自己組織化するプロジェクトを見たい
八木翔太郎
第8回 改めてプロジェクトってなんだろう
プロジェクトとは何か。それを定義することは難しいが、プロジェクトと「呼ぶ」ことによって組織化されている実践群があるのではないかとこの連載の第3回目で述べた。そのうえで、その実践群のヒントを得るべく、そもそも「プロジェクトらしい実践」とは何かについて、プロジェクトの特徴と思われる要素を様々取り上げながら探索してきた。
プロジェクトの特徴はまだまだあるだろう。ただ、ここまで見てきた限り、プロジェクトとは可能性を扱うものであり、各メンバーの主観の中で秩序を保ちつつも、実際には異なる社会秩序がぶつかり合う複雑性の只中にありながら、それらを寄り合わせる場として機能している。
では、プロジェクトと「呼ぶ」ことと、これらの特徴はどのように関わるのであろうか。「プロジェクトの定義が実は存在しない」のに、どうしてこのような特徴を持ち合わせうるのだろう。一見すると矛盾しているが、だからこそ、もはや逆説的に考えざるを得ない。すなわち、プロジェクトの定義が「ないからこそ」、それを「呼ぶ」ことによる機能が果たされるのだと。
何かを「呼ぶ (Call) 」ということは、その認識についてコミットメントを持つということであることはウィルフリド・セラーズを紹介する中で触れた。このセラーズの考え方を言説的実践の理論として発展させたのが、ロバート・ブランダムである。彼によれば何かを発話することは、人々に理由を問う権利を与え、自らは理由を与える (答える) 義務を負うことに他ならない。彼はこのような人間の言説的実践を「理由を与え求める言語ゲーム (The game of giving and asking for reasons) 」と呼んでいる。
たとえば、これは「ケータイ」だと発話したとき、それは電話をかけられる小型端末のことを指すことにコミットしていると見做されている。その証拠に「このケータイは髪を良く乾かす」という言明が行われたときには、どういう意味なのかと問われるだろう。こうした応答は既存の単語のみならず、新しい指し示しにも当てはまる。例えば「ゆっくりいそげ」というコンセプトを新たに作ったとする。それが何を意味しているのかは、メンバーによって問い続けられながら、それに対する回答ができる限りにおいて呼ばれ (call) 続けるのである。
さて、ここで誰も定義ができない「プロジェクト」という単語を発話することが、いかなる現象を引き起こすのか。このように問うてみたい。
例えば、Aさんが心の中で「プロジェクトX」を立ち上げようと思い立ったとする。この段階ではAさんの中にしか存在しないプロジェクトである。次に、それを誰かの前で名指し (call) たとしよう。すると他の人は「プロジェクトX」とは何かと聞くだろう。仮に「これは全員で取り組むDXプロジェクトである」と答えたとしよう。すると「このプロジェクトではいつ何が起こりうるのか」「なぜ必要なのか」「なぜ他の手段ではダメなのか」「なぜその方法で達成できると言い切れるのか」と問われるだろう。そして、仮に全員が納得したとしても、そこで終わりではない。「期日」があるがゆえに、進めないと「本当に終わるのか」と再び理由を問われてしまうからである。そうして、コミットメントを守るべくプロジェクトは開始され、活動内容や出力物についてステークホルダーに再び「問われ」ながら、進んでいくのである。これが、結果として様々な秩序をより合わせていると考えられまいか。というのも、問われたことにどうしても答えられないような重大な欠陥がある場合には、プロジェクトはそれ以上成立し続けることができないからである。かくしてプロジェクトは異なる社会秩序を寄り合わせる場として機能し続けるだろう。
つまり、プロジェクトとは名指しの体系であり、プロジェクトが進んでいく原理は、われわれが言葉を使う原理と同じではないか、という仮説が立てられる。これは、ダイヤモンドと炭が同じ材料でできてるというのと同じくらい、一見すると驚くべき話だ。しかし、この連載で取り上げてきたプロジェクトの特徴を眺めてみれば、自然な結論のようにも思えてくる。未来の可能性を扱うこと、秩序を生み出していること、複雑性を持つこと、場と自律性が生まれていること。これらは全て言説的実践の観点から説明することができる。「ケータイ」という発話と違って、「プロジェクト」という発話がこんなにもダイナミックに社会的実践を紡ぎ出しながら社会秩序を生み出すのは、未来の自分たちについて語っているからだ。その未来の自分たちにかかわる命題を真にするのは自分たちである。第5回で触れたように、これは自己言及構造を持つことに他ならない。そう、プロジェクトは自己組織化するダイナミズムなのである。
次回は、こうしたプロジェクト観を前提としたとき、われわれはプロジェクトにどのような新しい意義を見いだせるのか、文化人類学における議論を引き合いに確認してみたい。
What’s Love * Got To Do With It?
