『もつれるプロジェクトを見てみたい』という一心で出発した探査は、本号で最終回を迎える。この連載では、外にある異質なものを含み (Involve) ながら創発的・クリエイティブに変化するものとして躍動するプロジェクトの様を捉えるために、大きな迂回を経てきた。そこで見たのは、関係性の場として万物がつながり合っている (entangled) 世界であり、その中でプロジェクトは、むしろそうした偶有性を社会に刻印するものとして意味を持つのである。
前号は、社会にプロジェクトが切断を刻む1つのパスとして、モノを出力するという方法を紹介した。モノは偶発的な切断を、実践の連鎖から切り離した外側に保管しておくことを可能にするのである。今号は、もう1つのパスを紹介したい。それは偶発的な共鳴から生まれる「関係性そのもの」を持続させることである。
脳科学・哲学・倫理・政治を横断しながら「可塑性 (plasticity)」という概念を探究したキャサリン・マラブーは、脳科学を参照しながら、脳が「可塑性」を持つということ、したがって人の生き方それ自体も可塑的であるべきだと主張している。「可塑性 (plasticity)」は「柔軟性 (flexibility)」とは異なる。柔軟性は、適応 (adopt) という動詞に代表されるように、受動的である。一方で、可塑的 (plastic) であるとは語源的にも「形を取る (take form)」「形を与える (give form)」「爆発する (explode)」という3つの意味を同時に有しているように、ニュアンスに富んだ状態を表現している。実際、脳神経回路は体験によって形づくられているが、それは決して受動的で可逆的な操作ではない。むしろ「同時に活動するニューロンの結合が強化される (Hebbian強化)」という法則に基づいて、脳はその人の体験の「歴史」をある種不可逆的に刻んでいるのである。一方で、変更に対して受容的で主体的であり、さらには滑らかな変化だけでなく断絶や矛盾を伴う爆発的な変容・創造・抵抗の力をも有しているのが人間の脳なのだ。
こうした特徴は、何も脳神経に限らない。例えば、獣道、血管、河川、社会的ネットワーク、経済、都市といった様々な対象でも見ることができる。これは、ひとえにわれわれが非線形的適応系に生きており、「関係そのものが存在を生成しており、関係が変わるたびに存在の形も変わる」といったフィードバックループ (関係的存在論) の上に成り立っているからである。もし、そうだとするならば、関係の変化とは大なり小なり構造の変化である。別の言い方がゆるされるならば、われわれの生きる世界においては、 (意識されずとも) 関係性は記憶されるのである。
思えばプロジェクトも、新たな関係性を日常的に生み出している。新たなパートナー、知識、技術、パッケージなど。こうして生み出された関係性は、プロジェクトメンバーの記憶はもちろん、過去事例として、記録として、あるいはプロジェクトから切り離せない要素として、やがて経路依存性を高めていくだろう。プロジェクトも社会もまた、非線形的適応系なのであり、一度作られた関係性は社会や世界に爪痕を残しているのである。
さて、これで「もつれる」プロジェクトがその定義に従った役割を果たすための経路が少なくとも2つ存在することを確認できた。新しいモノを作ることと、新しい関係性を生み出すこと。これらは、よく考えればプロジェクトで当たり前のように行われていることではあるが、当たり前過ぎて見落とされている側面ではないだろうか。これらが「創発的なプロジェクトとは何か」という問いに対する答えとなっているのは非常に大きな意味を持っている。この2つ「こそ」が「もつれる」プロジェクトにとって本質的であるという気付きは、プロジェクトとは「どうあるべきか」という問いからは決して得られなかった視座であろう。これらは、新しい物質主義や OOO が壊して作り直そうとしている2つの要素と、軌を一にしている。この点を真剣に受け止めるならば、共創生的 (sympoietic) なプロジェクトは、存在論的デザインとも合流しうる営みなのかもしれない。
われわれが何を創るか、どんな関係を築くかということ「こそ」が重要である — 「もつれる」プロジェクトにおける倫理とは、プロジェクトが関わっている社会という大きな代謝の中で、変化への信頼を失わずに、結果よりも可塑性 (plastic) のある関係性を、成果よりも可解性(intelligibility) のある信じうる出力を残すことなのではないだろうか。可塑性も可解性も、ともに能動でも能動でもある中動態であるということは着目に値するだろう。どれほどの差異を受け入れながら意味を保てるのか、そしてどれほど意味のある差異を生み出せるのか — これが共創生的 (sympoietic) なプロジェクトの持つ「問い」なのではないだろうか。これが期限とゴール達成を前提とした従来のプロジェクト観とは大きく異なるものであることは言うまでもない。
さて、本連載はここで締め括ることとなる。奇しくも今号では、脳神経やネットワークといった構造との類似性に触れる形となったが、これはプロジェクトを集団知性として捉えられることを示唆してはいまいか。バクテリアもコロニーを築くことで集団知性を発揮し始めることが知られているが、プロジェクトと知能との間にはどのような関係性があるのだろうか。知能とは何だろうか。AIが席巻する現代社会において、プロジェクトはどのような意味を持つのであろうか。さらに広い視座からプロジェクトを意味付け直す試みは、この次の連載までに温めておきたい。
      


