The Project Theory Probe Journal

Issue 32
Sep. 30 2026

知能としてのプロジェクトを見い出したい

八木翔太郎

第8回 「あいだ」が内側に移る

シドニーの海を潜りながら、テニスボールほどのタコに出会う哲学者がいる。彼が指を一本差し出すと、タコの腕がゆっくりとほどけて伸びてきて、吸盤が指を掴む。数十の吸盤の一つ一つに、数百のセンサーがあり、腕は指を「味わい」ながら、そっと引き寄せている。

この哲学者、ピーター・ゴッドフリー=スミスは、シドニーの海に通い続けてタコとコウイカ(cuttlefish)を観察しながら、心の起源を考えた(『タコの心身問題』原題 Other Minds、2016、続編『メタゾア』2020)。前号の末尾で、生き物の内側もまた集団知性に溢れているのではないか、と書いた。今回と次回は、この問いを二回に分けて、彼の著作とともに深掘ってみたい。そもそも神経系とは、何なのか。

本連載で確認してきたように、単細胞の生き物たちは互いを化学物質で感知し合っている。たとえば、ハワイのダンゴイカに棲む発光細菌で、この分子を感知するほど多く分子を作り、仲間が十分いるときにだけ、いっせいに光る(第2章)。前号の粘菌が集合に使った cAMP も、まさにこの種の「あいだの通信」だった。

ゴッドフリー=スミスによれば、多細胞が生じたのは、分裂したあとの細胞同士が離れそこねたことから始まったという。離れそこねた細胞にとって、「環境」は大部分が他の細胞になる。すると、外の環境を感知するための手段が、そのまま、同胞たちが何を「言って」いるかを感知する手段になったのだ。あいだの通信は、消えたのではない。境界が動いたことで内側の通信に変わったのだ。群れが体になった瞬間である。

もっとも、糊でくっついた細胞の塊が体であるためには、調整が要る。そしてこの調整は、二つの時間尺度で働く。遅い方は、体そのものを作る仕事だ。細胞どうしが信号を送り合って、どこが前でどこが後ろか、どの細胞が何になるかを決めていく(これは植物にもある)。速い方は、できあがった体を動かす仕事である。「ごく一部を除くすべての動物で、いくつかの細胞のあいだの化学的相互作用が、神経系の基盤になる。そしてそのうちのいくつかでは、そうした細胞の塊が集まり、転用された信号の化学電気的な嵐の中で火花を散らして、脳になる」(第2章)。

なぜ化学信号だけでなく、電気信号、つまり神経系も生じたのか。素材となる「ほとんどのシナプスタンパク質は、シナプスの起源より前に進化していた」(Burkhardt, J Exp Biol, 2015)という。神経を構成するニューロン自体も細胞であるが、電位依存性のイオンチャネルは、およそ30億年前の細菌に現れて以来、あらゆる生物にある。現に、神経伝達物質を放出する装置も、受け取る側の足場タンパク質も、動物に最も近い単細胞生物である襟鞭毛虫(Choanoflagellate)が持っている。シナプスを持つ動物だけに限られる分子は、ごくわずかしかない。その代表が接着分子だが、これもあらゆる生物が持つ酵素の親戚で、酵素として働く力を失った代わりに、手を握る役を得たものだという。

シナプスへ至る進化シナリオ。左上の襟鞭毛虫(単細胞、そして群体)の時点で小胞もゴルジ体も揃っており、右下へ進むにつれて部品ではなく細胞どうしの向き合いが変わる。
出典:Göhde R. et al. (2021)「Choanoflagellates and the ancestry of neurosecretory vesicles」Phil. Trans. R. Soc. B 376: 20190759, Figure 4 より。CC BY 4.0

ただ、素材があるだけでは神経系が生じた理由には足りない(タンパク質があることと生命が誕生したことの間に飛躍があるように)。なぜ生まれたのか。長らく自明とされてきた答えは、感覚運動説である。神経系は、感じることと動くことのあいだを橋渡しするために生まれた、という見方だ。外で何かが起きるのを感じて、それに応じて動く。その「感じる」と「動く」を繋ぐものが神経だと。だが、これは行為できることを前提してしまってはいまいか。単細胞の生き物にとって「動く」は一つの出来事だが、細胞の塊にとって、動くことは達成に近いものになる。これは何人もの漕ぎ手が乗った舟に近いものがある。タイミングが揃わなければ、舟はどこへも進まないのである。誰かが「せーの」と掛け声をかける必要がある。神経系はまず、そのためにあったのではないか。これは行為形成説(action-shaping view)と呼ばれる。