Kitty Gia Ngân
Dear Reader,
The name of this new series on Project Theory Probe was inspired by bell hook’s reaction to Tina Turner’s song with the same title. hook wrote in All About Love: A New Visions:
Nowadays the most popular messages are those that declare the meaninglessness of love, its irrelevance. […] Youth culture today is cynical about love. And that cynicism has come from their pervasive feeling that love can not be found.
After 2 decades, I begin this series, *What’s Love* Got To Do With It?* to tend to this cynicism. hook’s sentiment about our skepticism remains not only true but has intensified today.
Each month, through field studies and deep dialogues, I will address a skepticism around love, trying to understand why we have gotten to this depressive point. Then, like the middle child that I am, attempt to understand them through an ecological and anthropological perspective. Each skepticism will receive a deserving list of crazy proposals as an imaginative exercise to re-envision love. Hopefully, a meaningful something can be birthed through this questionable quest.
You, my reader, may be a curious audience, following this series as your personal anthropological quest to uncover our collective heartbreaks and severe disconnectedness. Perhaps you have been love’s victim, its survivor, teacher, or all of the above. Or you may reject this idea altogether, believing a project on love is doubtful, hypocritical, naive, delusional, and so on. If so, I mourn with you. Whatever role you play as a reader, I am (with) you.
Personally, I embark on this quest to grieve appropriately—to mourn the self that has suffered through the loss of what love was supposed to be and to uncover what love can be in the reflection of our current brokenness. Only through appropriate grieving of our collective disappointment about love can we truly come together and realize a newfound vision.
On the wall of a cafe’s toilet, Copenhagen.
💌 Question for us on our "dinner table":
Who taught you what it means to love? When was the last time you received this love and how did you last give it away?
Fingers-crossed it doesn’t sound preachy (to my little sister),
See you in June,
Kitty Gia Ngân
今月の一冊: 知恵の樹 ウンベルト・マトゥラーナ / フランシスコ・バレーラ
八木翔太郎
この本はオートポイエーシスについて平易に語られている。とはいっても斜め読みできるものではない。もがき苦しんで読んだ分だけ、異なる世界の見方に出会えるような、そんな本だ。著者のウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラは「生きている世界」とは何かについて生物学をもとに語っているのだが、バレーラは別著でG. スペンサー・ブラウンの算術を発展させる研究も残している、別の機会でも詳しく紹介したい。
本書は、まず錯覚について紹介しながら自らの「認識」を問い直すところから始めている。地球の歴史から生物の出現について語り始める際にも、事実として語ることをせず「認識」そのものについて問うのである。なぜ、われわれは生物最古の化石 (バクテリア) を「生物だったものだ」と呼べるのだろうか、と。それは「生物は絶えず自己を産出し続けるということによって特徴づけられている」ことを暗黙に前提としているからではないか。このプロセスのことを「オートポイエーシス[自己産出]」と呼ぶことにしようではないかと。
ここで「自ら」というのが問題となる。ある組織 (生物等) が自律性を持つということは、外部の事物 (分子など) が自らにどのような影響を与えるかについて、その組織自らが決めていることを意味する。なぜならば、逆であれば他律となってしまうからだ。
これは客観の排除のように聞こえる。だが、一方で主観だけを主張しているわけでもない。客観的なもののみを前提とする表象論、主観的なもののみを前提とする唯我論、これらはどちらも両極端の罠だ。オートポイエーシスは、カミソリの刃の上を歩くように、その中道を行く認識論的を展開しなければならない。
