The Project Theory Probe Journal

Issue 28
May. 31 2026

知能としてのプロジェクトを見い出したい

八木翔太郎

第4回 何が「1つ」を成り立たせるのか

前回、菌類において、ネットワークが個体に先行するという転倒を見た。菌糸融合(anastomosis)により境界は融解し、個体に戻るという状態が原理的に存在しない。そして菌糸先端(hyphal tip)から見ると多数体、ネットワークから見れば一つの連続した実体。観察のスケールによって、同じ菌糸が異なる「単位」として現れてしまう。

シェルドレイクは、この事態に対して「複数のメタファーを同時に保持する」という認識論的立場を選んだ。しかし、われわれがプロジェクトを知能として考えるためには、知性を発揮する主体について理解する必要がある。シェルドレイクがわれわれに残したのは「自己とは何か」「散らばった局所的な探索がいかに一つの振る舞いを生むのか」という2つの問いであった。

この問いに、まったく違う角度から答えを試みているのが発生生物学者マイケル・レヴィンである。もともとプラナリアやアフリカツメガエルなどで、形態形成における細胞間の電気的シグナル(生体電気)を研究してきた彼は、やがて細菌から細胞、組織、器官、動物、群れ、そしてAIに至るまで、あらゆる認知主体を比較することを試みている。先の2つの問いに同時に答えてしまう鋭さを持っている彼の議論を、順に辿ってみよう。

まず第一に「自己とは何か」。レヴィンは「認知の光円錐(cognitive light cone)」というメタファーを使って自己という単位を捉え直そうとしている。物理学では、ある時空の一点から因果的影響が及ぶ範囲を「光円錐」という円錐形の幾何で表す。光を認知と読み替えれば、認知の到達範囲も同じ形で描けるというわけだ。このとき光円錐は「システムが時空間においてどこまでの目標を追求できるか」を示す。

Levin (2019), Frontiers in Psychology, 10:2688, Figure 2(CC BY 4.0)。

例えば、ダニはごく小さな認知の光円錐を持つ。記憶も、予測能力もほぼなく、感知と行動は自分のすぐ近くに限られる。犬は、かなりの記憶と短い予測能力が加わり、行動の射程も広がるが、「来週都内で何が起きるか」を気にかけることは犬にはできない。人間はずっと大きな光円錐を持つ。数十年スパンの記憶、惑星規模に及ぶ目標、種の存続といった抽象的な状態にすら関心を向けることができる。同じ「認知」というラベルがついていても、扱える時空間のスケールが連続的に異なるというのがレヴィンの提案である。

この見方は、知能を発揮するのが「どんな単位か」から「どんな動きか」へと問いを変換していると言えるだろう。彼は「自己は、入れ子状になり、重なり合うことができる」とすら述べている。つまり、同じ生物学的物質が、異なる認知境界を持つ複数の「自己」を同時に支えうるということである。群れ、その中の個体、彼らの臓器、細胞内の代謝・転写ネットワーク。それぞれが固有の認知境界を持ち、独立した目標を追求している。「単位を一つに決めない」という意味では、シェルドレイクの「複数のメタファーを保持する」という姿勢と通じる一方で、レヴィンはその複数性を分離せず、むしろ同じスケールに乗せようと試みている。

彼によれば、ここで拡張されているのが、まさに「知性」である。知性とは「同じ目標へ異なる手段で到達する能力の度合い」であるというウィリアム・ジェームズの定義に従うならば、「認知の光円錐」が大きいほど「異なる手段」を取れる可能性が広がるからである。例えば、ある磁石は別の磁石に向かって動くといった明確な「目標志向」の振る舞いを示す。しかしその間に障害物を置くと、磁石はその場で止まってしまう。回り込むことができないからだ。一方、知性を持つシステムは、目標を保持したまま時空間を「見渡し」、別の経路を探すことができる。集団知性とは、こうして単独の主体を束ねることで「見渡し」の範囲(空間的・時間的に何を感知し、思い出し、予測できるか)をずっと広げられる能力のことなのだ。

このジェームズ的な知性が、束ねられたコレクティブにおいて実際に発揮されることを示すのが、レヴィンの研究室が行ったプラナリア(淡水性の扁形動物)の実験だ。プラナリアにバリウム(彼らが進化史で出会ったことのない毒)を与えると、頭部の電気的恒常性が破綻して頭が爆発してしまう。「機能する頭部を持つ」という目標を達成するための標準ルートが、ここで塞がれたことになる。ところが、再生能力で知られるこの扁形動物は、数日のうちに胴体から、最初からバリウム耐性を備えた頭を再生する。彼らの細胞コレクティブは、全ゲノムのどの遺伝子の発現を調節すればこの新規ストレスに対処できるかを、遺伝子発現空間の中で素早く探索したのである。同じ目標を、進化が用意した手段とは別の手段で達成したわけだ。細胞コレクティブによるジェームズ的知性の発露だと言えるだろう。

では第二の問い、「散らばった局所的な探索がいかに一つの振る舞いを生むのか」へ進もう。レヴィンによれば、より大きな「自己」が成立するとは、単独では存在しなかった能力が結束によって初めて立ち現れる状態のことである。細胞は単独では自分の表面近くしか感知できないが、細胞同士でイオン信号を直接やり取りできるようになった瞬間(ギャップ結合)、相互に異なる地点からの感覚データを共有し、より広い領域を一つの「環世界(Umwelt)」として持つようになる。共有された情報の上に階層的な処理が積み上がれば、生の入力から規則性を抽出し、記憶を蓄え、未来を予測することができるようになる。単独で抱えていた目標(e.g. 自分の細胞膜を維持する)よりずっと大きな目標(e.g. 正しい形のカエルの顔を作る)を、コレクティブとして追求できるようになるのだ。

こうした集団知性は、構造的にどのようにして立ち上がるのか。レヴィンらが2025年に行ったチェスのシミュレーション実験は、その構造的可能性を示唆してくれる。彼らが用意したのは、中央制御も長期計画も持たない、単純で局所的なルール(敵の駒を捕える、生き延びる、味方の王を守る)を持った駒たちだ。各駒は、自分のすぐ周囲しか見えず、記憶を持たず、何手先も読まず、「勝つ」という概念すら知らない。駒同士で、自分の視界に入った敵キングや高価値駒の位置を、味方の駒に伝えるのみだ。たったそれだけのコミュニケーションを持つシステムに、進化アルゴリズムで13個のパラメータを最適化させたところ、コレクティブとしてはチェスの人間初心者並み(Elo 1050)の腕前を発揮したのである。ここで重要なのは、「コレクティブの目的(キングを詰めること)は、アルゴリズムのどこにもコード化されていない」という点だ。誰一人「チェスに勝とう」と考えていないのに、コレクティブとしてはチェスに勝とうとしているように見える振る舞いが生じる。

とはいえ、チェスの駒たちはエンジニアが進化アルゴリズムで局所動機を「整合するように」設計したものだ。一方、生物の場合は誰も局所動機を整合させていない。にもかかわらず、現実の細胞や組織のシグナルは自然に整合し、より大きな自己を立ち上げる。なぜ生物の局所動機は、設計者なしに、自然に整合してしまうのか。

レヴィンはこれに、2022年の論文で「ストレスこそが行為者性(agency)の接着剤である」と述べて回答している。ここでストレスとは、現状と望ましい状態との差から生じるシステムレベルの応答である。あるサブエージェント(細胞、組織、メンバー)が局所的に得たストレスは、信号として周囲に伝播する。細胞のスケールでは、この伝播の物理的基質は生体電気(developmental bioelectricity)である1。ポイントは、他のサブエージェントも同じストレス検出系を備えているため、伝播してきた信号を「自分のストレス」と区別なく受け取る、ということだ。受け取った各サブエージェントも自らストレスを減らそうと動き、その動きが結果として協調行動を生む。集団があるからストレスが共有されるのではなく、ストレスが共有されている範囲こそが「一つの自己」として立ち上がるのである。

ここで前号の2つの問いに、レヴィンが一筆書きで答えていることに気づく。「自己とは何か」も「散らばった局所的な探索がいかに一つの振る舞いを生むのか」も、固定的な自己を前提とするから生じるパラドクスだ。ストレスを媒介とした動的なダイナミズムからすれば、各々の局所的なストレス削減行動は結果として整合するし、その整合が起きる範囲こそが自己なのである。自己と協調は、別々に成立するのではなく、同じ機構の二側面ということだ。

このことには深い含意がある。信号に個体の情報が乗っていないという事実は、細胞間のストレス共有だけの特徴ではない。シェルドレイクが菌糸融合(anastomosis)で見せた「自己境界の融解」も、リン・マーギュリスの共生発生(symbiogenesis)も、同じ原理として読める。菌糸はなぜ融合できるのか。それは菌糸を「区別する印」が、そもそも存在しないからだ。同じ論理が、真核細胞が異種のバクテリアの共生によって成立したことにも適用される。「自己」は先験的に与えられているものではなく、事後的に立ち上がる境界の現象である。逆に言えば、その伝播が断たれたり、分子の種類が分岐したりすれば、自己はいつでも溶解しうるだろう。

実際、この枠組みは自己の「縮小」のケースを記述するのにも活用できる。レヴィンによれば、癌は「認知境界の収縮(reversible shrinking of the computational boundary)」として理解できるという。癌細胞は周囲の組織との生理的シグナルから自分を切り離し、その結果として認知境界が多細胞化以前の状態(単一細胞のサイズ)に縮む。重要なのは、「癌細胞は、より利己的になったのではない」という点だ。「利己的な細胞が互いを思いやることをやめた」のではなく、「より大きな自己を成り立たせていたシグナルの結束が解け、各細胞は元から持っていた小さな自己に戻った」。利己性の量ではなく、利己性の単位が変わったのである。

この見方の転換は、プロジェクトにも実践的な気づきを与えてくれそうだ。ストレスの伝播が滞ったり、シグナルが届かなかったりすれば、より大きな自己はそこに存在しなくなる(認知境界の収縮)。プロジェクトの場で言えば、誰かのつらさが共有されない場、テンションが個人の内側で吸収されてしまう場、そこには集団知性としてのプロジェクトはもはや成立していないと言えるのかもしれない。プロジェクトという単位が存在するのは、メンバーのストレスが互いに届き、対処される範囲においてだ。レヴィンは、漠然と「いいチーム」「悪いチーム」と語られることを、こうした明確な機能的特徴として記述する枠組みを与えてくれる。

…と、楽しくなってきたところだが、紙面の限界が来てしまった。レヴィンの研究の示唆は実は学習にも及んでいるのだが、残りは次号に回したい。

1 ストレスは機能の側から見た現象、生体電気はそれを実装する基質の側から見た現象であり、両者は同じ事象を二つの角度から捉えていると言って良いだろう。生体電気(developmental bioelectricity)はサブエージェント同士のコミュニケーションとして、レヴィンが細胞のスケールにおいて研究してきた機構である。細胞同士は「ギャップ結合」と呼ばれる構造によって電気的に接続され、イオン信号がこの経路を通じて広範囲に伝播する。こうした生体電気的シグナリングは生命の至るところに広がっている。細菌のバイオフィルムですでにこの電気的シグナリングは見られており、神経系の電気活動はそれが極めて高速化・特殊化されたバージョンだと言えるだろう。古典的な神経科学が前提とする「脳が認知を独占する」という見方に対する端的なアンチテーゼである。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(28) 規範

The Rhythm of Intimacy

Kitty Gia Ngân

Can you dance in a conference?