ゴッドフリー=スミス自身は、どちらかに与するのではなく、どちらも必要だと考える。舟で掛け声をかける舵手(コックス)は漕がないが、ミクロな行為の協調をとりながら、同時に、舟がどこへ向かっているかを見ている。神経系も内側の協調を見ながら、外側の出来事を感じている。ただし進化史的には「おそらく、ごく最初の神経系は主として行為を協調させるのに役立った。…だが、そのような時代があったとしても、カンブリア紀にはそれは終わっていた」だろう。外敵に応答しないことは捕食されることを意味するようになったからだ。

これは神経系を維持する十分すぎる理由だろう。実際、「ニューロンを動かし維持するには大量のエネルギーが要る。その電気的痙攣を作り出すのは、バッテリーを毎秒何百回も充電しては放電するようなもの」なのだが、行為を組織し、世界に応答すること、そのどちらも生存には欠かせないのである。ニューロンの鳴り止まないおしゃべりは、集合しっぱなしになった群れの、いまも続く会話なのだ。

こうなってくると、むしろ内側と外側を区別できることが不思議に思えてくる。外を「感じる」とは一体どういうことなのだろうか。動く動物には、動くがゆえの課題がある。自らの行為が、感覚する内容を変化させてしまうのだ。『メタゾア』でゴッドフリー=スミスが挙げるのは、テッポウエビの触角である。体長の数倍もある触角は、自分がうろつくだけで、始終なにかにぶつかる。そこでエビは、いま自分がしていることから予期される感覚の変化を割り出し、それを超えたぶんだけを「外で何かが起きたしるし」として拾うのである。自己と世界の境界は、こうした仕分けの結果として、初めて生まれるのだ。私たちの目も同じで、視線を動かしても世界が動いて見えないのは、行為の指令の「写し(efference copy)」を知覚系に送り、自己起因のぶんを差し引いているからである。

つまり、環境を感知するということは、感知している環境の「写し」を内側に持つことなのだ。その「写し」は、自ら動いた場合にどう刺激が変わるかという予測も含まれている。ゴッドフリー=スミスはここに「主観」の萌芽を見ている。自らの行為の結果をシミュレーションできるということだからである。これは正直驚きだ。知覚して応答できるということこそが、主観を持つことなのだとしたら、ミジンコにはミジンコの、植物には植物なりの主観があるということではないだろうか。

さて、人が言語を習得するのも、同じ原理だとしたらどうだろうか。ヴィゴツキーが述べたように、子供は他人との会話という「あいだの通信」を、内言に変えて自らのものにする。ふだん意識しないが、発話は出力であると同時に入力だ。言葉という外界の刺激と同じ発話をすることができるようになると、やがて声に出さなくても、頭の中で文が「聞こえる」。話す指令を組むとき、その指令の「写し(efference copy)」が、かすかな聴覚像を生むからだ。こうして組み上がった内なる文は、耳で聞いた文と同種の処理にさらされる。これがやがて思考の道具となるのは想像に難くない。新しいプラグマティズムの議論を持ち出さずとも、ここまで来れば、われわれが普段「知能」と呼ぶものまでの道のりが一本の線で見えるのではないだろうか。

プロジェクトを知能と捉える観点も、ここから大きくは外れていない。チームが育つとは何だろうか。それは細胞の「あいだの信号」が内部に移ったように、個人の「あいだ」のやり取りが内側になることに他ならない。内側になるということは、外側の信号と区別できるということであり、それはチームとして動いた結果を予測するような環境の「写し」を得ることに他ならず、すなわちチームの「主観」を育てることなのではないだろうか。そしてそれは、喃語の発声と同じように、行為にならない行為を繰り返して結果を見ることで習得されていく「写し(efference copy)」に支えられているはずである。

