The Project Theory Probe Journal

Issue 9
Jun. 30 2024

自己組織化するプロジェクトを見たい

八木翔太郎

第9回 プロジェクトの存在論的転回

われわれは前号で、プロジェクトが進んでいく原理は、われわれが言葉を使う原理と同じではないか、プロジェクトとは名指しの体系ではないかという仮説にたどり着いた。名指す対象は、モノであったり、行為であったり、未来のことであったり様々であるが、特に未来の自分自身のことについて語る言説的実践が、我々をプロジェクト推進に駆り立てるのだと。ここで、これが「どのような実践的な含意を持つのか」を考える前に、そもそもこれが「何を意味しているのか」を少し立ち止まって考えてみたい。

というのも、こうした結論から、「プロジェクト」を上手く進めるために、この名指しを上手く実践しようと考えるのは自然なことだろう。しかし一方で、この「プロジェクト」とは何なのかについて未だ明らかになったとは言い難い。名指しによって進むプロジェクトとは何か。われわれはプロジェクトによって何を為しているのだろうか。もしも、プロジェクトがコミットメントを守る行為なのであれば、そのコミットメントを作り出している名指しの体系とは何なのか。

名指すことと、プロジェクトを実践すること。この2つが裏表一体であることを確認したわけだが、そのどちらもが動詞であるのは興味深い。上手く名指すことでプロジェクトを進めているということは、見方をひっくり返せば、プロジェクトを進めることで名指されるモノや実践の方をも変えているとは言えまいか。

そもそも、セラーズがいうように発話 (による名指し) と認識了解とが切っても切り離せないのだとしたら、名指されたモノの総体というのは、名指す側にとってみれば認識世界そのものである。そして、プロジェクトを新たなコミットメント、すなわち、かつて名指せなかったことを名指せるようにする実践群であると考えれば、認識世界に変更を加える行為であることは確かだろう。だが「認識世界に変更を加える」というのは、どういう事態であろうか。

このことに学問として応えようとしているのが、文化人類学である。かつて友人が「学問の総合格闘技」と呼ぶくらいに近年多様な展開を迎えている文化人類学であるが、2000年代ごろに「存在論的転回」を迎えたとされている。これは、民族によって使う言葉が違うことは、各々にとっての認識世界 (存在論) が異なるということであり、それを等しく重要であると見做そうという考え方である。逆に言えば、使う言葉を変化させることで、人は世界と自分自身を変化させうるというのである。デザインの文化人類学においては、人がどのようにモノ (や言葉) のデザインを通して自分自身をデザインし返してきたかが研究されてきた。すなわち、モノや言葉を作り出すプロジェクトという行為は、あらたな世界を作り出す行為でもあり、言葉通り「創造的」なのである。

例えば、「人新世 (Anthropothene)に向けた人間のよりダイナミックな行動理解」と題された論文では、まさにこれを図式的に示している。行動が「コンテキスト」によって生み出されることに自覚的になり、「コンテキスト」をデザインしながら自身の行動を変更しようとしているこの循環は、まさに世界をデザインすることによって自身をデザインし返そうとする試みに他ならない。人はどのようにあり得るのか。世界はどのようにあるべきなのか。われわれは、これまで選び続けてきたし、これからも選んでいくのである。

Credit: 筆者作成

これは、プロジェクトの発達の歴史とも重要な関連がある。プロジェクトの問題領域は、生産から消費へ、生活空間から未来への価値提案にまで及ぶようになってきている。これを、果たしてどう「管理 (マネジメント) 」しようかと問えば、途方に暮れるしかないだろう。しかし本連載によれば、ここまで見てきた通り、プロジェクトはまさに新たな言葉と存在論を作り出すことによって、この「世界」を作り出す活動に他ならない。

では、どのようなプロトコルが、新たな世界の創出を円滑にしてくれるのだろうか。次回、われわれの実践が持つ「規範」について踏み込んでみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(9) 状態遷移

ハッカー文化の伝道師 9 ロバート・C・マーティン

菊地玄摩

アンクル・ボブの愛称で親しまれているロバート・C・マーティン。彼が普及に尽力してきたソフトウェア開発の知見は、オブジェクト指向プログラミング、テスト駆動開発などの手法から、開発者としてのマインドセットであるソフトウェアクラフトマンシップまで、アジャイルと総括される潮流の背骨を形成している。90年代から現在まで、そのユーモアと本質を精緻に描き出す明晰さによって、コンサルタントとして、著述家として、企業経営者として、ソフトウェア開発の世界に大きな影響力を持ち続けてきた。なかでも2001年のスノーバード・ミーティングの主催は、コミュニティがアジャイルに目覚めるための機会をもたらした、ソフトウェア開発史上屈指のエピソードである。