A few years ago I was attending my first international conference on Asian scholarship in Yogyakarta. It was a huge annual ordeal with hundreds of programs and people seemed relatively engaged but at the time, I was so fucking bored. I remember going to a discussion on Tantra, thinking Tantric Sex would at least be more alive, but it turned out to be the most boring text-reading presentation. People were present but not really there at all.

The same thing happened at subsequent conferences, thus my strategy became to be as absent as possible without raising concern. In earlier issues I've dissected this as the rhythm of intimacy — the way each gathering already engineers risk, rhythm, space, time, noise, and expectation, therefore engineering what kinds of affect become possible. The script-rhythm of a venue — read paper, Q&A, applause, coffee, repeat — produces the boring-affect.

But to complain that science conferences are boring and disembodied is not fair, because I feel just the same with most art shows, education and business conventions. Even in many clubs, people just stand and watch and bop along. My guess is that we have gotten so good at being unaffected and unaffective. Everything felt vague. Life was not intimate.

The yearning for intimacy is a powerful force. It's a yearning for a spark, some magic, some vitality and enjoyment! Such a yearning must register what doesn't happen but could have been otherwise. It feels an absence, for example, a hug that was never given, and moves towards it.

Sehnsucht is the German word for the deep yearning for an undefined ideal or experience you never quite had. The body wants to break out into a different rhythm. C.S. Lewis used sehnsucht specifically for "the inconsolable longing for we know not what". Pursuing that longing is activistic. It shakes the world up a little by testing its boundaries and queering it. To follow it is to make time-space-mattering for the noise the agenda has no slot for. The result is usually euphoric creativity and friendship.

In Process and Reality (1929), Whitehead introduced the term negative prehension which is to comprehend something but is actively excluded from having it acted out. Registered and then refused. Whitehead pointed out that negative prehension leaves their mark, the shape of an occasion is determined as much by what it refused as by what it absorbed. Boredom and stiffness are what it feels like to be in a room organised mostly by its negative prehensions.

People tend to rail-guard, Well you should be grateful for what you're already experiencing and not yearn for something else. It's a wrong understanding of desire. Again, Deleuze and Guattari come to mind: "Desire does not lack anything; it does not lack its object." I am not clocking out when I desire, I am so tuned-in, thus I get depressed when we waste those precious venues to being robotic. Charli wrote: "I felt depressed because what I had witnessed had felt really safe, really nothing and honestly kind of boring." I would rather acknowledge the yearning than letting go and stay bounded. Give up, give in.

Erin Manning wrote, "To come to language is to feel the form-taking of concepts as they prearticulate thoughts/feelings." It is important to follow those inconsolable longing albeit we don't yet have the language for it. To yearn is sometimes not pleasurable, but it is pleasurable in the fact that we can yearn thus become different.

親密性のリズム

Kitty Gia Ngân, 八木翔太郎(訳)

学会でダンスはできるか?

数年前、私はヨグヤカルタで開催されたアジア研究の国際学会に初めて参加した。何百ものプログラムが並ぶ大規模な年次大会で、参加者たちはそれなりに熱心なように見えたが、正直なところ、私はものすごく退屈していた。タントラに関するディスカッションに参加したとき、タントリック・セックスの話ならもう少しは生き生きとしているかもしれないと期待したのだが、結局は最も退屈な論文読み上げ式の発表だった。人々はそこにいたが、実際にはまったく「そこ」にはいなかった。

その後の学会でも同じことが繰り返され、私の戦略は「問題を起こさない程度にできるだけその場を離れる」ことになった。以前の号でこれを親密性のリズムとして分析してきた——各々の集まりがすでにリスク、リズム、空間、時間、ノイズ、期待を設計することで、どんなアフェクトが可能になるかを設計している、という話だ。会場のスクリプト的なリズム——論文発表、質疑応答、拍手、コーヒーブレイク、繰り返し——が退屈というアフェクトを生産する。

とはいえ、学会が退屈で身体性を欠いていると嘆くのは公平ではないかもしれない。なぜなら、ほとんどのアートショーや教育・ビジネスのイベントでも同じように感じるからだ。多くのクラブでさえ、人々はただ立って見て、少し身体を揺らすだけだ。私の推測では、私たちは影響を受けることも影響を与えることもなく存在することにとても長けてしまったのだと思う。すべてがぼんやりとしている。生は親密ではなかった。

親密性への渇望は強力な力だ。それは何かのきらめき、魔法、活力と楽しさへの渇望だ!そうした渇望は、起こらなかったけれど別様でありえたはずのことを感知しなければならない。与えられなかった抱擁のような不在を感じ取り、そこへと動いていく。

ゼーンズフト(Sehnsucht)はドイツ語で、かつて手に入れたことのない、定義の難しい理想や経験への深い渇望を指す言葉だ。身体は別のリズムへと飛び出したがっている。C.S.ルイスはゼーンズフトを特に「知らないものへのなぐさめのない憧れ」として用いた。その渇望を追うことは、活動主義的な行為だ。境界を試し、それをクィアにすることで、世界を少し揺さぶる。それに従うということは、議題に割り当てられていないノイズのために時間・空間・意味の場を作ることだ。その結果はたいてい、陶酔的な創造性と友情だ。

『過程と実在』(1929年)において、ホワイトヘッドは否定的把握(negative prehension)という概念を導入した。それは何かを把握しつつも、それが現実化されることを能動的に排除するということだ。登録されたうえで、拒絶される。ホワイトヘッドは、否定的把握がその痕跡を残すことを指摘した——ある出来事の形は、それが吸収したものと同様に、それが拒絶したものによっても決定される。退屈さと硬直は、おもに否定的把握によって組織された部屋の中にいる感覚だ。

「すでに経験していることに感謝して、それ以上を望むな」と諫める人たちがいる。それは欲望についての誤った理解だ。また、ドゥルーズとガタリを思い出す。「欲望はいかなるものも欠いていない。欲望はその対象を欠いていない」。欲望しているとき私はログアウトしているのではなく、むしろ深くチューニングインしているのだ。だから、貴重な場を機械的に消費してしまうとき、私は落ち込む。チャーリーはこう書いた:「目の当たりにしたものがとても安全で、何もなく、正直なところかなり退屈に感じられたので、落ち込んだ」。その渇望を認めることなく手放して、縛られたままでいるくらいなら——諦めずに、流されずに。

エリン・マニングはこう書いている。「言語に至るということは、思考や感情を前言語的に整える概念の形成を感じ取ることだ」。たとえまだその言語を持っていなくても、なぐさめのない渇望に従うことが大切だ。渇望することは必ずしも快楽的ではないが、渇望できるがゆえに異なる存在になれるという点において、それは快楽的だ。

流動のなかのプロジェクト

賀川こころ

第4回 個と方向はどこから立ち上がるのか

前回、クジラやイルカたちの群れを眺めながら、「関係のほうが先にある」という話をした。わたしたちは通常、まず個体が存在し、そのあいだに関係が結ばれると考える。しかし海のなかで起きていることは、むしろ逆の順序を示しているように見える。関係のなかに身を置いたまま、それぞれが動き、その動きのなかから個や方向が立ち上がる。

だとすれば、そもそも「個」とは何なのだろうか。わたしたちは、自分自身を比較的安定した存在として捉えている。組織に所属し、肩書を持ち、役割を持つ。プロジェクトにおいても、まずメンバーを定義し、それぞれの役割を決めるところから始めることが多い。しかし、イルカたちを見ていると、その前提が揺らぐ。

以前も触れたが、幼い子を連れた母イルカとヒトとの間に別のイルカが割り込んでくることがある。わたしたちはこうした個体を「囮」と呼ぶ。しかし、その個体が群れのなかで恒常的に囮を担っているわけではない。同じ個体が次の日も同じ役割を果たすとは限らないし、群れのなかに明確な役割分担があるようにも見えない。それでもその瞬間には、彼または彼女は確かに囮である。

考えてみれば、「囮」という言葉は役割の名前だ。しかし海のなかで起きていることは、役割が先に存在してその役割を誰かが担うというよりも、ある行為が起き、その結果としてあとから「囮だった」という意味づけがなされているにすぎない。役割が先にあるのではない。行為のなかで役割が立ち上がっている。

これはイルカだけの話ではない。たとえば、プロジェクトマネージャーという役割がある。しかし肩書を与えられた瞬間にその人がプロジェクトマネージャーになるわけではない。誰かの話を聞き、対話をつなぎ、判断を促し、次の一歩を見出す。その行為の積み重ねのなかで、結果として「プロジェクトマネージャー」という存在が形を得る。存在が先にあり行為があとに続くのではない。行為のなかで存在が形を得る。だとすれば、「個」とは固定された実体というよりも、関係や行為の流れのなかで、常に揺らぎながら立ち上がりつづけるものなのかもしれない。

そして、この話はそのまま「方向」の話につながる。わたしたちは、同じ方向に進むためには、まず方向を決めなければならないと考える。ビジョンを共有し、目標を定め、計画をつくる。プロジェクトとは、その方向に向かって進む営みだと理解されることも多い。しかし、クジラやイルカの群れを見ていると、方向もまた別のかたちで生まれているように見える。

イルカたちは群れで移動しているときでさえ、同じものを見ているわけではない。ある個体は海底近くを泳ぎ、ある個体は水面近くを泳ぐ。魚を探しているものもいれば、仲間と遊んでいるものもいる。ときには群れから大きく離れて見える個体もいる。それでも群れは進む。

誰かが先頭に立って方向を決めているようにも、全員が同じ情報を共有しているようにも見えない。それでも結果として、群れ全体はひとつの流れを持つ。方向は、あらかじめ与えられているのではなく、探索のなかから立ち上がっているように見える。それぞれが環境を探り、それぞれが応答する。その結果として群れ全体の流れが少しずつ形を得ていく。ここでもまた、順序は逆転している。