ここで、重要になってくるのが「観察」という単位だ。観察があってこそ物事は立ち現れる。その事物には、あらゆる生きるものによる「行動」も含まれる。行動とは、一意的にはある個体の位置あるいは姿勢の変化だが、よく考えれば、これも客観的なものではない。観察者が指し示している環境における有機体のいろいろな動きについてぼくらがおこなう描写に対応している。すなわち、行動も描写が「生み出している」のだ。
とはいえ、「観察」とはいささか人間の行為のような印象を受ける。オートポイエーシスは細胞のような微小な単位でも成立しているプロセスだ。ここで本書では、またもや現象そのものよりも、どのように見做されるかという立場に立ち戻る。適切な行動があるということは行為主体の認識 (観察) があるということだ。つまり、そこに有効な行動がみられたときに、われわれはそこに認識 (観察) を認めるのである。
すると驚くべき結論に至る。期待をはらんだ視点から見れば、有機体のすべての相互作用、観察されたすべての行動は、観察者によって<認識行為>としてみなすことができるはずであると。そして、すべからく生きるものが環境との相互作用 (カップリング) の中で自然に調整されていることを鑑みれば、有効でない行動は見当たらない。観察者は全ての行動を有効であるものとして見做せるのであり、認識行為として描写することができるということだ。本書ではこれを「生きることは知ることだ」という表現で説明している。
さて、「ある」のではなく「どのようにそれと見做されうるのか」に立ち戻るような本書の態度は、プラグマティズムと呼ばれる哲学的態度に非常に通じている。それだけでない。本書の後半では、高次のオートポイエーシスとして社会現象を取り上げており、社会的カップリング (サードオーダー) における行動をコミュニケーション的と呼んでいる。それらが自らを指し示すという自己言及的な構造を有したときに言語となる。こうした議論は、新しいプラグマティズムの先鋒ロバート・ブランダムの理論とも整合的なように聞こえるのは私だけだろうか。
本書を通じて、いかにして生きた世界が、各々の自律性を保ちながら縁起的に環境と切り離せない形で立ち起こっているかを体験したような気分になる。「カップリング」「ドリフト」「リニエジ」という耳慣れない言葉が連呼されているのは、まさに、いかに共時的・通時的な関係性を保ちながらも、個体が自律的に発生と進化をしているのかを強調するためだ。これはプロジェクトという「生きた個体」にも当てはまる世界観なのではないだろうか。以上の議論から、本書では最後に1つの普遍的倫理を導いている。
他人と共存したいと思うなら、その誰かにとっての確実さ[確信]はーそれがぼくらにはいかに望ましくないものに見えようとーぼくら自身の確実さとおなじく有効なものなのだということを理解しなくてはならない
これはオートポイエーシス的な社会理解から自然に導かれる倫理観だ。そして、この結論が、一つの馴染みのある概念 (愛) と結び付けられて締めくくられているのは、とても示唆深い。
ぼくらはただほかの人々とともに生起させる世界だけを持つのであり、それを生起させることを助けてくれるのは愛だけだ、ということだ
ボイジャー1号の復活劇
八木翔太郎
アメリカ航空宇宙局 (NASA) は4月22日、惑星探査機「ボイジャー1号」が解読可能な情報を地球に送信したと発表した。実に半年ぶりのことだ。Project Theory Probe Journal Issue 2 の本コーナーの記事では、ボイジャー1号がどのように人の手を遠く離れながらも (史上最も遠い) 、半世紀前のエンジニアが「予期しなかった問題」に対処してプロジェクトを継続し続けられているのかについて考察した。ここでプロジェクト継続の必須条件はゴールでも計画でもない。互いに応答し合えることである。今回、意味不明なエラーメッセージしか返さなくなったボイジャー1号がどのように復活したのかを知ることは、この考察をさらに進める手がかりになるだろう。
Credit: NASA/JPL-Caltech
思考実験として、そもそも理解不能な応答しかしない探査機とどうやって関係をとり結べるのだろうか考えてみたい。おそらく不可能だろう。ここに、応答と「関係すること」との間の根源的なつながりを見ることができる。応答をしてくれないと関係を取り結ぶことすらできない。逆に言えば、ボイジャー1号が復活できたということは、何かしら応答をしてくれたということだと推察できる。
実際、ボイジャー1号は3月22日に、とあるコマンドに対してこれまでとは異なる応答を示した。依然として意味不明な羅列であったので、しばらくエンジニアはどう活用すべきか分からないでいたが、これがプロジェクトメンバーにとって希望になったのは言うまでもない。なぜなら、こちらの特定のコマンドにたいして、特定の応答を示すという探査機の行為は、1つの認識行為だと見做せるからである。つまり、著書「知恵の樹」の言葉を借りるならば探査機が「生きている」ことの証を得られたのだ。
このコマンドのことを、プロジェクトチームは後に「突っつき (poke) 」と呼ぶようになったという。名指す必要があるくらい、重要な出来事だったのだろう。その後のストーリーは奇跡に近い。NASAのディープスペースネットワークのエンジニアが、その「突っつき」により得られた信号の内容を解読し、その中にFDSメモリ の読み上げが含まれていたのだ。それを正常時の読み上げと突合した結果、FDSメモリの約3%が破損していることが判明した。そこに含まれたコードを別のメモリに移す処置により修復を図った結果、ボイジャー1号は無事に正常の機能を示すようになったとのこと。
エンジニアとボイジャーはこのように関係性を保ちながら、より大きなプロジェクトをともに成している。人とモノという違いはあれど、その間にあるのは平等な応答によるコミュニケーションだ。もちろん相互理解は大切だが、ボイジャー1号の物語は、それ以前の基礎的なレイヤーがあることに気づかされる。こちらの応答に応答してくれるのか。あちらの応答にこちらが応答できているのか。
応答可能性 (response-ability) こそが社会性あるいは責任 (responsibility) を紡ぎ出すのであり、その逆ではないと主張しているダナ・ハラウェイと同様に、われわれも応答がプロジェクトを可能としているのだと主張できるのではないか。そして人は、応答を促すように、相手を理解することも、理解してもらえるように身を挺して伝えることもできるのではないだろうか。応答を生み出せるか否か。この観点で見つめ直してみると、意外な実践によってプロジェクトが支えられていることに気づかされるかもしれない。