しかしロバート・C・マーティンもまた、その後の「アジャイル」に失望し、原点回帰を呼びかける古参の一人になった。その懸念の中心は、アジャイルを実践する上でのエンジニアリング能力の軽視、とりわけ内部品質に対する無理解にある。技術不遇の時代の到来を予感したロバート・C・マーティンは、2009年にアジャイルマニフェストの続編とも言える Manifesto for Software Craftsmanship を提案し、クラフトマンシップの復権によって危機を回避しようと試みている。しかしアンクル・ボブの呼びかけをもってしても、時代の行く末を変えることはできなかった。

失望の期間を経て、2019年には「クリーンアジャイル 基本に立ち戻れ」(KADOKAWA) が書かれている。そこでは、ケント・ベックのエクストリームプログラミングを軸として、アジャイルを技術史の中に再定義し、それを体現する者を真のプロフェッショナルとして持ち上げることが試みられている。いわばアジャイルマニフェストとクラフトマンシップの融合であるが、そこで「立ち戻る」べき原点として力を込めて紹介されるのは、サークルオブライフと呼ばれる図である。

RonJeffries.com

サークルオブライフは、アジャイルの基礎的なフィードバックループ (定義する、見積る、選択する、作る) を表現している。プロジェクトを運転に見立てる解説を補助するため、2001年に出版された「XPエクストリームプログラミング導入編 - XP実践の手引き (The XP Series)」(ピアソン・エデュケーション/桐原書店) の図版として初めて登場した。そして10年後、「導入編」の著者のひとりであるロン・ジェフリーズのブログでループが2つ追加され、3重ループになった経緯がある。ロバート・C・マーティンが引用しているのは、この2011年版である。
新しいサークルオブライフの3つのループは、外側から順に、ビジネス、チーム、エンジニアリングのプラクティスに対応している。そのため改変の経緯からも、初期のアジャイルがビジネスの場面に注目していたことがわかる。そして普及と誤解の時代を経て自覚された「忘れ去られたアジャイル」は、もっとも内側のループ (テスト駆動開発、リファクタリング、シンプルな設計、ペアプログラミング) に対応するのである。

ロバート・C・マーティンは、ソフトウェアを書くことの社会的影響力の大きさと、その責任を職業人として引き受けることによってもたらされる、人生の喜びについて語っている。使命感に満ち、サークルオブライフのループを内面化した、職業人としてのソフトウェア開発者は、「ビジネスと開発の断絶を修復する」アジャイルの夢を再び託されようとしている。その大きな期待に応えるためにソフトウェアコミュニティが頼りにできるのは、エクストリームプログラミングを育んだ90年代の開発現場と、そこに息づいていた素朴な佇まいのハッカー文化だろう。アンクル・ボブはいまも、その価値がより大きな存在として目覚めようとする傍らで、励ましを続けている。

What’s Love * Got To Do With It?

Kitty Gia Ngân

This month's What's Love* Got To Do series covers the topic, Making A Fuss.

Historically, the phrase "stop making a fuss" is used against women as a technology to put them in line. It is effectively saying, "You are wrong. Please stop creating drama on unnecessary things." But who decides what is wrong and right, what is un/necessary?

In this month’s booklet, you will find:

  • A discourse on love making a fuss.
  • How to “make a fuss” in your own community.
  • The use of projecation to create gatherings on fusses.
  • Stories by community contributors.

In bringing people together to make this month’s booklet, I introduced 2 new things: One was the "projecation" itself, which is the structure that enabled us to experience, thus, created the booklet; Second is the concept of "making a fuss" in relation to love. These 2 tasks require us to challenge business-as-usual. And if we don’t truly experience them ontologically, I believe the creative experience would be another living corpse.

The rapid togetherness when we started the circle, even when more strangers were invited to the conversation, was due to intentional intimacy and a shared commitment to truth. In the end, it leaves me hopeful and more resolved to ask:
How do we bring this spirit and insight to creative collaboration and world building? How do we engineer lifescape from a place of mutual self-actualization instead of perpetuating the zombifying status quo?

What’s Love* Got To Do With
MAKING A FUSS?

  • 70 pages
  • communal
  • interactive booklet
  • for personal use and sharing circles

Read here. (PDF 33.7MB)

WHAT DO YOU MAKE A FUSS ABOUT?

Draw your fusses ↓
What do they look like? What do they feel like?

