われわれは前号で、プロジェクトが進んでいく原理は、われわれが言葉を使う原理と同じではないか、プロジェクトとは名指しの体系ではないかという仮説にたどり着いた。名指す対象は、モノであったり、行為であったり、未来のことであったり様々であるが、特に未来の自分自身のことについて語る言説的実践が、我々をプロジェクト推進に駆り立てるのだと。ここで、これが「どのような実践的な含意を持つのか」を考える前に、そもそもこれが「何を意味しているのか」を少し立ち止まって考えてみたい。
というのも、こうした結論から、「プロジェクト」を上手く進めるために、この名指しを上手く実践しようと考えるのは自然なことだろう。しかし一方で、この「プロジェクト」とは何なのかについて未だ明らかになったとは言い難い。名指しによって進むプロジェクトとは何か。われわれはプロジェクトによって何を為しているのだろうか。もしも、プロジェクトがコミットメントを守る行為なのであれば、そのコミットメントを作り出している名指しの体系とは何なのか。
名指すことと、プロジェクトを実践すること。この2つが裏表一体であることを確認したわけだが、そのどちらもが動詞であるのは興味深い。上手く名指すことでプロジェクトを進めているということは、見方をひっくり返せば、プロジェクトを進めることで名指されるモノや実践の方をも変えているとは言えまいか。
そもそも、セラーズがいうように発話 (による名指し) と認識了解とが切っても切り離せないのだとしたら、名指されたモノの総体というのは、名指す側にとってみれば認識世界そのものである。そして、プロジェクトを新たなコミットメント、すなわち、かつて名指せなかったことを名指せるようにする実践群であると考えれば、認識世界に変更を加える行為であることは確かだろう。だが「認識世界に変更を加える」というのは、どういう事態であろうか。
このことに学問として応えようとしているのが、文化人類学である。かつて友人が「学問の総合格闘技」と呼ぶくらいに近年多様な展開を迎えている文化人類学であるが、2000年代ごろに「存在論的転回」を迎えたとされている。これは、民族によって使う言葉が違うことは、各々にとっての認識世界 (存在論) が異なるということであり、それを等しく重要であると見做そうという考え方である。逆に言えば、使う言葉を変化させることで、人は世界と自分自身を変化させうるというのである。デザインの文化人類学においては、人がどのようにモノ (や言葉) のデザインを通して自分自身をデザインし返してきたかが研究されてきた。すなわち、モノや言葉を作り出すプロジェクトという行為は、あらたな世界を作り出す行為でもあり、言葉通り「創造的」なのである。
例えば、「人新世 (Anthropothene)に向けた人間のよりダイナミックな行動理解」と題された論文では、まさにこれを図式的に示している。行動が「コンテキスト」によって生み出されることに自覚的になり、「コンテキスト」をデザインしながら自身の行動を変更しようとしているこの循環は、まさに世界をデザインすることによって自身をデザインし返そうとする試みに他ならない。人はどのようにあり得るのか。世界はどのようにあるべきなのか。われわれは、これまで選び続けてきたし、これからも選んでいくのである。
これは、プロジェクトの発達の歴史とも重要な関連がある。プロジェクトの問題領域は、生産から消費へ、生活空間から未来への価値提案にまで及ぶようになってきている。これを、果たしてどう「管理 (マネジメント) 」しようかと問えば、途方に暮れるしかないだろう。しかし本連載によれば、ここまで見てきた通り、プロジェクトはまさに新たな言葉と存在論を作り出すことによって、この「世界」を作り出す活動に他ならない。
では、どのようなプロトコルが、新たな世界の創出を円滑にしてくれるのだろうか。次回、われわれの実践が持つ「規範」について踏み込んでみたい。