The Project Theory Probe Journal

Issue 8
May. 31 2024

自己組織化するプロジェクトを見たい

八木翔太郎

第8回 改めてプロジェクトってなんだろう

プロジェクトとは何か。それを定義することは難しいが、プロジェクトと「呼ぶ」ことによって組織化されている実践群があるのではないかとこの連載の第3回目で述べた。そのうえで、その実践群のヒントを得るべく、そもそも「プロジェクトらしい実践」とは何かについて、プロジェクトの特徴と思われる要素を様々取り上げながら探索してきた。

プロジェクトの特徴はまだまだあるだろう。ただ、ここまで見てきた限り、プロジェクトとは可能性を扱うものであり、各メンバーの主観の中で秩序を保ちつつも、実際には異なる社会秩序がぶつかり合う複雑性の只中にありながら、それらを寄り合わせる場として機能している。

では、プロジェクトと「呼ぶ」ことと、これらの特徴はどのように関わるのであろうか。「プロジェクトの定義が実は存在しない」のに、どうしてこのような特徴を持ち合わせうるのだろう。一見すると矛盾しているが、だからこそ、もはや逆説的に考えざるを得ない。すなわち、プロジェクトの定義が「ないからこそ」、それを「呼ぶ」ことによる機能が果たされるのだと。

何かを「呼ぶ (Call) 」ということは、その認識についてコミットメントを持つということであることはウィルフリド・セラーズを紹介する中で触れた。このセラーズの考え方を言説的実践の理論として発展させたのが、ロバート・ブランダムである。彼によれば何かを発話することは、人々に理由を問う権利を与え、自らは理由を与える (答える) 義務を負うことに他ならない。彼はこのような人間の言説的実践を「理由を与え求める言語ゲーム (The game of giving and asking for reasons) 」と呼んでいる。

たとえば、これは「ケータイ」だと発話したとき、それは電話をかけられる小型端末のことを指すことにコミットしていると見做されている。その証拠に「このケータイは髪を良く乾かす」という言明が行われたときには、どういう意味なのかと問われるだろう。こうした応答は既存の単語のみならず、新しい指し示しにも当てはまる。例えば「ゆっくりいそげ」というコンセプトを新たに作ったとする。それが何を意味しているのかは、メンバーによって問い続けられながら、それに対する回答ができる限りにおいて呼ばれ (call) 続けるのである。

さて、ここで誰も定義ができない「プロジェクト」という単語を発話することが、いかなる現象を引き起こすのか。このように問うてみたい。

例えば、Aさんが心の中で「プロジェクトX」を立ち上げようと思い立ったとする。この段階ではAさんの中にしか存在しないプロジェクトである。次に、それを誰かの前で名指し (call) たとしよう。すると他の人は「プロジェクトX」とは何かと聞くだろう。仮に「これは全員で取り組むDXプロジェクトである」と答えたとしよう。すると「このプロジェクトではいつ何が起こりうるのか」「なぜ必要なのか」「なぜ他の手段ではダメなのか」「なぜその方法で達成できると言い切れるのか」と問われるだろう。そして、仮に全員が納得したとしても、そこで終わりではない。「期日」があるがゆえに、進めないと「本当に終わるのか」と再び理由を問われてしまうからである。そうして、コミットメントを守るべくプロジェクトは開始され、活動内容や出力物についてステークホルダーに再び「問われ」ながら、進んでいくのである。これが、結果として様々な秩序をより合わせていると考えられまいか。というのも、問われたことにどうしても答えられないような重大な欠陥がある場合には、プロジェクトはそれ以上成立し続けることができないからである。かくしてプロジェクトは異なる社会秩序を寄り合わせる場として機能し続けるだろう。