冒頭のタコの話に至る前に、だいぶ紙面を使ってしまった。ゴッドフリー=スミスが「他なる知性(Other Minds)」と呼ぶように、実はタコの知性は人間のそれとは大きく異なっている。ニューロンの過半数を、脳ではなく八本の腕に置いた動物。次回は、ゴッドフリー=スミスを持ち越して深掘ってみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(32) 頭足類的コミュニケーション

The Rhythm of Intimacy

Kitty Gia Ngân

Making over Form

In the last article, I wrote about relational indeterminacy: what happens to intimacy when the boundary of a relationship is uncertain? In this article, I turn to our relationship with objects through the process of making, asking how making might help us understand the ways relationships are formed, negotiated, and transformed.

In his notebooks, the painter Paul Klee repeatedly emphasised that the processes of genesis and growth through which forms come into being are more important than the forms themselves. “Form is the end, death,” he wrote. “Form-giving is life” (Klee, 1973, p. 269).

This idea is also at the heart of his celebrated Creative Credo of 1920: “Art does not reproduce the visible but makes visible” (Klee, 1961, p. 76). Art, in this sense, is not concerned with reproducing forms that have already been settled, whether as images in the mind or as objects in the world. Instead, it participates in the forces and processes through which forms come into being. A line grows from a point set into motion, just as a plant grows from its seed.

Taking their cue from Klee, Gilles Deleuze and Félix Guattari argue that the fundamental relation in a living world is not between matter and form, but between materials and forces (Deleuze and Guattari, 2004, p. 377). Things come into being through the ways different materials, each with their own properties and tendencies, encounter, mix, and transform one another. Their argument challenges a much older way of understanding how things are made, one that can be traced back to Aristotle. Within Aristotle’s account, to create a thing is to bring together form (morphē) and matter (hulē): form gives shape to matter.

But what happens if we apply this way of thinking to relationships?

If form is not something imposed upon matter but something that emerges through processes of formation, then perhaps a relationship does not need to begin with a predetermined form. We do not necessarily meet one another as friends, lovers, family, or strangers and then simply act according to the shape of those categories. Rather, through repeated encounters, gestures, needs, histories, desires, and circumstances, a relationship takes shape. Its boundaries are not simply discovered; they are continually negotiated. To relate, then, is to participate in a process of form-giving: to respond to what emerges, to follow the possibilities opened by an encounter, and sometimes to allow a relationship to become something for which we do not yet have a name.

Making offers a similar way of understanding our relationship with objects. To make is to bind one's own line of becoming into the flows of materials that comprise the world (Ingold, 2009). The act of making is therefore not simply a matter of arriving at a final form, nor can the object be understood only through the quality or completion of its result. The object is also a process: it emerges through an ongoing encounter between the maker, materials, forces, circumstances, and intentions.

In participating in this process, we do not simply produce objects; we participate in producing the material and immaterial worlds around us (Barad, 2009). What we make, and how we make it, becomes part of the conditions through which other relationships can emerge. Making is therefore not only about giving form to matter. It is also about entering into the processes through which worlds—and our relationships within them—are continually becoming.

親密性のリズム

Kitty Gia Ngân, 八木翔太郎(訳)

かたちより、かたちづくること

前回は、関係の非決定性(relational indeterminacy)について書いた。関係の境界が定まらないとき、親密性には何が起きるのか、と。本稿では、つくるというプロセスを通じて、私たちとモノとの関係に目を向けてみたい。関係はどのように形づくられ、交渉され、変容していくのだろうか。つくることは、その手がかりになるはずだ。

画家パウル・クレーは、そのノートのなかで、形そのものよりも、形が生まれ出る発生と成長のプロセスのほうが重要だと繰り返し強調している。「形は終わりであり、死である」と彼は書いた。「形を与えること(form-giving)こそが、生である」(Klee, 1973, p. 269)。

この考えは、1920年のよく知られた「創造的信条(Creative Credo)」の核心にもある。「芸術は見えるものを再現するのではなく、見えるようにする」(Klee, 1961, p. 76)。この意味で芸術は、すでに定まった形を再現することには関心を持たない。それが頭のなかのイメージであれ、世界のなかのモノであれ、である。芸術はむしろ、形が生まれ出る力とプロセスに参与するのだ。植物が種から育つように、線もまた、動き出した点から育っていく。

