前号では「プロジェクト」が皆が思っているほど明確なものではないことを確認した。「プロジェクトって何だろう」という単純な問いにさえ答えられない我々だが、一方でプロジェクトを説明するのにマネジメントの用語や概念を使っていてはプロジェクトそのものから更に遠ざかってしまう。
では、どこからその問いに答え始めればよいのだろうか。簡単な思考実験をしてみよう。例えば、オオカミはプロジェクトができるだろうか。おそらく群れとして活動はできてもプロジェクトは難しいだろう。例えば、サルは?赤ちゃんは…?こうして考えていくと、(分別ある) ヒトが担い手であることは、プロジェクトの必要条件であるように思える。なぜヒトなら出来るのか? という問いは、「プロジェクトとは」という探究の1つの出発点になるのではないか。
実際、そのように考えているのは我々だけではない。前回紹介した通り、ホモ・プロジェクティカスという概念を提唱して、プロジェクトを人間の在り方と密接なモノとして根源的に捉え直そうという試みをが、プロマネの国際学会で認められているのである (論文の結論はともかく、問題提起には大きく共感するところだ)
ヒトの在り方とは何か。「在り方」というからには何処に「在る」のか。生物ごとに全く異なる世界を見ていると述べてたのが、ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルだ。ノミにはノミの、ヒトにはヒトが認識している環世界 (ウンベルト) があるというのである。ではヒトはどんな世界を認識しているのだろうか。なぜプロジェクトを互いに認識できるのだろうか。
例えば、ヒトらしさの1つである「言語」の観点からみてみよう。現代哲学の源とも語られるウィルフリド・セラーズが展開した認識論はこんな具合である。例えば、ヒトが「赤いリンゴ」を認識する。なぜ「赤いリンゴ」が「ある」と言い切れるのだろうか。ロボットが視覚的 (非推論的) データだけではリンゴを判別できないように、別の根拠 (推論的) が必要である。でもその根拠は最初からあるだけでなく、言語ゲームによって後から裏付けられて作られているのではないか、と提案したのが現代哲学の「源泉」とも呼ばれるウィルフレッド・セラーズである。つまり、「赤いリンゴがある」という言明は、正確には「リンゴのようなものがあり、それが赤いように私には見える」という主張なのではないか、というのである。もし推論が違うのであれば、いつでも訂正される余地がある (「それ仮想現実だよ」という映画マトリックス的な展開もあるかもしれない) 。
このように言語ゲームに参加している我々は、経験や他者の目を通じて認識を訂正し続けられるからこそ、同じ「プロジェクト」について語れるのではないか。認識論を一段落で説明するのは無理があったかもしれないが、「そういわれてみればそうかも」という観点の1つになれば幸いである。次は、我々は何をどこから「プロジェクト」として語ってるのかについて、考えてみたい。