つまり、プロジェクトとは名指しの体系であり、プロジェクトが進んでいく原理は、われわれが言葉を使う原理と同じではないか、という仮説が立てられる。これは、ダイヤモンドと炭が同じ材料でできてるというのと同じくらい、一見すると驚くべき話だ。しかし、この連載で取り上げてきたプロジェクトの特徴を眺めてみれば、自然な結論のようにも思えてくる。未来の可能性を扱うこと、秩序を生み出していること、複雑性を持つこと、場と自律性が生まれていること。これらは全て言説的実践の観点から説明することができる。「ケータイ」という発話と違って、「プロジェクト」という発話がこんなにもダイナミックに社会的実践を紡ぎ出しながら社会秩序を生み出すのは、未来の自分たちについて語っているからだ。その未来の自分たちにかかわる命題を真にするのは自分たちである。第5回で触れたように、これは自己言及構造を持つことに他ならない。そう、プロジェクトは自己組織化するダイナミズムなのである。

次回は、こうしたプロジェクト観を前提としたとき、われわれはプロジェクトにどのような新しい意義を見いだせるのか、文化人類学における議論を引き合いに確認してみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(8) スタート地点

ハッカー文化の伝道師 8 デイヴィッド・トーマスとアンドリュー・ハント

菊地玄摩

Manifesto for Agile Software Development の17人として共に署名したあと、デイヴィッド・トーマスとアンドリュー・ハントは、あたかもそれがユニット名であるかのように、2人の共同オーナーシップのもとで「Pragmatic Programmer」と題した活動を精力的に展開した。書籍 Pragmatic Programmer とそのシリーズ、プログラミングに関する書籍を販売するウェブサイト The Pragmatic Bookshelf とその運営会社 The Pragmatic Programmers, LLC. の設立、そして数え切れないほどの講演や投書である。書籍は古典として時代を超えて読まれ、ウェブサイトはコミュニティが共有する本棚として界隈の拠り所となった。

Pragmatic Programmer についての活動を始める以前、のちにアジャイルと呼ばれる手法が準備された90年代を、デイヴィッド・トーマスはプログラマーとして、アンドリュー・ハントはプログラマーから転身したコンサルタントとして、開発プロジェクトの前線で活躍した。この時代に培われた Pragmatic な態度が、Manifesto for Agile Software Development を契機として彼らの共通項として自覚され、2000年以降の長期にわたる普及活動を支えることになった。

デイヴィッド・トーマスとアンドリュー・ハントが共著者として、共同経営者として Dave Andy とサインするとき、そこには Pragmatic Programmer を体現するもうひとつの人格が立ち現れる。Dave Andy としての語りは、Ruby や Elixir についてのテクニカルな解説書を出版し、CodeKata (型) と呼ぶ独自の実践フレームワークを提案しているデイヴィッド・トーマス、ソフトウェア開発の領域にとどまらず SF 小説を出版し、音楽レーベルを運営する多才ぶりを発揮するアンドリュー・ハントの、個人的な物語を超えたところから発している。その語りは、優れたプログラマーに共通する Pragmatic な態度、つまりハッカー文化の良心を、普遍的な価値として語る喜びに満ちているのである。

しかしその時代は終わったようである。ふたりは現在、普及よりも、アジャイルというキーワードによって広まった誤解に着目するようになっている。デイヴィッド・トーマスはブログで Agile is Dead (Long Live Agility) を発表し、あまり人気ではない話としつつ折に触れて語っている。アンドリュー・ハントは現在普及に努めている GROWS 方法論の説明のなかで post-agile に言及している。そして古典として名高い Pragmatic Programmer は、初版から20年後の2020年に第2版に改訂されるなかで、アジャイルについて原点回帰を呼びかけるトーンを色濃くする大幅な変更が行われた。

現在の Dave Andy は、今日広く及したアジャイルに、Pragmatic な態度を見出していないようである。確かに、Pragmatic Programmer で力説されている複雑性と向き合う覚悟や、あらゆる変化に対応する柔軟性は、過剰なプロセス重視によって形骸化し、その本来の姿を見失っているように見える。伝道師たちは、アジャイルがもてはやされる時代にあっても、その使命を見失っていないようである。あらためて伝えられるべきもの。それはアジャイルの限界を乗り越え、来るべき時代に見出される、ハッカー文化のまだ見ぬ姿になるだろう。

What’s Love * Got To Do With It?

Kitty Gia Ngân

Dear Reader,

The name of this new series on Project Theory Probe was inspired by bell hook’s reaction to Tina Turner’s song with the same title. hook wrote in All About Love: A New Visions:

Nowadays the most popular messages are those that declare the meaninglessness of love, its irrelevance. […] Youth culture today is cynical about love. And that cynicism has come from their pervasive feeling that love can not be found.

