: プログラミングの体質改善テクニック (ObjectTechnologySeries 10)」(桐原書店、2000年) には、継続的にソフトウェアを改善する実践に、ケント・ベックがリファクタリングという呼び名を与えて推奨したことによって、苦い経験をしたチームがその重要性に気づくエピソードが綴られている。優れたハッカーのみが知り得た暗黙の了承に呼称が生まれ、マーティン・ファウラーの書籍によって体系を与えられ、コミュニティの共有財産にまで昇華されたのである。そしてそれはリファクタリングに限らない。ソフトウェアの構造のグラフィカルな表記法である UML 、特殊な業務ニーズを表現する DSL などについての一連の著作は、すべて内部品質に貢献する技術についての解説である。それらはリファクタリングと同じように、優れた実践を追体験するための実演と、実用的なパターンのセットを提供するレファレンスの形で、コミュニティの知識体系に組み入れられた。

一貫して現場にその基礎となるボキャブラリを提供してきたマーティン・ファウラーは、一方で、プロセスやテクニックが一人歩きすることについて批判的である。それはどんなに優れたプロセスも技術者の能力の不在を補うものではない、あるいは逆に、プロセスとは技術者の能力を活かすためにある、という信念の裏返しであろう。そのためマーティン・ファウラーは、ひとつのテクニックを解説するために、それを必然的に要請するプロセスについての解説を欠かさない。
例えば「UMLモデリングのエッセンス 標準オブジェクトモデリング言語の適用」(星雲社、1999年) は、特定の技術領域の解説書であることを超えて、アジャイルについての深く、網羅的な解説から始まっている。そればかりか、この本は全体として、さまざまなケースに対応しようと (それがどのようなプロセスをサポートするのかについての、確固たる信念のないまま) 仕様が肥大化してしまった UML に対して、あえて「エッセンシャル」な姿を提示することを意図している。設計を可視化する表記法である UML は、それ自体アジャイルを助けるテクニックであり得るが、不必要に肥大化した (アジャイルと相容れないプロセスのために肥大化した) その全体は拒否する、というわけである。読者は UML というテクニックを通して、マーティン・ファウラーの歴史観と、有象無象の中から本質を見出す哲学を受け取ることになる。
もうひとつの例は、2009年にブリキへ投稿された「ヘロヘロスクラム (Flaccid Scrum)」だろう。プロセスだけを取り入れ、内部品質を軽視したことによってパフォーマンスを出すことができないスクラム実践者への、ストレートな批判として書かれている。マーティン・ファウラーは90年代から、プロセスとテクニックの一体的な受容の重要性を訴えてきた。そのメッセージが、まさにその軽視において破綻する景色を見せられたのだから、嘆きのひとつくらいは当然と言えるだろう。

ソフトウェア開発コミュニティは、マーティン・ファウラーによって、その最高の実践者たちの方法を言語化し、共有する幸運に恵まれた。もし今後、ソフトウェア以外のコミュニティがアジャイルの再現を目指して適応的なプロセスを実現しようとするなら、90年代のソフトウェア開発におけるリファクタリングやテスト、各種の設計技法がそうだったように、その中心となるべき重要な実践を見出し、そのための新しい語彙を構築する必要があるだろう。もしそれがまだ不十分であると認めるなら、私たちはこれから訪れる、そのコミュニティにとってのマーティン・ファウラーの登場を決して見逃してはならない。

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今月の一冊: Object-Oriented Ontology by グレアム・ハーマン

八木翔太郎

グレアム・ハーマンについて知ったのはいつだったろうか。チュッパチャプスをなめてるプロフィール写真が印象的だったからか、それとも彼の理論が奇抜だからか、少なくともすぐに彼の文章を読むことはなく、数年後に戻ってくることになる。

