プロジェクトが「もつれる (Involute)」とはどういうことだろうか。前号では生物進化学においてそのダイナミズムを指摘したチャールズ・ダーウィンについて触れた。しかしわれわれは、自然淘汰のダーウィニズムについては教わってきたが、このもう1つのダイナミズムについては教わってこなかった。忘れられたのはその意義を見出す人が少なかったからだろうか。こうした事柄を語り直すにあたっては、「それが何か」を語るのみならず、「なぜ (改めて) 重要なのか」を説くという2つのことを同時に成さなくてはならないだろう。さもなくば、この連載も物好きな独り言として忘れ去られかねない。
この側面の重要性を声高に主張している1人がダナ・ハラウェイである。彼女は愛犬家だ。もちろんカイエン (愛称: ホットペッパー) という個体としての犬もそうだが、種としての犬に想いを馳せながら伴侶種として人間と共にしてきた歴史とその行く末も案じている。ペット市場における人間 (血統種を重んじるブリーダー達など) の身勝手な遺伝子選択がもたらす帰結に対して、犬に代わって対抗策を講じる活動は1つのケアであり、誰に課されたものでもないにも関わらず、ハラウェイや C.A.シャープなどの活動家が自身が感じて引き受けている責任である。彼女は責任 (responsablitiy) を応答可能性 (response-ability) と読み替えたのだ。
彼女にとって責任とは必ずしも社会的に課されるものではない。むしろ何かに応答 (response) する実践によって絶えず引き受けている関係性のことだ。そうした責任 (reseponse-ability) を醸成するために社会や言説的実践は必要ない。他者や他のモノに対する応答を選ぶなかで能動的に作り上げていくことができる。例えば、異種であっても伴侶種 (ペット) と人は応答し合うことで関係性を紡いでいる。むしろ、言葉を交わせない種同士が人生を添い遂げることを可能にするのが応答可能性 (response-ability) なのである。なんてパワフルな実践なのだろうか。
こうした思想的観点から、ハラウェイはオートポイエーシス (自己創出) がそれ自体では不十分だと指摘する。なぜなら、「オート」が自己を複製するという側面を強調する限りにおいては、個体主義的な見方から完全に脱しておらず、関係性を紡ぎ合う生きた世界を捉えきれていないと考えられるからである。ハラウェイはリン・マーギュリスが菌類が共生する様をsymbiosisと名付けたのを踏まえて、あらゆるものが互いに創出 (making with) する様をシンポイエーシス (sympoiesis) と呼んだ。こうした世界観において生物やモノは関係性を築く編み物 (String Figures) であり、その関係性を取り結ぶ触手を持つクモのような存在 (Cthulu) として捉えられるだろう。実際、菌類は壮大な共生の物語を繰り広げており、その上でわれわれの生きた世界は成り立っている。ここで自己複製をする微生物と共生する微生物は同じものであることに着目したい。つまりオートポイエーシスとシンポイエーシスは対立概念ではなく、むしろ同時に成り立っているものだと考えるべきだろう。ハラウェイは土着民がそう理解して生活してきたように、あらゆる存在の助けによって生きているということを再認識することが、この新たな地質時代に (もっともハラウェイは「人新生」という呼称を人間中心から脱し得ていないとして退けている) は必要だと主張する。アニミズムは思慮のあるマテリアリズムなのだ ("Animism is a sensible materialism")。
シンポイエーシスはあまりにダイナミックで越境的なのでシステムとして描写するのは難しいかもしれない。彼女も実際、そのシンポイエーシスのあり方を自身が「モデル」と呼ぶ幾つかのケースでしか示していない。ただ、そうした世界を実現する手立てとして好奇の実践 (Curious Practice) なるものを紹介してくれている。それは普段であれば見過ごすような事柄の中に「何か驚くような可能性が隠されている」「何か興味深いことが生じる」のではないかという予感を携えた行為である。この好奇な実践によって、例えばアラビアヤブチメドリとそれを観察する鳥類科学者は発見という名の関係性を新たに生み出すのだ。この態度は、ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマンを無思慮 (thoughtlessness) と形容したその対極にある態度だろう。「想定外の事柄に開かれながら、興味深い質問を呈し、答えて、出生によらない親類関係を築き、予期されなかった結論を共に提案して、出会いに伴う責任を引き受ける」こと。ときに「遠くに行き過ぎる (going too far) 」この実践は、未知への探索であり、安全であるとは限らない。しかし、それは「どうすればこの世界に住みうるのか」という問いによりよく答えるために必要な実践なのである。
ここにきて、やっと本連載を「プロジェクトをシンポイエーシス的に捉える試み」であると呼ぶことができそうだ。近年、プロジェクトを取り巻く激しく変化する環境は「VUCA」と略して説明されるが、それでは環境をブラックボックス化しているだけである。プロジェクトがどのように環境と関係しているのか。あるいはプロジェクトとその外側にある存在たちが共に何を成しているのか。これを理解することは、プロジェクトの「不確実性」を「下げる」「乗り越える」といった発想よりも有効だろうと思うのは私だけだろうか。次号は、シンポイエーシスの発想の源となるsymbiosisを提唱したリン・マーギュリスについて触れてみたい。