After 2 decades, I begin this series, *What’s Love* Got To Do With It?* to tend to this cynicism. hook’s sentiment about our skepticism remains not only true but has intensified today.

Each month, through field studies and deep dialogues, I will address a skepticism around love, trying to understand why we have gotten to this depressive point. Then, like the middle child that I am, attempt to understand them through an ecological and anthropological perspective. Each skepticism will receive a deserving list of crazy proposals as an imaginative exercise to re-envision love. Hopefully, a meaningful something can be birthed through this questionable quest.

You, my reader, may be a curious audience, following this series as your personal anthropological quest to uncover our collective heartbreaks and severe disconnectedness. Perhaps you have been love’s victim, its survivor, teacher, or all of the above. Or you may reject this idea altogether, believing a project on love is doubtful, hypocritical, naive, delusional, and so on. If so, I mourn with you. Whatever role you play as a reader, I am (with) you.

Personally, I embark on this quest to grieve appropriately—to mourn the self that has suffered through the loss of what love was supposed to be and to uncover what love can be in the reflection of our current brokenness. Only through appropriate grieving of our collective disappointment about love can we truly come together and realize a newfound vision.

On the wall of a cafe’s toilet, Copenhagen.

💌 Question for us on our "dinner table":
Who taught you what it means to love? When was the last time you received this love and how did you last give it away?

Fingers-crossed it doesn’t sound preachy (to my little sister),
See you in June,

Kitty Gia Ngân

今月の一冊: 知恵の樹 ウンベルト・マトゥラーナ / フランシスコ・バレーラ

八木翔太郎

この本はオートポイエーシスについて平易に語られている。とはいっても斜め読みできるものではない。もがき苦しんで読んだ分だけ、異なる世界の見方に出会えるような、そんな本だ。著者のウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラは「生きている世界」とは何かについて生物学をもとに語っているのだが、バレーラは別著でG. スペンサー・ブラウンの算術を発展させる研究も残している、別の機会でも詳しく紹介したい。

本書は、まず錯覚について紹介しながら自らの「認識」を問い直すところから始めている。地球の歴史から生物の出現について語り始める際にも、事実として語ることをせず「認識」そのものについて問うのである。なぜ、われわれは生物最古の化石 (バクテリア) を「生物だったものだ」と呼べるのだろうか、と。それは「生物は絶えず自己を産出し続けるということによって特徴づけられている」ことを暗黙に前提としているからではないか。このプロセスのことを「オートポイエーシス[自己産出]」と呼ぶことにしようではないかと。

ここで「自ら」というのが問題となる。ある組織 (生物等) が自律性を持つということは、外部の事物 (分子など) が自らにどのような影響を与えるかについて、その組織自らが決めていることを意味する。なぜならば、逆であれば他律となってしまうからだ。

これは客観の排除のように聞こえる。だが、一方で主観だけを主張しているわけでもない。客観的なもののみを前提とする表象論、主観的なもののみを前提とする唯我論、これらはどちらも両極端の罠だ。オートポイエーシスは、カミソリの刃の上を歩くように、その中道を行く認識論的を展開しなければならない。

ここで、重要になってくるのが「観察」という単位だ。観察があってこそ物事は立ち現れる。その事物には、あらゆる生きるものによる「行動」も含まれる。行動とは、一意的にはある個体の位置あるいは姿勢の変化だが、よく考えれば、これも客観的なものではない。観察者が指し示している環境における有機体のいろいろな動きについてぼくらがおこなう描写に対応している。すなわち、行動も描写が「生み出している」のだ。

とはいえ、「観察」とはいささか人間の行為のような印象を受ける。オートポイエーシスは細胞のような微小な単位でも成立しているプロセスだ。ここで本書では、またもや現象そのものよりも、どのように見做されるかという立場に立ち戻る。適切な行動があるということは行為主体の認識 (観察) があるということだ。つまり、そこに有効な行動がみられたときに、われわれはそこに認識 (観察) を認めるのである。