Start

screenshot and send to wedocare@tutu.house

今月の一冊: Between Saying & Doing ロバート・ブランダム

八木翔太郎

通常、われわれは言葉について考えるときに、その意味を考える。まるで辞書のように、言葉と意味が対応しているように考えているだろう。それに異を唱えてきたのが、プラグマティズム (語用論) だ。言語論的転回の契機を作り出したウィトゲンシュタインは、言語ゲームにおける「意味」とは、どのように表現が正しく「使用」されたかの説明であると考えた。クワインに至っては、翻訳の不確定性テーゼをはじめ「意味」という概念そのものを攻撃し、「意味」というのはむしろ言語使用の特徴を説明するために存在しているとの立場を取る。

では「意味」という発想を全て棄却しなければならないのか?ここで、新しいプラグマティズムの先鋒であるロバート・ブランダムは中庸の考え方を示す。むしろ、意味 (meaning) と使用 (use) を相補的な関係として捉えられないかと。あることを「意味している」と見做されるためには「何が為されている」必要があるのか。それが「意味する」と見做されることで「何が為される」ようになるのか。この本では、この関係性を考える手段として、意味ー使用ー関係 (MUR) を考えることを推奨し、図を用いながら分析することで (分析プラグマティズム) 、どのように意味と意味の関係性について、あるいは行為 (能力) と行為 (能力) の関係性について明らかにしうるのかを紹介している。

Credit: Brandom, Robert B., Between Saying and Doing: Towards an Analytic Pragmatism (Oxford, 2008)

言葉と行為との間にこうした「生成的な」関係性が見出せるのは非常に面白い。言葉がどのように行為を可能にしているかの手がかりを与えてくれるからだ。もちろん、ここで語られている行為は「言説的行為」であり、発話していると見做されるに十分な行為や能力のことを指すのだが、他の行為一般に拡張して考えてみることも可能だろう。

特にセラーズや、ブランダムの他の著書である「Making it Explicit」にあるように、言説的行為を「コミットメント」と捉えるならば、発話のないような非言説的行為も「コミットメント」であると捉えられうるからである。例えば「礼儀ある」行為と見做されるときに、それは発話なしにも「とあるコミットメントを守っている」ものとされているだろう。実際に「実践 (practice) 」と呼ばれるような行為群は、常に意味との関わり合いの中でコミットメントを果たしている/果たしていないと「判断」されている。つまり、為されている (use) と見做されるためにはどんな意味 (meaning) がないとならないのか、という逆の矢印に分析をふることもできそうだ。

ここからは、本書の趣旨から大きく外れるので、話半分で、しかしよりプロジェクトの探究へと向かう論考としてメモ書きをしたい。まず、言葉自体の意味と、行為の意味とで大きく異なる点として挙げられるのがコミットメントなのではないか。コミットメントは約束と同様に、必ず帰結によって後ろ向きに正当化される。つまり、コミットメントという概念そのものが、意味世界とは独立した世界 (現実) の存在を前提としている (批判的実在論) という点は興味深い。これは「知恵の樹」で語られたテーゼ「全ての行為は認識である」と重なってくる話だ。行為ができたかどうかは、帰結から判断されるが、その帰結は現実世界との接続なしには成立し得ないのである。

一方で、コミットメントというのは破られるまでは成立しているものとして見做されている。すなわち、未来と可能性の領域にも広がっているのだ。①名指すことができて、②可能であると信じられる限りにおいて、人はコミット (発話や実践) することができる。逆に言えば、名指すことができないことや、可能であると信じられないことについて、人はコミットすることができない。有意味であると見做されないのだ。

さて、このような議論を前提としたうえで、ブランダムの本書における着眼は示唆的だ。というのも、行為と言葉が、次の行為と言葉を可能にしているような、生成的なダイナミズムを説明しているからである。ただし、それが生じるためには前段の行為と言葉が「有意味である」と見做されている必要がある。無意味である (あるいは意味がそれと見做されない) ならば、それに基づいて為されて語られることも無意味であるからだ。これは、あるマイルストーンを達成しなければ次のマイルストーンも達成できないようなプロジェクトの生成的な構造とも似ている。ここでも言説的行為とプロジェクトのメカニズムが本質的に同じであることが確認できるだろう。

最後に、なぜ言葉や行為が可塑的でありながら、いつもの言葉や実践に落ち着いてしまうのかも、ここから説明できまいか。いつもの言葉や実践は、コミットしていると見做される条件が揃っている一方で、それ以外の言葉や実践は、①名指し、②可能性、のいずれかの理由からコミットしていると見做されにくい。だからこそ、実践は可塑的であるにも関わらず、「いつもの」が自動的に選択されてしまうのではないか。