それはアクター・ネットワーク理論のブリュノ・ラトゥールと彼が仲良しなことや、ドゥルーズ・ガタリのアッサンブラージュ理論に着目するマニュエル・デランダの序文を彼が書いているからではない。彼の理論の呼び名が「オブジェクト指向オントロジー (存在論) 」だからである。ある意味で、名指しとはオブジェクト指向だ。それと存在論の関係について語っている理論ならば、読まない手はないだろう。この理論 (Object Oriented Ontology) は原著では OOO (トリプル・オーと呼ぶ) と略記されているので、以下そのように言及したい。

OOO を説明しているこの本には、4つ円が配置された図 (Quadruple Object) が現れる。勝手に「四つ巴」と呼んでいるのだが、これは過去にそこまで明確に図示されてこなかった、存在と質、現実と知覚との関係性について説明している。

↑ The Quadruple Object (四つ巴の図)

まず重要なポイントは、われわれは現実のモノ「そのもの」に直接関係することはできないということである。感覚器官や媒介物を通さずして、モノそのものを把持することなど不可能だ。つまり、現実のモノ (Real Object) と、われわれが認識して指し示しているモノ (Sensual Object) を区別したとき、両者を直接関係させる (表象論) ことはできない。一方で、われわれの認識が単なる妄想であると結論づける (唯我論) のも極端過ぎるだろう。われわれの認識している世界は、確かに世界と関係しているはずだからだ。

ハーマンは、ここで「質」について触れる。現実のモノは実際には無数の「質の束」である (あるいは質の束をモノと呼びたいかもしれない) 。媒介物と感覚器官を通さずにモノを知覚するのは不可能だと述べたが、逆に言えば、われわれはモノをそれと認識したときに何かしらの「質」を知覚しているのである。それらの質は説明しきることは不可能だ (例えばホワイトハウスの全ての側面、西陽の当たり方により変化する色調含めて知覚することなど不可能だろう) が、それでも、こうした目の前に立ち現れる質 (Real Quality) を指して「このモノ (Sensual Object) である」と呼ぶことができるのである。

さて、こうして認識されたモノ (Sensual Object) を、人はどのように説明するのだろうか。それはそのモノの属性、あるいは「質」を指示することにほかならない。こうして説明されるモノの質 (Sunsual Quality) は、上述した現実の「質」 (Real Quality) と一致しないことは理解が容易い。マンガの線は前者、印象派の絵画は後者に近いと言えば分かりやすいだろうか。そこに境界線を引いて「モノである」と主張したいのは知覚しているわれわれなのであり、現実の質は漫然と区別なくそこにあるだけなのだ。つまり、われわれが説明するときに表現される「質」 (Sensual Quality) は、むしろ現実のモノ (Sensual Object ) と関係している。そういう境界線を引きたいということは、そこに何かしらの存在があると主張したいことに他ならないからだ。

こうして、先に紹介した四つ巴の図が描かれる。上半分を現実世界、下半分を認識世界 (あるいは意味世界) と呼べば、この図はまさに認識世界がどのように現実世界と関係しているのかを表現している。

例えば、認識していたモノ (Sensual Object) に関して知覚していたと思っていた質 (Real Quality) が、全く誤っていたことに気付いたとしよう。この場合、SO に対する真正なる知識を得るためには、すでに説明されている質 (Sensual Quality) だけでは浅すぎる。新たな知覚 (Real Quality) と結びつきを得てはじめてモノ (Sensual Object) として存続するのである。このとき、同じ SO は同じ意味世界を保ちながら、異なる RQ と関係性を取り結ぶこととなる。このようにマイクロレベルで関係性が取り結びなおされていることは、注目に値する。なぜなら、意味世界が恒常的でありながら、現実世界との関係性が動的に代わっていくような可塑性を表現してくれているからである。

このようにグレアム・ハーマンは、言語 (言説的実践) を介さずに存在論を考える手立てを提供してくれている。本稿は1つの図を説明するだけで終わってしまったが、本書はコンパクトながらも内容豊富であり、ケアの理論を展開するアネマリー・モル、シンビオーシス (共棲) を提唱した進化論学者のリン・マーギュラスなど多岐にわたって参照している。私がこれから何度も読み返す文献となることは間違いないだろう。