すると驚くべき結論に至る。期待をはらんだ視点から見れば、有機体のすべての相互作用、観察されたすべての行動は、観察者によって<認識行為>としてみなすことができるはずであると。そして、すべからく生きるものが環境との相互作用 (カップリング) の中で自然に調整されていることを鑑みれば、有効でない行動は見当たらない。観察者は全ての行動を有効であるものとして見做せるのであり、認識行為として描写することができるということだ。本書ではこれを「生きることは知ることだ」という表現で説明している。

さて、「ある」のではなく「どのようにそれと見做されうるのか」に立ち戻るような本書の態度は、プラグマティズムと呼ばれる哲学的態度に非常に通じている。それだけでない。本書の後半では、高次のオートポイエーシスとして社会現象を取り上げており、社会的カップリング (サードオーダー) における行動をコミュニケーション的と呼んでいる。それらが自らを指し示すという自己言及的な構造を有したときに言語となる。こうした議論は、新しいプラグマティズムの先鋒ロバート・ブランダムの理論とも整合的なように聞こえるのは私だけだろうか。

本書を通じて、いかにして生きた世界が、各々の自律性を保ちながら縁起的に環境と切り離せない形で立ち起こっているかを体験したような気分になる。「カップリング」「ドリフト」「リニエジ」という耳慣れない言葉が連呼されているのは、まさに、いかに共時的・通時的な関係性を保ちながらも、個体が自律的に発生と進化をしているのかを強調するためだ。これはプロジェクトという「生きた個体」にも当てはまる世界観なのではないだろうか。以上の議論から、本書では最後に1つの普遍的倫理を導いている。

他人と共存したいと思うなら、その誰かにとっての確実さ[確信]はーそれがぼくらにはいかに望ましくないものに見えようとーぼくら自身の確実さとおなじく有効なものなのだということを理解しなくてはならない

これはオートポイエーシス的な社会理解から自然に導かれる倫理観だ。そして、この結論が、一つの馴染みのある概念 (愛) と結び付けられて締めくくられているのは、とても示唆深い。

ぼくらはただほかの人々とともに生起させる世界だけを持つのであり、それを生起させることを助けてくれるのは愛だけだ、ということだ

ボイジャー1号の復活劇

八木翔太郎

アメリカ航空宇宙局 (NASA) は4月22日、惑星探査機「ボイジャー1号」が解読可能な情報を地球に送信したと発表した。実に半年ぶりのことだ。Project Theory Probe Journal Issue 2 の本コーナーの記事では、ボイジャー1号がどのように人の手を遠く離れながらも (史上最も遠い) 、半世紀前のエンジニアが「予期しなかった問題」に対処してプロジェクトを継続し続けられているのかについて考察した。ここでプロジェクト継続の必須条件はゴールでも計画でもない。互いに応答し合えることである。今回、意味不明なエラーメッセージしか返さなくなったボイジャー1号がどのように復活したのかを知ることは、この考察をさらに進める手がかりになるだろう。

Credit: NASA/JPL-Caltech

思考実験として、そもそも理解不能な応答しかしない探査機とどうやって関係をとり結べるのだろうか考えてみたい。おそらく不可能だろう。ここに、応答と「関係すること」との間の根源的なつながりを見ることができる。応答をしてくれないと関係を取り結ぶことすらできない。逆に言えば、ボイジャー1号が復活できたということは、何かしら応答をしてくれたということだと推察できる。

実際、ボイジャー1号は3月22日に、とあるコマンドに対してこれまでとは異なる応答を示した。依然として意味不明な羅列であったので、しばらくエンジニアはどう活用すべきか分からないでいたが、これがプロジェクトメンバーにとって希望になったのは言うまでもない。なぜなら、こちらの特定のコマンドにたいして、特定の応答を示すという探査機の行為は、1つの認識行為だと見做せるからである。つまり、著書「知恵の樹」の言葉を借りるならば探査機が「生きている」ことの証を得られたのだ。