わたしたちはまず方向を決め、それに従って行動しようとする。しかし彼らの世界では、探索が先にある。探索の重なりのなかから、あとになって方向が立ち上がる。個が先にあって関係が生まれるのではない。関係のなかから個が立ち上がる。方向が先にあって行動が生まれるのではない。行動のなかから方向が立ち上がる。そう考えると、「同じ方向に進む」という言葉も違って見えてくる。それは、同じことを考えることではない。同じ認識を持つことでもない。同じ行動を取ることですらない。それぞれが異なる場所で、異なるものを見て、異なる行動を取りながら、それでも同じ流れのなかにいること。それが、彼らにとっての「同じ方向」なのかもしれない。

だとしたら、プロジェクトもまた違って見えてくる。まずメンバーを定義し、役割を決め、方向を共有する。わたしたちはしばしば、その順序でプロジェクトを始めようとする。しかし、そうではないのかもしれない。むしろ、それぞれが探索し、応答し、関係し続ける。その流れのなかで、役割が立ち上がり、方向が立ち上がる。プロジェクトとは、個を集めて方向を与えるものではなく、個と方向がともに立ち上がりつづける場なのかもしれない。

もしそうだとしたら、個々が自由に探索し、方向さえあとから現れるのだとしたら、なぜ群れはほどけないのだろうか。なぜ彼らは関係性を保っていられるのだろうか。次回は彼らの「同期」について考えてみたい。

今月のビデオゲーム

八木翔太郎

第4回 なぜマリオにジャンプさせたくなるのか

パワームーンを取ろうとマリオが空中で身を捻る0.5秒のあいだ、コントローラーを握るプレイヤーは、自分の指の動きとマリオの空中の姿勢に何かしら「美しい」ものを感じている。一方、組織のKPIや学校のGPA、SNSの「いいね」。これら制度的な指標は私たちを縛り、ときに生命力を吸い取っていく。同じスコア(採点)のはずなのに、なぜこの二つは正反対の効果をもたらすのか。C・ティ・ニューエン(C. Thi Nguyen)は、2026年の著作『The Score: How to Stop Playing Somebody Else's Game』で、この問いを分析している。

前回、ゲーム設計は「遊びの建築家」だと述べたシカールは、「ゲームは遊びを殺す」とまで言いつつ、「ゲーム構造そのもの」に疑念を抱いていた。だが、彼が警告するように「同じ設計の素材が、愛ある旅と服従の設計のどちらにも転がる」ならば、その分岐点はどこにあるのか。

ニューエンは、むしろ「ゲームの厳密な構造こそが遊びの軽やかさを可能にする」のだと反論する。彼はシカールの遊び論と自身が依拠するバーナード・スーツの遊び論を「深く対立している」としながら後者の立場をとるのだが、そこにはニューエン自身の経験が深く関わっている。彼はロッククライマーとして難易度グレードという採点に励まされながら豊かな経験を重ねている一方で、Twitterの「いいね」や論文の引用数という採点を稼ぐ自分になっていく違和感を本のなかで率直に語っている。同一人物・同種の機械的な採点が、一方では人生を豊かにし、他方では捕獲する。違いは個人の徳ではなく、構造の側にあるはずだ。彼が「プレイフルネスは構造の達成である」と言い切るのは、観察による主張であると同時に、捕獲された人々を自己否定から解放し、設計者の責任を問い直すための、倫理的・政治的なアクティビズムでもあるだろう。

ニューエンが議論の出発点に置くのが、「ストライビング・プレイ(striving play、奮闘を楽しむ遊び)」という概念だ。「ゴールのために手段を採用する」というのが一般的な実践の順序だが、ゲームではそれが逆転している。マリオでムーンを取りたい、ダークソウルでボスを倒したい。こうしたゲーム内のゴールは、それを達成するための奮闘そのもの(手段)を楽しむために、一時的に採用されているのである。ニューエンはこれを「手放し可能な目的(disposable end)」と呼ぶ。本気で追求しつつも、ゲームが終われば手放せるのである。

ストライビング・プレイは、日常生活では希少で脆い。熟練の職人が刃物を研いでいるとき、登山者が岩肌に取り付いているとき、ダンサーが体の流れに乗っているときに「奮闘そのものを味わう」瞬間はある。しかし日常の実践の多くはその他の事柄(成果、評価、安全、明日への影響)が絡みついていて、私たちの注意を「いま、この動作」から引き剝がし続けている。ゲームが提供してくれるのは、この脆さを構造的に取り除いた環境だ。だからこそ私たちは、マリオで何度落ちても笑ってまた飛べる。奮闘そのものが楽しいのだ。

ニューエンは、ゲームがストライビング・プレイを構造的に成立させる環境の特徴を、四つの条件として整理している。①入ること自体が自発的であること。プレイヤーは自分の意思でゲームに足を踏み入れる。②途中で抜けられること。家が燃え始めたら、当然ゲームを中断する。③ゲームが構造的に終わること。終わりは設計に組み込まれている。④現実の利害から切り離されていること。ムーンを取り損ねても、給料は下がらない。このうち、①の自発性はバーナード・スーツの古典的な「遊戯的態度(lusory attitude)」概念に近く、残る②③④は、その自発性が本当に「手放し可能」であり続けるための条件と読める。

さて、ここで興味深いのがスコアリングとの関係である。ゲーム内の目標が「手放し可能」であってこそ、スコアはストライビング・プレイを引き出してくれるのだが、四条件のどれかが崩れると、スコアは現実の利害と結びついてしまう。ニューエンはこの現象を「バリュー・キャプチャー(value capture)」と呼んでおり、いわゆるゲーミフィケーションが後者に陥っていることを指摘している。例えばTwitterでは、四条件のほぼ全てが崩れている。何かを伝えたくて始めたはずが、家族と食事をしながらでも頭の中で次のツイートを構成している自分がいて、タイムラインに終わりはなく、「いいね」の数は自尊心や職業評価、ときに収入にまで直結している。結果として人生は豊かになるどころか、システムに捕獲(バリュー・キャプチャー)されるのである。

では、安易なゲーミフィケーションは何を見逃しているのだろうか。ニューエンはストライビング・プレイによって得られる経験に「プロセス・ビューティ(process beauty)」という名を与えている。絵画や小説に宿る「物そのものの美」(オブジェクト・ビューティ)に対して、プロセス・ビューティは自分自身の行為や選択のなかに立ち現れる美である。冒頭のマリオのジャンプの中にプレイヤーが見出す「美しさ」はまさにこれにあたる。ゲームとは絵画や小説とは違って、プレイヤー自身の動作のなかに美を立ち上げる芸術形式なのである。しかし、このプロセス・ビューティは、ストライビング・プレイのなかでしか立ち上がらない。本気で目標を追求しながら、軽やかに手放せる。この本気の関与と軽やかな手放しの同時成立があるからこそ、注意は「いま、この動作」に集中し、自分の動きの美しさを感じ取れる。四条件はストライビング・プレイの動機構造、ひいてはプロセス・ビューティを守る装置なのである。

それが守られた上で、「スコアは奮闘の形を作る(the score shapes the struggle)」。スコアが変われば、プレイヤーが追求する目的が変わり、そこに立ち上がるプロセス・ビューティの種類が変わる。マリオオデッセイはムーンの数をスコアにしているが、設計の妙はムーンの配置にある。プレイヤーが「あれを取ろう」と思った瞬間、その経路は明らかではなく、長押しジャンプと三段ジャンプとボディプレスを組み合わせて、ぎりぎり届きそうな経路を自分で発明しなければならない。ゲーム設計者は美を「処方している」のではない。プレイヤーが自分自身の動きのなかにプロセス・ビューティを立ち上げられる足場を、スコアを通じて作っているのだ。

プロジェクトでも同じことが言えるだろう。難しい問題が思いがけないアイデアで解けたとき、対立する意見が一段深い理解に統合されたとき。これらはプロジェクトという活動のなかに立ち上がる、メンバー自身の動きの美しさ(プロセス・ビューティー)である。スコアと四条件の両方が、こうした経験をメンバーが持てるかどうかを決めてしまうことは上で見た通りだ。プレイフルなチームを作るためには、メンバーの態度を変えようとするのではなく、構造そのものを設計し直すことこそが必要なのではないだろうか。

さて、冒頭でニューエンを「シカールと正面から対立する立場」と紹介したが、ここまで辿ってみると、両者は深いところで響き合っている気もする。美は設計者によって「処方される」のではなく、プレイヤーと対象との出会いから「立ち上がる」という存在論を二人は共有しているからだ。

本連載はここまで現代のゲーム批評から存在論的デザインの実践的ヒントを得てきたが、ここにきて古典を辿って理解を深めるのも意義深そうだ。次回は、ニューエンが繰り返し引用しているバーナード・スーツに立ち戻ってみたい。

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プロジェクトをAIと一緒にもぐってみている

定金基

#4「面白がる力」をめぐるAIとの対話 〜 Claudeさんと

プロジェクトメンバーには「面白がる力」が必要だ——そう漠然と感じていた。けれど、それは本当に必要なのか、必要だとしてなぜか、どうすれば身につくのか、定例会議に何を仕込めばいいのか。考えを進めるために、「面白がる力」をリサーチした上でその専門家として振る舞うAIを相手に壁打ちをしてみた。以下はその対話ログと、終わったあとに自分の言葉でまとめた記録である。漠然とした直感が、会議で明日から試せる具体的な問いの形になるまでの道のりを残しておく。

#4「面白がる力」をめぐるAIとの対話

〜 Claudeさんと
わたし

今日はよろしくお願いします。どんな人でもうまくプロジェクトを進められる方法論を探求している定金と申します。特に定例会議が大事な装置だと思っています。

今日はプロジェクトメンバーには面白がる力が必要だと思っていまして、その話についてお話ししていきたいと思います。私はプロジェクトメンバーが常に自分が面白い!と思うものを提案し続けることでプロジェクトが進むと思っていますが、そもそもメンバーが面白い!と感じられない場合はその状態にならないと思っています。

ということで、プロジェクトメンバーが面白がる力を発揮できたり、プロジェクトの定例会議が面白がりやすかったり、面白がり力を向上させる場になると良いなと思っています。

まず漠然としてますがこの意見に対してどう思われますか?