クレーに示唆を受けたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、生きた世界における根本的な関係は、質料と形相のあいだにではなく、素材(materials)と力(forces)のあいだにあると論じる(Deleuze and Guattari, 2004, p. 377)。それぞれに固有の性質と傾向をもつさまざまな素材が、出会い、混ざり合い、互いを変容させていく。モノはその仕方を通じて生まれるのである。この議論は、モノがどのようにつくられるかについての、はるかに古い理解に異を唱えている。アリストテレスにまで遡る理解だ。アリストテレスの説明では、何かをつくるとは、形相(morphē)と質料(hulē)を結びつけることであり、形相が質料に形を与えるのである。

では、この考え方を関係に当てはめたら、どうなるだろうか。

形が質料に押しつけられるものではなく、形成のプロセスを通じて現れ出るものだとすれば、関係もまた、あらかじめ決められた形から始まる必要はないのかもしれない。私たちは、友人、恋人、家族、あるいは見知らぬ人として出会い、そのカテゴリーの形に従って振る舞うとは限らない。むしろ関係は、繰り返される出会い、身振り、必要、来歴、欲望、状況を通じて、形をとっていくのだ。その境界は、ただ見出されるものではない。絶えず交渉されるものである。だとすれば、関係するとは、形を与えるプロセスに参与することにほかならない。現れ出るものに応答し、出会いが開いた可能性についていき、ときには、まだ名前のない何かへと関係がなっていくのを許すこと。

つくることは、私たちとモノとの関係もまた、同じように見せてくれる。つくるとは、自らの生成の線(line of becoming)を、世界を成り立たせている素材の流れのなかへと結び込むことである(Ingold, 2009)。だから、つくるという行為は、最終的な形に辿り着くことに尽きるのではない。モノもまた、その出来栄えや完成度だけで理解できるものではない。モノはプロセスでもあるのだ。つくり手、素材、力、状況、そして意図のあいだの、絶え間ない出会いを通じて、モノは現れ出るのである。

このプロセスに参与するとき、私たちはただモノを生み出しているのではない。私たちを取り巻く、物質的・非物質的な世界を生み出すことに参与しているのだ(Barad, 2009)。何をつくり、どのようにつくるのか。それが、別の関係が現れ出るための条件の一部となっていく。つくることは、質料に形を与えることだけではない。世界が、そしてその世界のなかの私たちの関係が、絶えず生成しつづけるそのプロセスへと、入っていくことでもあるのだ。

今月のビデオゲーム

八木翔太郎

ゲームは「選択」でできている

前号では、SimCityにおいてゲームの一部を意識的に「プレイヤーの頭へ荷下ろし(offload)」したウィル・ライトについて取り上げた。それは体験が、ユーザーと機械の間に生じるものであって、「直接デザインできない」ことを示している。この逆説を定式化し、ゲームデザインを学問に仕立てた教科書がケイティ・セイレンとエリック・ジマーマンの『ルールズ・オブ・プレイ』(Rules of Play、2004)である。とはいえ650ページを超える分厚い「教科書」には、どこにもハウツーが無い。それどころか「単一の公式は無い」「単一の解は無い」という言葉が散見される。では面白いゲームの作り方を教えないこのゲームデザインの教科書には、何が書かれているのだろうか。

彼らはまず、ゲームの基本単位を設定している。それは、モノでもキャラクターでもルールでもなく、選択であるという。「ゲームをプレイするとは、選択をし、行為をすることである」(p. 33)。ただし、選択だけでは単位を構成できない。ボタンを押すという選択(行為)が、ジャンプにつながり、そのジャンプが何かを変えるときに初めて意味が生まれる。つまり選択(行為)と結果は、それぞれ単独では意味を持たない原子であり、両者が結合した単位が「分子(molecule)」なのである(p. 63)。水素も酸素も、それだけでは手触りがないが、結合して分子(水)になることではじめて濡れるようになるのと同じだ。選択の分子こそが、意味という性質を持つ最小単位なのである。