このコマンドのことを、プロジェクトチームは後に「突っつき (poke) 」と呼ぶようになったという。名指す必要があるくらい、重要な出来事だったのだろう。その後のストーリーは奇跡に近い。NASAのディープスペースネットワークのエンジニアが、その「突っつき」により得られた信号の内容を解読し、その中にFDSメモリ の読み上げが含まれていたのだ。それを正常時の読み上げと突合した結果、FDSメモリの約3%が破損していることが判明した。そこに含まれたコードを別のメモリに移す処置により修復を図った結果、ボイジャー1号は無事に正常の機能を示すようになったとのこと。

エンジニアとボイジャーはこのように関係性を保ちながら、より大きなプロジェクトをともに成している。人とモノという違いはあれど、その間にあるのは平等な応答によるコミュニケーションだ。もちろん相互理解は大切だが、ボイジャー1号の物語は、それ以前の基礎的なレイヤーがあることに気づかされる。こちらの応答に応答してくれるのか。あちらの応答にこちらが応答できているのか。

応答可能性 (response-ability) こそが社会性あるいは責任 (responsibility) を紡ぎ出すのであり、その逆ではないと主張しているダナ・ハラウェイと同様に、われわれも応答がプロジェクトを可能としているのだと主張できるのではないか。そして人は、応答を促すように、相手を理解することも、理解してもらえるように身を挺して伝えることもできるのではないだろうか。応答を生み出せるか否か。この観点で見つめ直してみると、意外な実践によってプロジェクトが支えられていることに気づかされるかもしれない。

このごろの Project Sprint

賀川こころ

v5.0に向けたあれこれ ―習慣化とみんな化

プロジェクト中心主義からプロジェクトチーム中心主義に大きく舵を切った v3、プロジェクトはチームメンバー全員のものでありチームの意思があらゆる事柄を決定するということを改めて強調した v4 を経て、Project Sprint はいま、「習慣化」「みんな化」をキーワードにした v5 に向けて動いているところです。

v5 の目指すところを一文で表現するならば、「プロジェクトをプロジェクトチーム全員の力で推進するために、行動習慣を身につけることを支援するフレームワーク」と言ってよいでしょう。変化の激しい時代において、プロジェクトは取り組んでみないと実際の姿を把握できないものになりました。この社会で Project Sprint は、揺れ動くゴールを追いかけて、それに対しすこしでもよいソリューションを出そうとしつづけられるチームを理想とします。プロジェクトチームは、環境の変化に応じて、プロジェクトの現在の姿を常に捉えなおしつづけ、そしてあるべき姿を常に定めなおしつづけなくてはなりません。Project Sprint が行動習慣の獲得を推奨するのは、この捉えなおしと定めなおしを絶え間なく行うにあたって、行動習慣があるということがおおいに役立つからです。

「習慣」という言葉からは一般に、変革的というよりは保守的な、創造的というよりは形式的なニュアンスが感じられるかもしれません。しかし、身につききってもはや当たり前の仕草になった習慣こそがチームのアイデンティティを示すものであり、チームの能力であると言えるものです。Project Sprint では習慣を、「身に馴染ませた一定の実践の型」であると捉えています。習慣という一定の型をガイドにすることで、経験したことのない状況においても次の行動を模索し実践しつづけることができます。行動しつづけることが、プロジェクトを捉えなおしつづけ、よりよくしつづける原動力となるのです。

また、v5 では「プロジェクトチーム全員で」「みんなで」ということがさらに強調されるでしょう。これは、未来を予測することが困難な時代において、メンバーの多様性を活かすことこそがプロジェクトを成功へと導く鍵となると考えているからです。多様なメンバーが多様な視点でプロジェクトを捉え、多様な経験や感性を活かして多様に活動することで、プロジェクトをよりよい方向へ、よりよい状態へと進めることができます。

多様性の効果を最大限に発揮するには、プロジェクトチームが自律的でなくてはなりません。Project Sprint では、チームメンバー各々が自発的・主体的に考え、行動できている状態のことを「自律的な状態」と捉えます。この状態を実現するために、個々のメンバーの活動は可能な限り疎結合にし、各々が自分で思考して行動を決定できるようにしておくことが重要です。依存関係は極力減らし、最低限の同期でプロジェクトを進めることが推奨されます。この「最低限の同期」のために使われるのが、これまでも Project Sprint の軸となってきた定例会議なのです。