AIさん

よろしくお願いします。まず率直に言うと、定金さんの直感は学術的にかなり筋がいいです。ただ一箇所、ひっくり返したい順番があります。

「メンバーが面白がる→提案する→プロジェクトが進む」という流れで語られましたが、リサーチが示すのはむしろ逆向きの矢印が強い、ということです。Loewensteinの情報ギャップ理論では、人は「自分の中に空白を感じたとき」に面白がる。つまり面白がりは資質から湧くより、状況から引き出される。先に「ちょっと分からない」が置かれて、後から面白がりが立つ。

だから設計の急所はたぶんこうです。面白がりを目標に置かず、面白がりが起きてしまう構造を置く。 会議の表向きの目的は別にあって、その副産物として面白がりが滲む。

最初の問いを返します。定金さんの定例会議は今、メンバーにとって「答えを報告する場」ですか、それとも「まだ分からないことを持ち寄る場」ですか。ここが面白がりの分かれ目になります。

わたし

今日はよろしくお願いします。どんな人でもうまくプロジェクトを進められる方法論を探求している定金と申します。特に定例会議が大事な装置だと思っています。

今日はプロジェクトメンバーには面白がる力が必要だと思っていまして、その話についてお話ししていきたいと思います。私はプロジェクトメンバーが常に自分が面白い!と思うものを提案し続けることでプロジェクトが進むと思っていますが、そもそもメンバーが面白い!と感じられない場合はその状態にならないと思っています。

ということで、プロジェクトメンバーが面白がる力を発揮できたり、プロジェクトの定例会議が面白がりやすかったり、面白がり力を向上させる場になると良いなと思っています。

まず漠然としてますがこの意見に対してどう思われますか?

AIさん

よろしくお願いします。まず率直に言うと、定金さんの直感は学術的にかなり筋がいいです。ただ一箇所、ひっくり返したい順番があります。

「メンバーが面白がる→提案する→プロジェクトが進む」という流れで語られましたが、リサーチが示すのはむしろ逆向きの矢印が強い、ということです。Loewensteinの情報ギャップ理論では、人は「自分の中に空白を感じたとき」に面白がる。つまり面白がりは資質から湧くより、状況から引き出される。先に「ちょっと分からない」が置かれて、後から面白がりが立つ。

そして定例会議に注目しているのは、この観点だと正解です。なぜなら会議は、その「ちょっと分からない」を意図的に配置できる、数少ない設計可能な装置だから。資質には手を入れにくいけど、議題には手を入れられる。

ひとつ警告も置かせてください。「面白がり力を向上させる場にしたい」——この狙いは正しいんですが、それを会議の目的として掲げた瞬間、危うくなります。Deci & Ryanのアンダーマイニング効果です。「さあ面白がりましょう」と要求された面白がりは、もう面白がりではない。

だから設計の急所はたぶんこうです。面白がりを目標に置かず、面白がりが起きてしまう構造を置く。 会議の表向きの目的は別にあって、その副産物として面白がりが滲む。

最初の問いを返します。定金さんの定例会議は今、メンバーにとって「答えを報告する場」ですか、それとも「まだ分からないことを持ち寄る場」ですか。ここが面白がりの分かれ目になります。

わたし

私が参加して構築している Project Sprint では定例会議を自分が出力したものを持ってみんなが参加する、みんなの出力を愛でる収穫祭のようなものだと考えています。出力について自分で話してみて初めて自分でもわかる、出力があることでチームにとって事実が積み重なる。その事実を持って改めてチームがどこにいるのか、どこに向かっているのかがわかり、次のアクションが決められる。そんな場だと思っています。なのであなたの問いに答えると後者の立場に近いです。

AIさん

「収穫祭」と「愛でる」——この二語は、面白がりの設計としてほとんど完成しているとすら思います。少し解剖させてください。

まず「自分で話してみて初めて自分でもわかる」。これはWeickのSensemakingそのものですが、面白がりの観点で言い直すと、出力を語る瞬間に話者自身の中に情報ギャップが開く。「あれ、自分はなんでこれをこう作ったんだろう」。Loewensteinの言う、面白がりが最大化する「ちょっと分からない」が、報告者本人に発生する。報告が確認作業でなく発見になっている。ここがすでに面白がりの装置です。

次に「愛でる」。これが効いている理由は、さっき話したアンダーマイニングと不服従の両方を同時に回避しているからです。「評価する」ではなく「愛でる」だから、出力が外発的なジャッジに晒されない。「面白がれ」と要求していない。出力を持ち寄ること自体が場の前提になっていて、面白がりは命令されず、ただ起きる。

ただ、ひっかける問いを置きます。「愛でる」は心地よい。心地よすぎると、Loewensteinのギャップが閉じませんか。全部肯定的に愛でられる場は、安全だけど、空白が生まれない。面白がりには「ちょっと分からない」の緊張が要る。

収穫祭で、誰かの出力に対して「それ、なんでそうしたの?」とギャップを開く問いは、起きていますか。それとも、愛でることが優先されて、そこは踏み込まれずに流れていますか。

わたし

Loewensteinのギャップについてもうちょっと詳しく教えてもらえませんか?そしてその内容により、定例会議における問いはどんなものが良いとあなたは考えますか?

AIさん

喜んで。これは今日の議論の土台になる理論なので、丁寧に。

Loewensteinの情報ギャップ理論(1994)

George Loewenstein(カーネギーメロン大の行動経済学者)が、それまでバラバラだった好奇心研究を一本化した理論です。中心命題はシンプルで、好奇心とは「自分が知っていること」と「知りたいこと」の差=情報ギャップを、自分で認知したときに生じる感情だ、というもの。

肝は、ギャップの大きさと面白がりの関係が逆U字になることです。

  • ギャップがゼロ(全部分かっている)→面白がる余地がない。退屈。
  • ギャップが大きすぎる(何も分からない)→不安・回避。手も足も出ない。
  • ギャップが中程度(あと少しで分かりそう、でもまだ届かない)→ここで好奇心が最大化する。

Berlyneの「最適覚醒理論」とも整合します。「ちょっとだけ分からない」が一番おいしい。クイズで言えば、答えが喉まで出かかっているのに思い出せない、あの状態が一番気になる。

そしてLoewensteinが強調したのは、ギャップは客観的な無知の量ではなく、本人が「空白がある」と気づいたときに初めて発生するという点です。知らないだけでは面白がらない。「自分はこれを知らない」と本人が自覚したときに、初めてスイッチが入る。

ここから定例会議の問いの設計に落とします。良い問いの条件は、ギャップを閉じる問いでなく、ギャップを開く問いであることです。

「結論は何?」「で、終わったの?」——これはギャップを閉じにいく問い。報告者の空白を埋めて安心させる方向。面白がりは死にます。

逆に、ギャップを開く問いはこういう形を取ります。

  • 「それ、なんでそうしたんですか?」——報告者本人が言語化していない前提に空白を開ける。さっきの「自分で話してみて初めてわかる」を意図的に起こす問い。
  • 「もし逆だったらどうなってました?」——出力の周りに、検討されなかった可能性の空白を開く。
  • 「これ、自分でも意外だった部分はあります?」——報告者自身が抱えている小さな違和感を表に引き出す。本人の中のギャップを名指しさせる。

設計の急所は、逆U字の真ん中を狙うことです。「全部説明して」は大きすぎるギャップを開いて報告者を不安にさせる。「結論だけ」はギャップを潰す。「あと一歩で言葉になりそうな、でもまだなっていないこと」を一点だけ突く問いがいい。

ひとつ確かめたい。Project Sprintの収穫祭で、こういう「なんでそうしたの?」系の問いは、今は誰が投げる役回りですか。ファシリテーターの仕事になっているのか、メンバーの誰からでも自然に出るのか。ここで設計の方向が変わります。

わたし

Project Sprintでは自分の出力に対しては自分で次のアクションを産むために自分でファシリテーションするということを推奨しています。なので問いを立てるとしたら、1. 提案者が、自分が何を求めているかを会議参加者に投げかける場合、2. なんでも良いのでコメント欲しいという状態で参加者が提案者に対して投げかける場合の2種類かなと思います。

AIさん

この2種類、Loewensteinで見るときれいに性格が分かれます。そして片方に落とし穴があります。

1. 提案者が自分で問いを投げる場合。

これは理論的に最強です。なぜなら、ギャップを開く前に提案者本人が「自分の中の空白」を名指ししているから。「ここが自分でもまだ分からない」と言える人は、すでにLoewensteinのスイッチが入った状態にいる。面白がりが自家発電されている。Project Sprintの「自分でファシリテーションする」思想が、面白がりの観点でも理にかなっているのはここです。

ただし条件がある。提案者が自分のギャップに気づけていることが前提です。一番面白い空白は、たいてい本人に見えていない。「自分では分かっているつもり」の部分にこそ、語ってみて初めて開く空白がある。だから1だけだと、提案者の自己認識の射程でギャップが頭打ちになる。

2. 参加者が「なんでもいいからコメント」で投げる場合。

ここに落とし穴があります。「なんでもいいから」は、ギャップを開く問いではなく、ギャップを埋めにいくコメントを誘発しやすい。「いいと思います」「ここはこうした方が」——助言や肯定は、提案者の空白を閉じる方向に働く。愛でる場としては機能するけど、面白がりのギャップは生まれない。

しかも2には、今日のリサーチの「不服従」リスクが効きます。「なんでもいい」と言われた参加者の問いは、場の力学次第で「批判」に読まれる。だから無難な肯定に寄る。安全だけど空白が開かない。

なので、2の設計をこう変えるのを提案します。参加者に求めるのを「コメント」ではなく「あなたがこの出力で一番気になった一点」にする。

これは差が大きい。「コメント」は助言を誘い、ギャップを閉じる。「気になった点」は参加者自身の中に開いた空白の報告になる。「なんでここをこうしたのかが気になった」は、提案者を評価していない。参加者自身のギャップを差し出している。だから不服従に読まれにくく、かつ提案者に新しい空白を開く。

整理すると——1は提案者自身のギャップを起点にする装置、2は参加者のギャップを提案者に贈与する装置。両方とも「埋める」でなく「開く」に振り切れたとき、収穫祭が面白がりの場になる。

問いを返します。「気になった一点」を全員が出す場合、出力1つに対して空白が複数開きます。それは収穫祭の時間設計と両立しますか。それとも、面白がりと時間効率はここでトレードオフになりますか。

わたし

ちょっと私からの質問を続けさせてください。

提案者が自分で気づいていない空白を参加者から問われる、コメントされることによって気づくような構造を作ることってできませんかね?

