ここまで「プロジェクトとは何か」という問いに始まり、プロジェクトをそれとして名指す実践 (あるいはそれを前提とした指し示し) によってプロジェクトの自己組織化が生じているのではないかと議論をしてきた。そして前号では、名指しを含めた言説的実践を可能にしている規範として、ヒュープライスの挙げる3つの規範 (主観から真理に至るまで) あるいは主張可能性を紹介した。
特に3つ目は「真理」をそれと見做しうる規範であり、これらは言説的実践の末に同じ共通認識 (真理) に辿り着くことを促してくれている。ある意味で科学的な知識観だろうが、ことプロジェクトにおいても同様なのだろうか。明らかな反証がなされるまで、主張を問い直して撤回する必要が生じないようなダイナミズムなのだろうか。そこに存在論的転回から垣間見られるような豊かな多様性は含まれているのだろうか。
ここで真理 (Truth) に拡大した解釈を与えてみる余地はあるまいか。「自らに誠実である (Be true to yourself) 」という表現があるが、それはすなわちその人とっての真理 (What’s true to one’s self) を尊重するということに他ならない。このときの真理 (Truth) が、単なる言葉遊びではなく、確実性という観点から「より真理である」とすら言えることを確認してみよう。
ここまで読んできた方であれば、もはや真に「客観的」なモノなど存在しないことは同意いただけるだろう。客観的だと思われている事柄は、検証された主張 (主観) でしかない。われわれは認識を共有していると普段考えているが、それは見做されている (同一説) だけであり、本当にそれが他人と同じであると確認するすべを持たない。
例えば人狼ゲームにおいて、互いに誰が村人で、誰が狼かは一見して分からない。隣の人が、同じルール (村人) でゲームに参画していると思い込んでいたら、実は全く違うルール (狼) で動いていることを知って驚くのである (驚かなければゲームにならない) 。単なるゲームではあるが、言説的実践の重要な様相を浮き彫りにしてはいまいか。現実はもっと単純で平和だと思ったら大間違いだ。ゲームは答え合わせができるが、現実は合わせるべき正解すらないのだから。
ただ、もしも「客観」がないのだとしても、その人にとっての「主観」があるというのは確実な真理なのではないだろうか。その人とっての真理 (What’s true to one’s self) 。たとえ合わせられなくとも。それを尊重 (ケア) していくことはできる。あるいは、それこそが重要だという発想すら可能だろう。なぜなら、それはその人だからこそ感じられる知覚であり、プロジェクトに重要な示唆をもたらす可能性すらあるからである。
他者の主観 (感情・世界観・存在論) を指し示すことは、共に存在することを可能にしてくれる。オーストラリアの先住民であるアボリジニーの儀式には、多様な精霊と共存するための実践があるのだという。共役不可能であっても互いの世界を尊重し合うこと。私がスウェーデンを訪れた際にサイモン・ウェストさんがそれを「ケアの実践」と呼ぶのだと教えてくれたが、まさにそうした実践がプロジェクトを「われわれ」として自己組織化することを助けてくれる。
これを、あえて第四規範と呼ぶとするならば、このように記述ができるだろう。
- non-p であると信じている人が存在するときに、p であると主張することは正しくない。このような状況で p であると主張することは、非難または不承認の一応の根拠を提供する
これは第三規範 (□¬p→¬□p) よりも自然な規範 (◇¬p→¬□p) となっている (含意「→」ではなく同値「⇔」にもなりうるという意味で) 。ここで、「p である」と「私には p だと感じられる」という言明を区別していることに留意したい。そもそも、セラーズによれば全ての「である (そのように実在している) 」という言明はその根拠を持たない。しかしながら、われわれは「である」という言明を日常的に使いすぎているがために、その他でありうるということを忘れてしまうのである。
さて、先の規範で発話者が事前に「non-p であると信じている人が存在する」ことを知り得ないのではないか、という反論もあり得るだろう。そこで、対話の参加者 (interlocutor) にも均等に義務を負わせることもできるかもしれない。
- 対話者が p を信じていないのに、p であるという結論に対して違和感を挙げないことは誤りだ。このような状況で p を黙認している人が居ることは、その人あるいはその状況を作り出した事態に対して、非難の一応の根拠を提供する
もちろん、ケアの深さあるいは多様性の許容の度合いによって第五、第六の規範もあり得るだろうが、ここで踏み込んだ論考は割愛したい。そこまで論じなくとも、少なくとも第四規範で大きな転換を見ることができるからだ。それは、真理の所在が外ではなく内にあるという転換である。「プロジェクト」と呼ばれてきた共通認識 (Truth) はわれわれの外に存在しているのではなく、実はわれわれ自身と不可分である (True to us) という再認識だ。
こうしたプロジェクト観に立てば、プロジェクトが直面する「未知」は外ではなく、むしろわれわれの内側に属している。そもそも、われわれ自身を介さずしてどのように世界と関わるというのだろうか。この「未知」は、われわれ自身が想像しているよりも多様なことを感受できることに通じている。自らを通じて世界を認識しているということに素直になることによって、「自分たち」に誠実 (True) な世界を共に紡ぎだすプロセスこそが「プロジェクト」だということになるまいか。
さて、次号は本連載を締めくくることになる。ここまで議論してきた内容が、プロジェクトにどのような実践的示唆を与えるのか、そして新たにどのような疑問を生むのかについて考えてみたい。