プロジェケーションをする感覚

八木翔太郎

前号でプロジェケーション (Project × Vacation) という概念について紹介した。この実践がプロジェクトにどんな変化をもたらすのか、実際に試してみないことには伝わらないことが沢山あるだろう。というのも「普段の実践の外側にある」ことがプロジェケーションの秘訣だからだ。「普段の実践の外側」を想像することほど難しいことはない (だからこそ、社会は可塑性に溢れているのにも関わらず、驚くほど秩序を保って再生産されている)。ここでは言葉で伝える限界を感じつつも、「反実践」という言葉を用いて、プロジェケーションをする感覚を共有することを試みたい。

「反実践」とは、普段われわれが無意識に行っている実践を問い直すような観点・態度・環境そして実践群である。無意識な実践とは例えば、上司の目を気にしながら行動してしまうような習慣から、会話における順番交代 (エスノメソドロジーで明らかになった会話の作法であり、破ると大きな問題を示唆してしまう) 、さらにはテレワークによって制限される身体性や非認知的なものまで多岐にわたる。

もちろん、われわれの社会の単位が実践であるという実践理論に基づけば「反実践」も1つの実践だ。ここで反実践 (anti-practice) と呼んで非実践 (non-practice) と呼ばないのはそういった理由からである。習慣的な実践を問い直すという意味において「反」なのだ。

前号で触れた尾道のプロジェケーションを例に挙げよう。新たなプログラムの企画と運営を行う目的で開催されたこのプロジェケーションは会議室で始まらなかった。以下は、実際に行った2日間のうち、ほんの最初の2時間のタイムラインである。

全くもって仕事感がない。すでに「反実践」的な雰囲気が漂っているが、単に遊んでいるのではなく、プロジェクトにとって重要な活動が無数に行われている。

例えば、尾道の街並みを一緒に散策するという活動。ともに見知らぬ道を歩いているだけで、共に居るという意識が湧いてくる。補足をすると、このチームはこれまでオンラインでしか会ったことがなく、リアルで会うのは今回が初めてであった。あえて面と向き合うのではなく、並んで歩きながら見たものを共有したり、互いの話しをするという体験を通して「共に居る」という感覚が醸成されてくる。沈黙があったとしても、気まずさはない。むしろ行間や場を味わうという意義深いものに感じられる。

「反実践」の副産物は数多い。今回も、尾道水道を眺めながら、ある二人組のおじいちゃんが目に留まった。「あんな風におじいちゃんになっても共に居られるような関係っていいよね」「あんな関係性を作れるようなプログラムがよいよね」と誰かが話した。そして、実際「尾道のおじいちゃん」はこのチームの共通言語になったのである。普段の実践からは絶対に生まれなかった共通言語であるのは間違いない。

さて、ここで1つ補足したいのが、プロジェクトメンバーではない人もこの2時間のアクティビティに参加していたという点だ。通常の実践ではあり得ないだろうが、メンバーの友人 (ワーケーション中) が飛び入りで、一緒にアイスを食べたり、話し合いに参加していた。このように参加者でさえ境界を曖昧に進められてしまうのも、通常ではあり得ない「反実践」的な出来事ではなかろうか。

ちなみに私は、宿泊に際してメンバーの家族、および彼の友人と同じ長屋に泊まり、そこで夜な夜なポッドキャストの収録も行った。もはや旅行と仕事の境目も分からない。彼は子供に父親の仕事仲間を見てもらえることは嬉しいと話していた。一方で私は、このメンバーの人となりや価値観について触れられた気がしたのである。

さて、このように普段の実践を問い直すような実践 (反実践) をする意義はどこにあるのだろうか。「反実践」のメリットとして、多様性に開かれるという点が挙げられる。通常、無意識的だからこそ実践の幅は限られてしまっている。例えば、普段との口調と、会議での口調が違うのだとしたら、その人は会議というコンテキストに自分を合わせていると言えるだろう。「反実践」ではこうした習慣を問い直して、実践の幅を広げることを推奨する。その結果として、メンバーは全人格を仕事に持ち込めるようになる。結果として、メンバーがプロジェクトに合わせるのではなく、メンバーのあり方や偶発的に生じる共通体験に従ってプロジェクトが発達するという構造が生み出されるのだ。これは、自己組織化の連載で語った「大きな転換」に通じるものがある。