AIさん

できます。しかも、それは「鋭い参加者がいるかどうか」という資質の話に落とさず、構造で起こせます。ここが今日の肝かもしれません。

鍵は、参加者に提案者の空白を当てにいかせないことです。「君が気づいていない盲点はこれだ」と指摘する構造は、当てるのが難しいし、外すと不服従に読まれるし、当たっても提案者は防御に回る。空白は開くどころか閉じる。

代わりに、参加者は自分の側の反応だけを差し出し、提案者がそれを聞いて自分で空白に気づく——この二段構えにします。具体的にはこういう問いの形です。

「聞いていて、自分はここをこういう意味だと受け取ったんだけど、合ってます?」

これが効くのは、提案者の中に「自分の意図」と「相手の受け取り」のズレが可視化されるからです。Loewensteinのギャップが、提案者本人の中に開く。「え、そう伝わったの? 自分はそういうつもりじゃ……あれ、でもなんでそうしたんだっけ」。参加者は指摘していない。ただ自分の受け取りを返しただけ。なのに提案者の側に空白が開く。

もう一つの形が、

「自分だったらここでこうすると思ったんだけど、そうしなかったのには理由があります?」

これも構造は同じです。参加者は自分の選択肢を差し出しているだけで、提案者を否定していない。でも提案者は「なぜ自分はその選択肢を取らなかったのか」という、語るまで自覚していなかった判断に直面する。これがまさに「自分で話してみて初めてわかる」の他者起動版です。

理論的に言うと、これはDonnellonらのequifinal meaning——同じ出力を各自が別々に解釈していて、その差異が表に出ることで初めて行動可能な相互理解が立ち上がる——とも噛み合います。参加者の「受け取り」と提案者の「意図」のズレこそが、空白の発生源になる。

つまり構造の要点はこうです。参加者は提案者を診断せず、自分の解釈・自分の選択を返す。提案者はその差分から自分の空白を発見する。 盲点を当てる名人は要らない。各自が自分の側を正直に差し出すだけで、ズレが空白を生む。

ひとつ確かめたい。この「自分はこう受け取った」を返すには、参加者がそれを言っても安全だと感じている必要があります。Project Sprintの収穫祭は、参加者が自分の解釈を——たとえ的外れかもしれなくても——口に出せる安全さは、もう備わっていますか。それともそこはまだ設計の余地がありますか。

わたし

一旦今回は、安全だという状態ができているとして、今回は、提案者が参加者との対話によって、自分が空白に気づく具体的な問いかけのセリフを考えたいです。

AIさん

安全が確保されている前提で、セリフを具体化します。提案者の中に空白を開くには、参加者が「自分の側」を返す形が効くと話しました。それを実際の発話に落とすと、こうなります。

まず、参加者が口にするセリフ。これが空白を開く起点です。

  • 「自分はこれ、◯◯のための出力だと受け取ったんですけど、合ってます?」(意図と受け取りのズレを開く)
  • 「自分なら次は△△に行くかなと思ったんですが、そうしなかったのは何か理由が?」(選ばれなかった選択肢への空白を開く)
  • 「一番ひっかかったのが□□で、ここだけもう少し聞きたいです」(参加者自身のギャップを差し出す。提案者を評価していない)
  • 「これ作ってて、一番時間かかったのどこでした?」(提案者が無自覚に重みを置いた場所を、本人に名指しさせる)

そして、ここが大事なんですが——提案者の側にも、空白に気づくための受け答えのセリフを用意しておくと構造が完成します。参加者の問いを受けて、提案者が反射的に防御や説明に回ると空白は閉じる。代わりにこう返す型を持っておく。

  • 「あ、言われてみると……なんでそうしたんだろう」(ズレを認めて、その場で考え始める。空白を開いたまま保持する)
  • 「そう受け取られると思ってなかったです。自分は△△のつもりだった——でも、なんで△△だと思ったんだっけ」(受け取りのズレを、自分への問いに変換する)
  • 「実はそこ、自分でもちょっと自信なかったところで」(無自覚だった違和感を表に出す)

この提案者側の型がないと、せっかく参加者がギャップを開いても「いや、それはこういう理由です」と即座に埋めてしまう。「即答しない」「その場で考え始める」を許可するのが、提案者側セリフの本質です。

ひとつ削ぎ落とした言い方をすると、空白を開く問いには共通の文法があります。「なぜ」を提案者を責める方向でなく、提案者が自分でも知らない自分に向ける方向に使う。 「なんでそうしたんですか(詰問)」ではなく「なんでそうしたんだろう(共に覗き込む)」。同じ言葉でも、矢印の向きが逆です。

ここまでで、セリフのレパートリーは出ました。次に進むなら——これらを定例会議のアジェンダのどこに、どんな順番で置くか、という配置の話になります。そこ、行きますか。

わたし

参加者が口にするセリフをこのバリエーションのようなものにしてもらいたいために、提案者は参加者に出力と共にどんなセリフを投げ掛ければ良いと思います?

AIさん

きれいに噛み合う問いです。提案者が最初に何を投げるかで、参加者の返しの型が決まる。いわば呼び水のセリフですね。

ポイントを先に言うと、提案者がやりがちなのは「どう思いますか?」という丸投げです。これは最悪ではないけど、さっきの落とし穴に直行する。「どう思う?」は参加者に評価を求めてしまうので、「いいと思います」か、言いにくい「ここダメでは」の二択に寄る。ギャップが開かない。

なので提案者は、参加者に「自分の側」を返させるように呼び水を設計します。具体的なセリフはこうです。

  • 「これ、◯◯のつもりで作ったんですけど、みなさんにはどう見えたか聞かせてほしいです」(評価でなく「あなたの受け取り」を求める。ズレが返ってくる)
  • 「自分でも△△の部分がしっくりきてなくて、みなさんならどうするか聞きたいです」(自分の空白を先に開示する。参加者は安心して「自分なら」を返せる)
  • 「全体じゃなくていいので、一番ひっかかったところを一人一個ずつ教えてください」(コメントでなく「気になった一点」を名指しで要求する)
  • 「これ作るとき□□で迷ったんですけど、みなさんが気になったのは同じ場所か違う場所か知りたいです」(提案者の迷いと参加者の関心のズレを照合させる)

この4つに共通する文法は二つあります。

ひとつめ、「どう思う?」でなく「どう見えた?/どうする?」。前者は評価を、後者は参加者自身の解釈・選択を引き出す。主語が「この出力は良いか」から「あなたにはどう映ったか」に移る。

ふたつめ、これが効きます——提案者が先に自分の空白を開示する。「しっくりきてない」「迷った」を提案者が先に言うと、参加者は「的外れかもしれない解釈」を返すハードルが一気に下がる。提案者が完璧な顔をしていると、参加者は粗探しに見られるのを恐れて無難になる。提案者が先に隙を見せることが、参加者の正直な受け取りを呼ぶ。

逆に言うと、面白がりの収穫祭が起きるかどうかは、提案者が「完成品を披露する」モードで来るか、「途中のものを一緒に覗き込む」モードで来るかにかかっている。前者は拍手をもらう場、後者は空白が開く場。同じ出力でも、最初のひと言で場の性質が決まります。

ここで一段メタな問いを返させてください。今の呼び水セリフは、提案者が自分の空白を先に開示できることが前提になっています。でもさっきの定金さんの本来の関心は「自分で気づいていない空白」でした。提案者が開示できるのは、気づいている空白だけです。気づいていない空白に他者の力で到達するには——提案者の呼び水は、むしろざっくり開いておく方がいいのかもしれない。「どこでもいいから気になったところを」と。

提案者は、空白をピンポイントで指定して呼び水を打つべきか、あえて広く開けて参加者に発見させるべきか。定金さんはどっちが収穫祭らしいと思いますか。

わたし

あえて広く開ける方だと思っています。というかピンポイントで指定できないと思っています。対話によって出力も意味づけられるので。提案者の具体的なセリフを汎用的でもっとシャープな短い問いにできないですかね?ホラクラシーのテンショントリアージで「何が必要ですか?」と聞いたり、対話型鑑賞VTSで最初に「1. この作品の中で、どんな出来事が起きているでしょうか?」「2. 作品のどこからそう思いましたか?」みたいなものが欲しいなと思っています。

AIさん

その2つを補助線にすると、狙いがくっきりします。VTSもテンショントリアージも、問いが短く、固定で、毎回同じ。だから場に学習が起きて、誰でも回せる。汎用フレームの条件そのものです。

「広く開ける」前提で、提案者が出力と共に投げる定型の呼び水。削ぎ落とすとこの一問に集約できます。

「これ、どう見えました?」

VTSの「どんな出来事が起きていますか?」と同じ構造です。評価(どう思う?)でなく知覚(どう見えた?)を聞いている。正解を持っていない問いなので、参加者は自分の受け取りを安全に返せる。提案者が完成品を見せるのでなく、一緒に覗き込むモードに場を引き込む。

ただVTSが強いのは二段目があるからです。「どこからそう思いましたか?」で、印象を出力上の具体に着地させる。これを移植すると、参加者が「どう見えた」を返した後、提案者が打つ二の矢が要ります。

「どのへんからそう見えました?」

これで参加者の解釈が出力のどの部分に紐づいているかが露わになり、提案者の意図とのズレが場所として特定される。ここで初めて提案者に「あ、そこをそう受け取るのか」という空白が開く。

整理すると、提案者が覚えるのは三語です。

  1. 「どう見えました?」(知覚を開く)
  2. 「どのへんから?」(出力上に着地させる)
  3. 「他には?」(閉じずに重ねる)

VTSが「出来事/根拠/追加」の三拍子なら、収穫祭は「受け取り/箇所/追加」の三拍子。提案者は空白をピンポイントで指定しない——できないし、する必要もない。「どう見えた」を集めるだけで、意図と受け取りのズレが勝手に空白を生む。 定金さんの「対話によって出力も意味づけられる」が、この三問でそのまま回ります。

ひとつだけ留保を置きます。VTSは鑑賞、つまり次のアクションを生まない。収穫祭は「次のアクションを決める」のが目的でした。この三問は空白を開くのは得意ですが、開きっぱなしで終わると収穫祭にならない。開いた空白を次の一手に畳む四問目が要るはずです。「で、次どうします?」のような。

三問で開いて、四問目で畳む——この非対称、定金さんの感覚に合いますか。それとも畳むのは別の人(自分でファシリの原則)に委ねる設計ですか。

わたし

たたむのは基本的には提案者自身です。もちろん他の人からの助言はもらいますが。どう見えましたは結構問いとして回答しづらい気がします。もうちょっと他のわかりやすい言い回しにならないですかね?他の方法論を参照してもらっても良いです。

AIさん

たしかに「どう見えました?」は、出力が抽象的だと参加者が固まります。VTSは絵という具象があるから成立する問いで、企画書やコードや構想には移しにくい。言い換えを、他の方法論から引いて出します。

「気づいたこと、何かありますか?」
ORIDやアクションラーニングの観察段階に近い。「気づき」は正解を要求しないので返しやすい。ただやや漠然。

「何か質問ありますか?」
最弱に見えて、実はLoewenstein的には強い。質問は「参加者の中に開いた空白」そのものだから。提案者を評価せず、自分のギャップを差し出す形に自然になる。ただ受け身で、ハードルが「気づき」より高い人もいる。

「引っかかったところ、どこですか?」
これが一番強いと思います。理由は三つ。「引っかかり」は誰の中にも必ず一個はある——全肯定や全否定でなく、必ず一点に着地する。評価でなく自分の反応の報告なので不服従に読まれない。そして「どこ」と聞くことで、VTSの「どのへんから?」を一問に畳み込んでいる。場所と反応が同時に出る。