しかし、ブランダムの着眼に従えば、言葉と実践を意図的に選びとることで、可能となる実践群が変わることは明らかだ。特に、その交差点として「実践を何と名指すか」は重要になりそうだ。ホラクラシースクラムなどの新たな実践論では、必ず補足として用語集があるが、これがむしろ中心的な役割を果たしている可能性さえ示唆されそうだ。

ダークマターの「髪の毛」に気づけるか

八木翔太郎

暗黒物質 (ダークマター) という名前に馴染があるだろうか。宇宙の全物質とエネルギーの約27パーセントを占めているにも関わらず、目に見えない物質であり、謎に包まれている。

有力な理論によれば、暗黒物質は「冷たい」ため、あまり動き回らず、光を生成したり光と相互作用したりしないという意味において「暗い」のだという。さらに研究やシミュレーションによると、銀河の周りを回るダークマターがそれぞれ細長い流れのようなものを形作っている。この「流れ」が地球のような惑星に近づくと、粒子が超高密度のフィラメントを形成し「髪の毛」のような形になるのではないかと予想されている。

「髪の毛」のうちダークマター粒子が最も高密度に集中している「根元」 (粒子密度が平均の約10億倍) と、「髪の毛」が終わる「先端」。これらの場所を特定できれば、そこに探査機を送り、暗黒物質に関する大量のデータを入手できる可能性があるとのこと。

Credit: NASA/JPL-Caltech

さて、30年以上にわたり直接検出の試みをすべて回避してきた暗黒物質の観察ができたならば凄いニュースだ。しかし、立ち止まって考えてみれば、その形や在り処まで計算で迫れている時点で、すでに驚くべき達成である。

単なるモノよりもさらに微弱な情報しか発していないダークマター。それでも人が関係性を結べるのは、重力という間接的なものを介してであれ、情報を与えてくれているからである。

関係性を結ぶためには、情報の「やり取り」が必要だとされているが、ダークマターについて見てみれば「与える側」と「与えられる側」という表現に疑問を持たざるを得ない。むしろ、「知覚する側 (受けとる側) 」と「知覚される側 (受け取られる側) 」といったほうがしっくりくる。ダークマターが自身について雄弁に語らずとも、われわれはダークマターについて思いを馳せて雄弁に語ることができるのだ。

実際に、関係性を生み出すという目的においては「与えること」と「受け取ること」は裏表であり、その意味において等価なのである。しかし、この2つの行為が等価に扱われているケースは少ないかもしれない。例えば、関係性を取り結ぶ実践として「愛」を考えてみると、与える実践は「愛」だと見做されやすいのに対して、受け取る実践はそうは見做されづらい。

しかし (科学者の) 感受性の高いことがどれだけ (ダークマターと) 関係性を取り結ぶことに寄与しているかは本稿の例から非常によく分かるだろう。誰も見たことのない暗黒物質の存在と形状を見通せる洞察力と感受性は、莫大なエネルギーで可視光線を発している太陽と (反転的ではあるが場合によっては同じくらいの) 役割を果たしていると考えられないだろうか。

このごろの Project Sprint

賀川こころ

習慣には2種類ありそうだ

先月に引き続き、行動習慣を身につけることを支援するフレームワークとして Project Sprint を構築するにあたり、「習慣」という概念の整理にフォーカスしている Project Sprint チームです。

宇野重規が著書「民主主義のつくり方」において整理しているパースの「習慣」概念 (「未来においてある状況に遭遇した場合に、あらためて考えるまでもなく『このように行動するであろう』と言い切れる」ようなもの) や、デューイの「習慣」概念 (「人間が様々な瞬間に遭遇する状況に反応するための『道具』」) に、わたしたちはこれまでも納得感や親和性を覚えてきました。また、トヨタにおける仕事の進め方の慣行を表す「型」 (たとえばA3資料やなぜなぜ分析など) のようなものを、ある状況における行動パターンとして設定し利用することが、習慣化の助けになりそうだとも考えてきました。実際に Project Sprint にも、気づきトリアージ (違和感を提案に昇華して共有するプロセス) や会議におけるアジェンダ提案 (提案者が納得して次の行動を取れるような事前記入・議論進行プロセス) といった、「型」に近いパターンがすでに存在します。