これを普段の習慣の中で生み出すことは困難だろう。なぜなら「問い直す」という行為自体は一見して非合理であり、それ自体が問い直されてしまうからである (なぜ習慣を破るのかという問いに対する答えを用意するのは難しい) 。非日常的な機会を利用して「反実践」を全員で行える機会がプロジェケーションであり、その結果生まれた文化や共有できた認識世界は、独特で偶発的であり、必然的でもある。プロジェクトの自己組織化を促す上で、これらが重要な基礎になるのは言うまでもないだろう。

このごろの Project Sprint

賀川こころ

未来を紡ぐためのナラティブ

「ナラティブ」という言葉は分野によって多様な定義がありますが、一言で言うと「物語」を意味します。しかし、同じ「物語」を意味する語でも、「ストーリー」が連続性のある客観的な出来事の流れというニュアンスを持つのに対して、「ナラティブ」はその語り方自体に語り手の視点が反映され、解釈や意味付けを含むものとして捉えられます。

Project Sprint においてプロジェクトストーリーと呼んでいるものが、「ストーリー」にあたります。プロジェクトストーリーとは、目的達成までの過程をシンプルに時系列で表現した、いわばロードマップのようなもので、プロジェクトチームが次の行動を決定するための明文化された指針となります。具体的な出来事や行動が書き込まれ、チームの共通認識として共有とアップデートが繰り返されます。

Project Sprint では随分前から、このプロジェクトストーリーのほかに、プロジェクトを貫く現在進行形の物語構造としてのナラティブのようなものが存在すれば、各メンバーの意思が反映された納得感あるプロジェクトストーリーを得られつづけるのではないだろうかと考えていました。各メンバーがプロジェクトのナラティブを基盤としつつ個々人の立場でプロジェクトに関与することで、価値や信念を共有しながら、それぞれの活動はより自律的になります。ナラティブを共有していることでよりよいチームになるという効果もありそうです。

そう考えながらも、Project Sprint の記述に反映されないままになっていたナラティブですが、v5.0 のキーワードとなりそうな「みんな化」を支える概念のひとつとして見直しを始めています。通常のナラティブは過去の経験を解釈するために語られることが多いものですが、Project Sprint におけるナラティブは、過去の意味づけのためだけでなく未来を紡ぐために語り継がれてゆくものです。はじめは誰かの信念を起点に語り出され、次第にプロジェクトチームのものになりながら、アップデートがなされていきます。

チームのメンバーにとっては、プロジェクトのナラティブを一度受け止め、自分の経験や価値観に引き付けて再解釈することによって、自身を語り手とする独自のナラティブが形成されていきます。これは明文化されず、個人のアイデンティティと強く結びつくために同じ形で他人と分かち合うことも難しいものでしょう。けれど、メンバーが自身のナラティブを紡ぎながらプロジェクトの中で活動していくことで、各メンバーのナラティブとプロジェクト自体のナラティブは影響しあいながら前に進んでいきます。プロジェクトメンバーのアイデンティティの集合とも言える明文化されないプロジェクトのナラティブが、具体的な行動を伴うプロジェクトストーリーをアップデートしていくのです。

Editor's Note

菊地玄摩

Recreation という語は、Re - creation (再 - 創造) という成り立ちのとおり、かつては病気からの回復、という意味で使われていたようです。栄養失調や疫病に悩まされる日々から開放され、また元気に生活できるようになる。そのための滋養を獲得する機会、意志、支援、環境などを指していたのだろうと想像できます。病気から逃れ、健康を追求するための Re - creation は、人生の切実なニーズだとも感じられます。