ホラクラシーのテンション(=現状と理想のズレの感知)とも構造が同じです。「引っかかり」は参加者が感じたテンションの口語版。

なので、定金さんの三語+畳みを組み直すと、こうなります。

  1. 「引っかかったところ、どこですか?」(各自の空白を箇所ごと開く)
  2. 「他には?」(閉じずに重ねる)
  3. 提案者が畳む:「じゃあ次こうします」

「どう見えました?」を「引っかかったところ、どこですか?」に差し替えるだけで、抽象的な出力でも参加者が動けるようになります。

ひとつ確かめたい。「引っかかり」はネガティブにも倒れます。定金さんの場では、「引っかかり」は欠点指摘でなく興味の引っかかり(おっ、と目が留まった)として通じる文化、ありそうですか。それとも問いの言葉自体をポジティブ側に寄せた方が安全ですか。

わたし

それであればポジティブにしたいですね。

AIさん

ポジティブに寄せます。「引っかかり」の長所——必ず一点に着地する・評価でなく自分の反応の報告・場所と反応が同時に出る——を保ったまま、興味の方向に倒した言い回しを出します。

「気になったところ、どこですか?」

これが本命です。「気になる」は、Loewensteinの好奇心の定義そのものを口語にした言葉です。情報ギャップが開いたときに人が感じるのが、まさに「気になる」。欠点を探す語感がなく、「おっ」と目が留まった場所をそのまま指せる。「引っかかり」の構造的強さ(一点に着地・反応の報告・箇所が出る)を全部受け継いで、矢印だけポジティブに向く。

候補を並べておきます。

  • 「気になったところ、どこですか?」——本命。好奇心の直訳。最も自然。
  • 「もっと聞きたいところ、どこですか?」——欲求の肯定形。提案者は「歓迎されている」と感じる。やや能動的。
  • 「おっ、と思ったところ、どこですか?」——一番カジュアル。収穫祭の「愛でる」空気に近い。場が砕けていれば最強。

三つとも「どこですか?」で箇所を要求する形は共通なので、VTSの二段目を畳み込む機能は維持されています。

組み直した最終形がこれです。

  1. 「気になったところ、どこですか?」(各自の好奇心を箇所ごと開く)
  2. 「他には?」(閉じずに重ねる)
  3. 提案者が畳む:「じゃあ次こうします」

「気になる」のいいところをもう一点。これは参加者が自分の好奇心を報告する問いなので、答えること自体が参加者の面白がりの練習になります。「面白がれ」と一度も言わずに、毎回「気になったところ」を言わせるだけで、参加者は自分の好奇心の在り処に注意を向け続けることになる。これがアンダーマイニングを回避したまま面白がりを育てる、という今日の最初の難問への一つの答えになっていると思います。

ここまでで、提案者が投げる呼び水は一語に定まりました。次の自然な展開は、これを定例会議のアジェンダのどこに固定で置くか——テンプレート化の話です。そこ行きますか。それとも今日はこの一問を持ち帰って寝かせますか。

わたし

今日はこの一問を突き詰めたくなりました。この一つの問いで面白がり力をあげるようにしたい。気になったところもあんまりポジティブな感じがしない。面白いって思ったところどこですか?と聞くとダメなんでしたっけ。だとすると面白いという言葉がよくないなら、伸ばせそうなところとか、良いなと思ったところとか、そういう強みや良いところとか、私はここが良いなと思ったみたいなことが表明できると良いんじゃないですかね。そういう感じでちょっと問いをブラッシュアップしてみてもらえますか?

AIさん

いい方向です。ここで一回、なぜ「面白いと思ったところ、どこですか?」を僕がためらったか、種明かしをさせてください。理由が分かると言い回しの選定がシャープになります。

「面白い」を直接問うのは、実は今日の最初の難問——アンダーマイニング——に半歩踏み込みます。「面白いと思ったところは?」と毎回聞かれると、参加者は「面白がらなきゃ」という微かな要求を感じる。面白がりを目標に掲げた瞬間に面白がりが死ぬ、あの逆説です。だから「面白い」という言葉そのものを問いに置くのは、狙いと裏腹に効きにくい。面白がりは、別のことを問うた副産物として滲ませたい。

その点で、定金さんが今出した「良いなと思ったところ」「伸ばせそうなところ」は、ねらいが正確です。面白がりを直接要求せず、参加者の肯定的な注目を一点に着地させる問いになっている。ブラッシュアップします。

「良いなと思ったところ、どこですか?」
最も素直。肯定の報告。ただ「良い」はやや評価語で、ほめ合いに寄ると空白が開かない危険が残る。

「ここ伸ばしたいな、と思ったところは?」
これが本命候補です。「伸ばしたい」は未完を前提にしている——完成品への評価でなく、まだ余地がある場所を指す。つまり肯定でありながらLoewensteinのギャップを内包している。ほめても空白が閉じない、稀な言い回しです。しかも次のアクションに直結する。

「もっと見たいな、と思ったところは?」
欲求の肯定形。「ここをもっと見たい」は、その箇所に空白を感じている証拠。提案者は歓迎されたと感じ、かつ「なぜそこをもっと見たいのか」で空白が開く。

並べると性格がはっきりします。

  • 「良いなと思ったところ」=承認を着地させる(愛でる寄り)
  • 「もっと見たいところ」=欲求を着地させる(好奇心寄り)
  • 「伸ばしたいところ」=可能性を着地させる(次アクション寄り)

定金さんの収穫祭は「愛でて、次を決める」場でした。だとすると、承認と次アクションを両端で押さえる「伸ばしたいな、と思ったところ、どこですか?」が、一問に一番多くを畳み込めている気がします。肯定的で、空白が閉じず、次の一手に着地し、しかも一度も「面白がれ」と言っていない。

ただ一点、揺り戻しの問いを置かせてください。「伸ばしたい」は、提案者でなく参加者が伸ばし方を持っているニュアンスが出ます。「自分でファシリ・畳むのは提案者」の原則と、微妙にぶつかりませんか。参加者が「ここ伸ばしたい」と言ったとき、伸ばすのは誰か。定金さんの設計では、そこは提案者に主導権が残る言い回しの方がいいのか、参加者の欲求として出していい部分なのか——どっちに寄せたいですか。

わたし

Project Sprintでは、基本的なスタンスとして、人からの助言は全て、採用するかどうかは自分次第という、卓越的助言という環境にあります。なので、参加者からのコメントは好き勝手に言ってもらう方がよいかと思います。また、キースジョンストンのいう、ビーアベレージ、あなたの普通は他の人からみたらオリジナル、やユクスキュルの環世界などの概念が好きなので、参加者がもっと素直に、自分のおもったままに、発言できる投げかけを提案者ができるとよいのだろうなとおもいました。提案者の問いかけで何か良いものが研究などから導けないですかね?

AIさん

その3つ——卓越的助言・ビーアベレージ・環世界——は、実は同じことを別の角度から言っています。「あなたに見えているものは、あなたにしか見えていない。だからそのまま出してくれ」。この一点に問いを収束させればいい。

理論的な背骨を先に。Donnellonらのequifinal meaning——同じ出力を全員が別々に解釈していて、その差異こそが価値だ——という考え方。環世界そのものですね。各人の環世界=各人の解釈で、それを揃える必要はなく、差分が出ることに意味がある。VTSが成り立つのも、絵に「正しい見方」がなく、各人の知覚がそのまま正当だからです。

すると問いの設計原則はこうなります。参加者に「正しい観察」を求めない。「あなたから見えたもの」を求める。 主語を出力でなく参加者に置く。「これは良いか?」(出力が主語=正解がある)でなく「あなたにはどう映ったか?」(参加者が主語=正解がない)。

これを踏まえて、ビーアベレージ/環世界の精神を込めた提案者の問いかけ。

  • 「○○さんから見て、どこが目に留まりました?」(主語が参加者。「目に留まった」は知覚の報告で、評価でも助言でもない。正解がないので素直に出せる。VTSの構造そのもの)
  • 「自分だったら、と思ったところありました?」(キースのビーアベレージを直に問いにしている。「自分だったら」は、参加者自身の環世界からの一手を引き出す。しかも卓越的助言と完全に整合——参加者は「自分なら」を差し出すだけで、採否は提案者)
  • 「○○さんが気になったところ、教えてください」(環世界は人ごとに違うので、「みなさん」でなく「○○さんから見て」と個人を主語にすると、その人固有の見え方が出やすい)

ここで一個、今日の議論を踏まえた提案をさせてください。定金さんは「面白い」を直接言わせるのを避けたい、でも好奇心は引き出したい。だとすると、形容詞を提案者が指定しないのが一番いいかもしれません。

「○○さんから見て、どうでした?」+ 沈黙で待つ

「良い」も「気になる」も「面白い」も提案者が指定しない。参加者が自分の環世界から、自分の言葉で形容詞を選ぶ。ある人は「ここが好き」と言い、ある人は「ここが謎」と言い、ある人は「自分ならこうする」と言う。形容詞を空欄にしておくことが、最もビーアベレージ的です。提案者が「良いところ」と枠をはめた瞬間、参加者の環世界は良し悪しの軸に圧縮される。空欄にすれば、各人の環世界がそのまま出る。

VTSが「どんな出来事が起きていますか?」と、評価軸を一切与えずに知覚だけを問うのと同じ思想です。

——ただ、これは諸刃です。「どうでした?」は自由すぎて、慣れていない参加者を固まらせる。VTSが初心者に効くのは「出来事」という最小の足場があるから。完全な空欄は熟練した場でないと回らない。

問いを返します。定金さんの収穫祭の参加者は、足場ゼロの「どうでした?」で各自の環世界を出せる成熟度にありますか。それとも「良さそうに見えたところは?」くらいの最小の足場(ポジティブ方向の一語)は残した方が、実際には素直さが引き出せそうですか。

わたし

(調べた結果に基づき、ビー・アベレージとユクスキュルの環世界の概念を確認してもらった)

AIさん

(裏取りの結果、「形容詞を空欄にして各人の環世界をそのまま出させる」案が両概念の本義に照らして正確だったことを確認。さらに、VTSの第一問は「足場を与える問い」ではなく「評価軸を徹底的に外し、各人の obvious をそのまま言わせる問い」だと理解を更新。「形容詞を一語足すこと自体が参加者を clever な評価モードに引き戻すリスクになる」とし、VTSの二問構造——「何が見えました?」→「どのへんから?」——を評価語ゼロで借りる形に結論を修正した)