その中で、習慣には2つの種類があるのではないかと考え始めています。1種類目は、意識せずに始まって繰り返されるようになった行動としての習慣 (習慣①α) です。たとえば、運動不足を気にしている人が、トイレに立ったついでにスクワットを10回してみるようなものです。最初に実行したときは、継続するつもりはなかったかもしれません。何度か実際にやってみて、これくらいなら負担なくできるなと感じたあとも、忘れてしまったりついサボってしまったりすることもあるでしょう。これを「トイレに立ったら必ずスクワットを10回する」というマインドセットを持ち、行動パターンとして自分に課すのが、2種類目の習慣 (習慣②) への変化です。この習慣②を繰り返すことで、トイレついでのスクワットが身体に馴染み、息をするように当たり前に実行されるようになると、この行動はほぼ無意識的に身体が動くようなルーティンとしての習慣 (習慣①β) になります。

習慣①と習慣②の違いは、行動パターンとして実行するのに意識が必要かどうか、です。「こういうときはこう動く」と型を意識しながら実行しているうちは習慣②です。一方、前掲の「民主主義のつくり方」において、パースの習慣概念の例として、熟練の船長がいかなる暴風雨に遭遇しても慌てることなく適切な指示を出すことができるというものが挙げられていましたが、これは習慣①βになりきった状態と言えるでしょう。当たり前のものとして身についた習慣①βの上に、また次の習慣②が形成されていきます (ex. トイレついでのスクワットをしたあとはコップ1杯の水を飲むことにしよう) 。

「英語で表現するならば習慣①が habit/habitus に近く、習慣②は practice に近そうだ」とか、「個人における習慣の形成過程とチームにおける習慣の形成過程は少し異なりそうだ」とか、「こういった習慣の分類の先行研究はあるのだろうか」とか、まだもう少しこのテーマの掘り下げは続きそうです。

Editor's Note

菊地玄摩

Kitty Gia Ngânさんの考える「親密性 (Intimacy)」というテーマに触れたとき、ここまで Project Theory Probe で考えてきた話題を捉え直す新しい視点を得た、と感じました。どうすればいいんだろう、と考えてきたものを、もともとそうだった、と変えてしまうような変化が、そこかしこに起こりそうなのです。Project Theory Probe における存在論的転回、というと言い過ぎでしょうか。

Issue 6 の Editor's Note で、オフリス・アピフェラとマルハナバチのエピソードに触れました。昆虫と植物が、種を超えて深く関わり合っている話です。この関係を不思議に思う発想の背後には、別々のものは互いに無関心なはずだ、という前提が感じられます。だからこそ、共通の利益を見いだせることが不思議だ、となるのでしょう。
親密性とは何かという問いは、別の出発点を与えてくれます。オフリス・アピフェラとマルハナバチが親密であることにはどんな必然があるのか、そう考えると、こちらはオフリス・アピフェラ、こちらはマルハナバチ、という区別がどれほど有効なものなのか、疑わしくなってきます。むしろ、親密でないとはどういうことか?互いに無関心であるとはどういうことか?これに答える必要が出てくるでしょう。

別の観点もありそうです。ダークマターを「見る」ことができ、星間空間を股にかける能力をもつ超越者の視点から、人類を観察してみます。そうすると、人類はダークマターを見ることができないにも関わらず、ダークマターに気づき、反応している不思議な生き物に見えるかも知れません。これは、人のようには見ることができず、意志ももたない昆虫と植物の「相互作用」を不思議に感じている、観察者に似ています。
もちろん人類は、超越者のように宇宙空間を認識する能力を持っていないでしょう。しかし超越者に教えてもらわなくても、人類なりに宇宙を知覚し、そのやり方の先にダークマターに気づく道筋は存在します。人類は人類に備わった感受性と思考能力を駆使して宇宙を理解しているのであり、それは、人類にとっての現実の在り方であり、超越者には真似できない、脅かすことのできないものでもあるはずです。そしてそれは、私たちひとりひとりにも、あらゆる生命にも、もしかすると生命でないものについても、言えるのではないでしょうか。

ここで示唆されるのは、まだ名づけられておらず、対象として見えていないものを、超越者の声ではなく、自らの感受性の中に探すことの重要性、であるように思います。Project Theory Probe が探し求めている創造性が、そこにありそうです。科学者は自然を、プログラマーは人工物を愛し、重力やソフトウェアと親密になり、そこから学び、新しい世界と出会おうとします。それは与えられるものではなく、自らの内面に、新しい世界を発見していく道のりであるように見えます。
ですから、ここにはまだ名指すことのできない何かがある、私は何かを感じている、と、感性の働きにしたがって表明する (Make a Fuss) ことからはじめる提案は、非常に興味深いものです。その声はいずれ、人類の不思議な、愛らしい創造となって、それを眺める超越者を微笑ませることになるのでしょう。

ウェブサイト

毎月の Journal は Project Theory Probe のウェブサイトにアーカイブされます。Project Theory Probe の活動場所である GitHub や Digital Garden へのリンクなども提供しています。

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