外敵から脅かされることが日常であれば、その危険の及ばない場所、時間は、人間らしく生きるための貴重なものになったでしょう。危険を避けることを忘れ、危険でなければ可能だったことを回復する。もし飢えが日常であれば、もし飢えのない世界だったらこんなことができるのに、と思わざるを得ません。病気がなければ、暴力がなければ、不平等がなければ…

今日、 Re - creation され、回復されるべきものは何でしょうか? Re - creation が義務からの開放、自由時間、自らのためにある、創造的で楽しい、といったニュアンスをもって使われているのを聞いたことがあるように思いますが、つまりそれらは、病気からの回復が必要であるのと同様の切実さで、損なわれているということでしょうか。私たちの日常は、義務に縛られ、不自由な時間に充たされ、誰か他者のためにある、つまらないものなのでしょうか?

私たちが Projecation を持ち出し、vacancy (空白) を想起させる vacation によって、project という語を「何か」から開放させようと試みているのも、そういった背景と無関係ではなさそうです。しかしどうでしょう。社会の目標はむしろ、自由や自主性、そして進歩することや創造性を発揮することに重きを置いているように見えます。露骨にそれを制限しようとする意図は、非難を免れないでしょう。しかしそれでも回復が必要になってしまうのは、自由や自主性を掴み損ねてしまう何かが、私たちの日常の中に「隠れて」いると考えなくてはならないように思われます。

無数の LED に照らされた現代においては、狼人間が活動する夜闇に対する恐怖はかつてほど大きくないかも知れません。しかし、私たち自身が依って立つ規範と、それを根拠に構築された社会や組織には、人の尊厳を傷つけたり、創造性を抑圧する「闇」が多く残されています。私たち村人は、やはり現代においても、闇に紛れて襲いかかる狼を恐れるだけでなく、身を守り、危険な現状に抵抗する勇気をもって行動をしなければならないのです。

ところで「ハッカー文化」の連載は、無理解に対する抵抗の物語です。彼らは、「支配しない」「正しいことをする」「みんなでやる」を諦めなかった人たちだと思います。そういう気持ちでソフトウェア開発と向き合っていない人々 (予算や販売の話が、それらの価値と相容れないものであり得るのは、容易に想像がつきます) との間に生じた違和感は、多くの場面で我慢、泣き寝入りという形で記録には残らなかったはずです。しかしそれでよしとしなかったのが、伝道師たちです。対決をするのではなく、何が大切で、価値があるかを我慢強く語り、共感によってそれを広めました。

今日の億万長者には、ソフトウェア開発によって富を築いた人たちが名を連ねています。彼らはイノベーションを達成してお金も手に入れたわけですが、しかし、伝道師たちが伝えようとしたような価値観を体現する人々とは限りません。自由であることは「正しいことをする」ために必要ですが、それ自体は目的ではない。イノベーションを達成したかも知れませんが、それは「みんなでやる」ことの力がもたらすひとつの結果であって、そのためにやる、とはまた別の話です。アジャイルがイノベーションを達成する、アジャイルで儲ける、といった解釈には注意が必要なのです。

同様に、Projecation が自由であることや、自己目的的であること、楽しいことは自然な性質なのであって、それによって Projecation を成立するのではない、のかも知れません。人の尊厳を守るための語彙や、社会的技術が未発達の今日にあって、それらは回復されるべき要素であると考えることから、得られることがありそうです。つまりそれは未知を受容するための心構えと、変化しようという意志を共有する、日常と異なった空間へ飛び込むことであり、人間性を回復することへの意志と不確実性を受け入れる勇気を伴うという点で、簡単ではないのです。そして日常から離れることは簡単ではないとしても、いっとき危険から切り離されたと確信できる安全な空間でなければ、狼に対する作戦を練ることもまた難しい、と言えるでしょう。Projecation が pro (前方) へ向けて ject (投げ込む) もの。それはまず、結果に先立って、現状から離脱する勇気を共有した者たちが、そのための一歩を踏み出すための真剣な空白づくり (vacation) なのでしょう。

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