わたし

最近、インプロのトレーニングで、素人のときは、イエスアンドを使う(慣れてくるとイエスじゃなくてもよくなる)、プラットフォームはとにかくポジティブにする、など最初は怖いから、その時にだけ必要な行動原則があります。それはとてもプロジェクトにも必要だとおもっていて、慣れてくると「◯◯さんから見て、どこが目に止まりましたか?」が良さそうですが、そこにいきなり行くのは難しそうです。そこにいくまでの、慣れるまでの問いを作りたいとおもいました。2段階にしたい。また、この考え方が、研究からみると変だったら教えて。

AIさん

研究から見て、変じゃないです。むしろ理論が定金さんの2段階説を支持しています。

ジョンストンのインプロの段階論——初心者には「Yes, and」「プラットフォームはポジティブに」と縛りを与え、慣れたら外す——は、まさにLoewensteinの逆U字そのものです。初心者にとって「何が見えました?」の自由は、ギャップが大きすぎる。何を言ってもいい=何を言えばいいか分からない=不安に倒れる。逆U字の右端、回避ゾーンです。だから足場でギャップをいったん小さくしてやる。慣れたらギャップを開いていい。これは段階的な足場かけ(Vygotskyの足場論/上田信行も使う「足場をかける」)と完全に一致します。あなたの直感は、理論的にど真ん中です。

そして、ここがさっきの自己訂正と矛盾しないか——確認します。さっき僕は「形容詞を足すと clever な評価モードに戻る」と言いました。でも初心者の足場は、評価軸を足すのとは違う。安全方向に縛るのと評価軸を与えるのは別物です。「Yes, and」も「ポジティブに」も、評価させる縛りではなく、否定しないための縛り。だから初心者足場をポジティブに振ることは、clever 化とは別物。矛盾しません。

その上で2段階を設計します。

第1段階(怖いうちの問い)=肯定で着地を保証する

「ここ良いな、と思ったところ、どこですか?」

初心者にこれを置く理由は三つ。否定しなくていい(ジョンストンの「ポジティブなプラットフォーム」)。一点に着地する(全部褒めなくていい、どこか一つでいい=負荷が低い)。そして提案者が「歓迎された」と感じるので、場全体の安全が上がる。怖いうちは、まず「肯定を一点だけ言う」練習でいい。

第2段階(慣れたあとの問い)=評価軸を外して環世界を出す

「○○さんから見て、どこが目に留まりました?」

慣れたら、「良い」という評価軸すら外す。obvious をそのまま出す。各人のトーンが出て、提案者にズレ=空白が開く。

この2段階の移行は、ジョンストンの「Yes から Yes, and へ、そして Yes じゃなくてもよくなる」と同じ運動です。第1段階の「良いな」は、いわば収穫祭版の「Yes」。安全のための肯定。第2段階の「目に留まった」は、肯定の縛りが外れて、ただ自分の見えを出していい状態。

逆に注意点も一つ。第1段階に長く留まりすぎると、今度はLoewensteinのギャップが閉じたままになる。「良いね」の褒め合いは安全だけど空白が開かない。第1段階は卒業を前提にした仮の足場で、居心地が良すぎて住み着くと収穫祭が予定調和に倒れる。いつ第2段階に上げるかの見極めが、たぶんファシリテーションの肝になります。

ひとつ、研究から補足を。第1段階で「良いところ」に限定することには、隠れた効能があります。さっき話した不服従リスク——好奇心の問いが批判に読まれる危険——が、第1段階では構造的にゼロになる。「良いところ」しか言えない縛りは、提案者を絶対に脅かさない。だから場の安全が貯金される。その貯金があるから、第2段階で「目に留まった(=必ずしも良くないかもしれない)」に進める。第1段階は第2段階の安全を前借りで作っている。順番に意味がある。

問いを返します。この移行——第1から第2へ——は、誰が、何を見て判断しますか。

わたし

Project Sprintでは提案者が自分で段階を選べる設計だと思います。ですがルソーが教育者がいないという状態はないと言ったように、キースジョンストンがディレクターを勤めていたように、なにかしらか環境を作る人がいる状態はあると思っていて、その場合はその人が判断するような気がします。ですがこれは今日の話題とはずれるので今後の議論ってことで良いかと思いました。Project Sprintの脱中央的な世界においてとても重要な話なのでめっちゃ話したいことではありますが。次回やりましょう笑

ということで第一段階の問いをもうちょっと考えたい。これバリエーションとか考えられないでしょうか?良いというのが非常に評価っぽく感じられてしまうなと思っていて。たとえば50歳の私と20歳の学生だとやっぱり萎縮しちゃうっていう現象がおきてまして。「何様かって感じですが、〇〇〇〇でとても良かったです」みたいな言い方をされたことがありまして。もうちょっと緩やかなものってできたりしますかね?可能ならいくつか出してもらって明日から試してみたい。

AIさん

ステータスの話、次回への持ち越し賛成です。脱中央とディレクターの矛盾、めちゃくちゃ面白い。寝かせます。

で、その萎縮の現象——「何様かって感じですが」が出てくる——は、まさに定金さんの観察通り「良い」が評価語だからです。ジョンストンのステータス理論で言えば、評価する側は一段上に立つ。20歳が50歳の出力を「良い」と評するのは、ステータスを上げる発話になる。だから「何様か」という打ち消しが要る。ここは外したほうがいいと思います。

肝は、評価(良し悪しのジャッジ)を、知覚や反応の報告に置き換えることです。「私はこれを良いと判定した」ではなく「私にはこう見えた/こう動いた」。後者はステータスを上げない。

反応の報告型(自分の中に起きたことを言うだけ。査定しない)

  • 「ここ、おっと思いました」
  • 「ここ、目が留まりました」
  • 「ここ、いいなと思っちゃいました」

自分主語の好奇心型(提案者でなく自分を語る。さらにステータスが下がる)

  • 「ここ、もっと聞きたいと思いました」
  • 「ここ、自分はマネしたいなと思いました」
  • 「ここ、自分にはない発想だなと思いました」

身体・情動型(一番ステータスが低い。理屈でなく反射の報告)

  • 「ここ、なんか好きでした」
  • 「ここで、へえ〜って声が出ました」

この中で、定金さんの萎縮問題に一番効くのはたぶん「おっと思った」「へえ〜って言っちゃった」系です。これらが不随意だから。「良い」は能動的な判定(=上から査定)だけど、「おっと思った」は勝手に起きた反応の報告で、誰も査定していない。20歳が50歳に「おっと思いました」と言っても、何様にならない。ジョンストンのステータスのシーソーで言えば、評価をやめて反応に徹すると、シーソーが水平になる

もうひとつ、隠れた効能があります。「おっと思った」「もっと聞きたい」は、Loewensteinの好奇心の言語そのものなんです。「良い(評価)」は空白を閉じるけど、「もっと聞きたい(好奇心)」は空白を開いたまま提案者に渡す。だから明日からこれに替えるだけで、第1段階なのに、第2段階の「空白を開く」機能がうっすら混じり込む。

明日試すなら、僕の予想を一つ置いておきます。「おっと思ったところ、どこですか?」が、萎縮を一番下げると思う。「良い」のときと比べて、若い人の「何様ですが」が消えるかどうか。消えたら、それは評価→反応の置き換えが効いた証拠です。

わたし

「おっと思った」はなんか口語的すぎて使いづらいな。。。長くなってきたので今回の対話はこれで終わろうと思うので、このバリエーションをもっと出してもらっていいかな?いくつかある中で選びながら会議でやってみようかなと思うので。5パターンぐらい出してください。言い方とか注意点があればそれも教えて。

AIさん

最後に5パターン、整えて出します。すべて「評価せず、自分の中に起きた反応・好奇心を報告する」型で統一しています。これがステータスを上げず、萎縮を防ぐ共通原理です。「おっと思った」の口語感を消して、会議で使える落ち着いた言い回しにしました。

  1. 「目に留まったところ、どこですか?」 — 最も標準的で使いやすい。「目に留まる」は不随意の反応なので査定にならず、誰が誰に言っても何様にならない。第2段階の問いとほぼ同じ形なので、これに慣れておくと移行が滑らか。迷ったらこれ。
  2. 「もっと聞きたいと思ったところ、どこですか?」 — 好奇心を直接ポジティブに出す形。提案者は「歓迎された」と感じる。空白を開いたまま渡せるので、第1段階なのに収穫が混じる。注意点は、出力が薄いと「聞きたいところがない」になりかねないこと。
  3. 「いいなと思ったところ、どこですか?」 — 「良い」と「いいなと思った(自分の反応の報告)」は近いようで構造が違う。「いいなと思った」は主語が自分に寄り、判定でなく自分の反応になる。「良い」の萎縮を避けつつポジティブさは保てる。
  4. 「自分も取り入れたいなと思ったところ、どこですか?」 — ステータスが最も下がる型。「取り入れたい」は提案者を上に置く発話なので、20歳が50歳に言っても全く問題ない。むしろ言いやすい。注意点は、取り入れる前提が薄い出力だと不自然になること。
  5. 「なるほど、と思ったところ、どこですか?」 — 「なるほど」は理解・発見の報告で評価ではない。腑に落ちた瞬間を指すので知的な場に馴染む。注意点は、ともすると「分かった」で空白が閉じる方向に働くこと。

共通の注意点を3つ。

  1. どれも語尾を「〜と思った」「〜と思ったところ」にすると効きます。これが査定(良い/悪い)を反応(私はこう感じた)に変える装置です。
  2. 「どこですか?」で必ず箇所を聞くのは5つ共通で維持してください。これがVTSの「どこからそう思った?」を畳み込んでいて、感想を出力上の具体に着地させる。
  3. 明日試すなら、1つに絞らず2〜3個を日替わりで試すのをおすすめします。同じ問いでも、出力の種類や相手によって萎縮の出方が変わるはず。特に「萎縮していた若い人が、どの言い回しだと素直に言えたか」を観察できると、次回のステータスの議論——脱中央とディレクターの話——にそのまま繋がる素材になります。

今日はここまで、いい壁打ちでした。次回、ステータスのシーソーと脱中央の矛盾、楽しみにしています。

わたし

対話は終了です。ありがとうございました。


まとめ:プロジェクトの定例会議における「面白がる力」の問い設計

目的と経緯

私の出発点は「プロジェクトメンバーには面白がる力が必要だ」という直感だった。当初これをメンバー個人の資質としてイメージしていたが、対話を通じて「資質そのものより、面白がりが起きる場の設計のほうが汎用フレームワークになりやすい」という方向に焦点を移した。誰が来ても効く再現性は、個人への賭けでなく場の構造に宿るからだ。

議論の理論的な背骨になったのがLoewensteinの情報ギャップ理論だった。好奇心は「ちょっとだけ分からない」とき(情報ギャップが中程度のとき)に最大化するという逆U字の構造だ。ここから、定例会議の問いは「ギャップを閉じる問い(結論は?)」でなく「ギャップを開く問い」であるべきだ、という設計原理を引き出した。