Editor's Note

菊地玄摩

翻訳家の村上雅章さんによって「The Pragmatic Programmer: From Journeyman to Master」(Addison-Wesley Professional)に与えられた邦題は「達人プログラマー: 熟達に向けたあなたの旅」(オーム社)でした。そこでは「Pragmatic」に対応するワードとして「達人」が選ばれています。「プラグマティック・プログラマー」でもよさそうなものですが、どちらかというと副題の「Master」が前面に出てきています。また原題には直接対応するものがなさそうな「あなたの」も追加されており、興味深いです。

この文脈における「達人」は、プラグマティックな振る舞いを身につけた人、ということになるでしょう。原題においても Pragmatic であることと Master が重ね合わせられているのは間違いなさそうです。そしてマスター (達人) が経験している世界は、ビギナーのそれとは大きく異なっているはずで、その人達のように世界を経験できるようになることが優れたプログラマーになるための道なのだ、というニュアンスを表現すべく、「人」に着目した邦題がつけられたのだと考えると、なるほどと思えてきます。ビギナーからマスターへの移動を伝えようとして「あっちの世界へ行け」と題してしまったら怖くて誰も手が出ないところですが、熟達、あなた、旅、といったワードを組み合わせ、読者の人生の物語にとって受け入れやすい佇まいが表現されています。

ところでプラグマティックなあちら側とは、どんな場所なのでしょうか。プラグマティズムといえば、八木さんが Project Theory Probe Journal Issue 2 の「今月の一冊」で、チャールズ・パースを引用しつつ「事実と価値を峻別しない」態度として説明してくれています。
あちら側に世界があって、私はそれと向き合っている、あるいは反対に、人はそれぞれ、夢を見るように心の中に世界を所有している…いずれも孤独な世界です。そうではなく、私はモノと関係を作り出すことができるし、私以外の人々もそうできる、それどころかあらゆるもの同士の関係は、私たち自身が創るものである…という世界を受け入れるとどうでしょう。ある人がモノを前にしたとき、その人独自にその価値を見出すことに寛容になれそうです。
そしてそれが私、あなた、誰にとっても可能であることが共有されれば、複数の価値が同時に存在し、それを互いに受け入れ、それを基盤にして未来を能動的に創る社会 (プロジェクトチームも小さな社会でしょう) が機能しはじめます。今月の Project Theory Probe Journal で語られた「名指しの体系」や、その発露としてのチームの「習慣」の話は、この在りようを基礎にしているし、「知恵の樹」に描かれる世界とも通じています。

都市に暮らしていると、人と人のあいだがあまりにも近くて、人がそれぞれユニークな世界を有していることをうっかり忘れてしまうことがあるかも知れません。しかし、もし人と人が太陽系外を飛ぶボイジャー1号と、NASA ジェット推進研究所のあるカリフォルニア州パサデナほど離れていたら、互いに伺い知れない状況から、全く異なる世界を見ていると認めないことには始まりません。実際には人同士は相当に異なる経験から世界を見ており、互いに Poke して、その反応から相手の事情を真剣に想像することしかできないにも関わらず、それを忘れさせる強力な前提を持ち込んでしまっているのが、多くの社会的な状況の妥協点であることが見えてきます。Project Theory Probe の挑戦は、それを乗り越えた先にある世界を名指し、引き寄せることにあります。

そして、そんな世界を「達人」たちが垣間見せてくれるとしても、「達人」たちのためだけにあるのではないことは明らかでしょう。誰にとってもそこに住むことは可能であるはずです。しかし、バスに乗るようにそちらへ「行く」ことは叶わないようです。自分がそのように「なる」ことを通して、たどり着くことができるところ。いつの間にか身につけていた、しかしなぜそうしていたのか思い出せないような何かを、脱ぎ捨てる勇気によってのみ、可能になること。そんな「達人になるための試練」像は、ステレオタイプすぎるでしょうか。

ウェブサイト

毎月の Journal は Project Theory Probe のウェブサイトにアーカイブされます。Project Theory Probe の活動場所である GitHub や Digital Garden へのリンクなども提供しています。

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