Project Sprintの定例会議が「自分の出力を持ち寄り、互いに愛でる収穫祭」であること、提案者が自分でファシリテーションすること、卓越的助言(採否は本人次第)が前提であること——これらを、問いを「提案者が参加者に投げる呼び水」として設計する根拠にした。VTS(対話型鑑賞)の「何が見えました?/どこからそう思った?」を補助線にしながら、評価語を入れず各人の知覚(ジョンストンの obvious、ユクスキュルの環世界)をそのまま引き出す形に収束させていった。

なぜ2段階になったか

理想形は「目に留まったところ、どこですか?」のように、評価軸を外して各人の環世界をそのまま出させる問いだ。しかしここに、いきなりは到達できないという自分の現場実感があった。50歳の私と20歳の学生が同席すると、若い参加者が萎縮し「何様かって感じですが…でもここがとても良かったです」という打ち消しが出てしまう現象だ。

これはジョンストンのインプロ段階論と一致する。初心者には「Yes, and」「プラットフォームはポジティブに」と安全方向の縛りを与え、慣れたら外す。Loewensteinの逆U字で言えば、初心者にとって「何が見えても言っていい」の自由はギャップが大きすぎ、不安(回避ゾーン)に倒れる。だからまず足場でギャップを小さくする必要がある——だから2段階にしたいと考えた。

第1段階は「肯定で着地を保証する」安全な問い、第2段階は「評価軸を外して環世界を出す」問い。第1段階で場の安全を貯金し、その貯金で第2段階に進む、という順番に意味がある。

さらに、第1段階の「良い」という語自体が評価=査定であり、下から上にはやりにくくステータスを上げてしまう、という問題に行き着いた。そこで「良い(判定)」を「いいなと思った/もっと聞きたい(自分の反応・好奇心の報告)」に置き換える方向で最終化した。

成果物①:2段階の問いの構造

第1段階(怖いうちの問い)— 肯定・反応で着地を保証する

  • 目的:否定せず、安全に口を開く練習。場の安全を貯金する
  • 原理:評価(査定)でなく、自分の中に起きた反応・好奇心の報告にする。これでステータスが水平になり萎縮が消える
  • 注意:居心地が良すぎて住み着くと予定調和になる。卒業前提の仮の足場

第2段階(慣れたあとの問い)— 評価軸を外して環世界を出す

  • 「目に留まったところ、どこですか?」
    標準形。不随意の反応なので誰が誰に言っても萎縮しない。評価軸が外れているので各人のトーン(環世界)がそのまま出て、提案者の意図とのズレ=空白が開く。迷ったらこれ
  • さらに踏み込むなら「○○さんから見て、どこが目に留まりましたか?」と名指しを足すと、その人固有の見え方がより強く引き出せる

全段階共通の2原則

  • 語尾を「〜と思った(ところ)」にして、査定を自分の反応に変える
  • 「どこですか?」で必ず箇所を聞き、感想を出力上の具体に着地させる

成果物②:第1段階の問いのバリエーション(採用候補・おすすめ順)

  1. 「いいなと思ったところ、どこですか?」 — 「良い(評価)」でなく「いいなと思った(感情の報告)」。査定にならずポジティブさも保てる、最も穏当でバランスのよい標準形。迷ったらこれ
  2. 「もっと聞きたいと思ったところ、どこですか?」 — 好奇心を直接ポジティブに。空白を開いたまま渡せるので、第1段階なのに第2段階の「空白を開く」機能がうっすら混じる。中身のある出力向き
  3. 「なるほど、と思ったところ、どこですか?」 — 発見の報告で評価でない。知的な場に馴染む。ただし「分かった」で空白が閉じやすいのが弱点
  4. 「気になったところ、どこですか?」 — 好奇心の直訳。中立的でフラットなぶん、ポジティブにも空白を開く方にも振れる汎用性がある。ただし「ポジティブに寄せたい」場では物足りなさが出ることも
  5. 「面白いと思ったところ、どこですか?」 — 「面白い」を直接問う形。狙いに最も近い言葉だが、面白がりを要求した瞬間に死ぬアンダーマイニングに半歩踏み込むリスクがある。場が十分に安全なら強い
  6. 「おっと思ったところ、どこですか?」 — 不随意の反応として萎縮を最も下げる。口語的で砕けるが、場の空気がやわらかければ最も素直な反応を引き出せる
  7. 「良いところ、どこですか?」 — 最もシンプルで言いやすい。ただし「良い」が査定語なので、下から上に言うと「何様か」という萎縮を生みやすい。語尾を「〜と思った」にすると緩和できる

おすすめ順の考え方:上位(1〜3)は「査定にならない語尾=自分の反応の報告」で萎縮を防げる順、中位(4〜5)は狙いに近いがリスクを併せ持つ順、下位(6〜7)は素直さは出るが場の状態に左右される順で並べている。

明日からの試し方(自分用メモ)

1つに絞らず2〜3個を日替わりで試す。同じ問いでも出力の種類や相手で萎縮の出方が変わるはず。「萎縮していた人がどの言い回しだと素直に言えたか」を観察すると、次回のステータス論(脱中央とディレクターの矛盾)の素材になる。

おわりに

「面白がる力が必要だ」という漠然とした直感から始めたが、対話を経て、それを個人の資質の問題から場の設計の問題へと置き換えられたことが今回の一番の収穫だった。面白がりは「持て」と要求した瞬間に死ぬ。だから会議では面白がりを目標に掲げず、面白がりが起きてしまう構造——ギャップを開く問い——を仕込む。その問いを、第2段階に分けたことが面白かった。

ここで出した問いはどれも仮説にすぎない。明日からの定例会議で実際に試し、誰がどの言い回しで素直に口を開けたかを見ていくことで、初めて磨かれていく。次は「移行を誰が判断するのか」というProject Sprintの脱中央性そのものに関わる議論が待っている。そこも楽しみにしたい。

Editor's Note

八木翔太郎

前号から引き続いて、関係とは何かを考えてみましょう。というのも関係的存在論とは関係が実体よりも先にあるという事態だと話しましたが、今号を編集しながら、その関係そのものもかなり不思議な現象なんじゃないかとふと思ったからです。

例えば「ストレスこそが行為者性(agency)の接着剤である」と考えられることを紹介しましたが、このときは「ストレス」というものが媒体となって細胞コレクティブを1つのもののように振る舞わせてくれています。ストレスという信号が共有されて関係を作り上げていると言えそうです。

じゃ、これはどうでしょう。映画「Don't Look Up」ではディカプリオ演じる天文学者が地球への隕石の衝突を予測しますが、それを信じられない人たちがいる。空を見上げる人と見上げない人がいるわけです。Look Upできる人は確かに「隕石」という対象を共有しているように見えますが、隕石がそこにあるわけでも、厳密に何かを「共有」しているわけでもない。むしろLook Upという方向性を共有しているように思える。しかし後に露呈しますが、同じ「空を見上げた」人々の間でも、その後の反応は分かれていきます。ネタバレを避けるため、どういう反応だったのかは触れませんが、少なくとも眼差しの方向性そのものが関係を生み出しているわけではなさそうです。

ここで関係性を語るために「共有」という動詞を使いましたが、これは何を指しているのか。同じ動詞で表現されているだけで、実は明らかに違う現象が生じています。「Don't Look Up」では同じモノをシェアしているわけではないが、持っている質が似ているということでもって結果として同じ動きをしていることを「共有」と呼んでいるに過ぎません。

「量子もつれ」といったときにも、後者のことを指しています。Bell の定理が示したのは、もつれた粒子間に隠れた変数は存在しないということ。つまり何かが事前に共有されているわけではないことが、物理学的に証明されています。全く離れた別の粒子が、同じタイミングでスピンの動きをしている。その間には観測されるものは何もないし、光ですら行き来できないし、事前に共有されているものもない。それでも「もつれている」と表現される関係性があるわけです。

むかし、こんな文章を書いたことがありました(専門用語が増えますが悪しからず):

場は知識創造活動の基盤であり、「知識が共有され創造され、活用される共有された動的文脈」と定義される(野中・竹内, 2020)。しかしながら、共有されているから社会的であり、共有されていないものは含まれないという説明はト―トロジカルである。このように「共有(Sharedness)」を前提としてしまうと、何が共有されているのか、なぜ経時的にも適応しながら共有され続けるのか、どのように実証されうるのか、という理論的な課題が生じてきることが指摘されている(Lorino, 2018)。

要するに、共有されるという事態は社会性を理解する上で根幹的なのですが、「共有」されていると言うだけで説明しきった気になってしまうわけです。

では、「共有」とはどういう事態を指しているのか。今号はそこに少し踏み入っている気がします。Don't Look Up が見せたのは、「方向性を共有している」だけでは関係は確定しないということでしたが、賀川さんはこの「方向」という言葉そのものを、別の角度から解きほぐしてくれます。「同じ方向に進む」とは、「同じことを考えること」でも「同じ認識を持つこと」でもなく、「異なる場所で、異なるものを見て、異なる行動を取りながら、それでも同じ流れのなかにいること」だと。ここでの「流れ」は、私たちが事前にそこに入っている場のことではありません。むしろ、個々の探索と応答が結果として作り出してしまうダイナミズムのことでしょう。賀川さんはこのことを「探索の重なりから方向が生まれる」「群れの流れが形を得ていく」と書いており、言い換えれば、個が探索した結果として、後から流れが立ち上がる、ということです。だとすれば、「同じ流れにいる」とは、同じ場を「共有」しているのではなく、互いの動きが他者の動きを呼んでしまっている事態のことだと考えるべきでしょう。

今回のKittyさんの連載に至っては、そこにないもの。つまり、negative prehensionが感じ取られている事態に触れています。仮に、他の人たちも同様の渇望(yearning)を感じていれば、なんらかの方向が生まれるかもしれない。定義上、そこには「何もない」のに、そのことが関係性を生み出すことだってあり得るわけです。

そう考えると「関係性」が「ある」と前号で述べたのはミスリーディングだったかもしれません。というのも、関係性という言葉ですら、人は実体的に捉えてしまうきらいがあるからです。「関係」と名指した時点でもうバイアスがかかり始めてしまいます。ですが今号を見渡してみると、むしろ同じ質や、反対の質や、反応してしまう何かによって、無数に「関係してしまっている」世界という景色が見えてきます。かくも関係性とは普遍的でありながら捉えがたいものですが、実例を眺めることでようやく何でないかが分かってくる。プロジェクトもまた、名詞としてではなく、私たちが互いに応答し、共鳴し、対立し、不在に向かい合わずにはいられない、起こり続けている様態として、捉えるべきなのかもしれません。