さて、この一つの選択は、五つの段階でできているという(pp. 63–65)。①選択の前に、何が起きていたか。②選択の可能性は、どうプレイヤーに見えているか。③プレイヤーはどう選んだか。④その結果、ゲームの中の関係はどう変わり、この先の選択にどう響くか。⑤その結果は、どうプレイヤーに伝えられたか。そして⑤は次の①へと連なっていく。たとえば Asteroids で「撃つ」の一周は、こうなる。岩の位置と残機という内部状態が前提にあり(①)、画面に岩が迫って見え(②)、ボタンが押されて入力が登録され(③)、衝突判定が走って岩が消えスコアが加算され(④)、爆発の絵と音が返ってくる(⑤)。こうした結果が伴った選択が「分子」である。

選択の分子。Salen & Zimmerman, Rules of Play (MIT Press, 2004), pp. 63–65 をもとに筆者作成。

その性質が宿るのは、本書でいうところの意味のあるプレイ(meaningful play)である。選択(行為)と結果の関係が「識別可能(discernible)で、かつゲームというより大きな文脈へと統合(integrated)されている」とき、それは意味を伴っている(p. 34)。識別可能であるためには、自分の行為の結果が知覚でき、また結果がその場で消えず後まで波及することが必要だ。意味のあるプレイとは、要するに、分子が健康であるということなのだ。

つまるところ、この教科書が与えているのは健康診断だ。「もしあなたのゲームが意味のあるプレイを生んでいないなら、分子の連鎖のどこかが壊れている」のである(p. 65)。例えば、どのカードを出しても同じ気がするなら、それは段階④の故障で、選択がゲームの状態を変化させていない。次に何をすべきか分からないなら、段階②の故障で、選択肢が上手く提示されていない。作り方は教えられないが、壊れ方は特定できるというわけだ。

では、分子からゲーム全体へは、どう至るのか。じつは分子の定義そのものに、すでに全体が織り込まれている。選択は全体の文脈の中でなされるのであり、結果は全体へ波及する。そこでゲームデザインはまず、コアメカニック(プレイヤーが繰り返す、分子の型)を設計過程の最初に特定する。そして作っては、遊ぶという「反復設計(iterative design)」を繰り返す。なぜなら「ゲームがどう遊ばれるかを、事前に完全に予測することは不可能だから」だ。曰く、「デザイナーはゲームの可能空間を直接には作れない。ルールを通じて間接的に構築できるだけだ。ゲームデザインは、信念の行為(an act of faith)である。ルールへの、プレイヤーへの、ゲームそのものへの」(p. 67)。

ただ残念なのは、こうした存在論だけではゲームそのものを作りきらないところだ。代わりに本書は18の認識的枠組みを挙げている。ゲームを確率のシステムとして、フィードバックのシステムとして、物語として、文化への抵抗として見る。情報理論、サイバネティクス、記号論、物語論など、よその分野から道具を借りてきて、ゲームに当てると何が見えるかを、一章ずつ実演していく。当時ゲーム研究を二分していた「ゲームは物語か(narratology)否か(ludology)」の論争さえ相対化している。「問いは、ゲームが物語であるかではなく、どのように物語的か、である」(p. 380)と。すべては、意味のあるプレイ(meaningful play)を生むための観点なのである。

選択が意味を生む。これは(私の解釈では)、ニコラス・ルーマンが社会の基本単位に据えたコミュニケーションと似ている。その選択が意味を持つのは選択が「他でもありえた」からだ。その選択の上に、次のコミュニケーションが重なっていくさまは、社会システムを生み出している仕組みさながらである。そう考えると、コアメカニックがゲームの性質を決定し、その操作を反復することでゲーム全体を作り上げていくのは、理に叶っているように思われる。もっとも、本書は明示的に観察者を含める二次サイバネティクスを採用しないと述べており、こうした一致は偶然に過ぎないのかもしれない。

実際、18年後に著者の一人ジマーマンは『The Rules We Break』(2022)という著作で「普遍的な良いデザインの規則など存在しない。デザインがどう働くかについてのいかなる概念も、即興のための出発点にすぎない」と述べており、プレイテストによる反復設計は「批判的なアイデアを薄めて聴衆を宥めること」になりうるし、「修正とバランス調整をやりすぎると、デザインの野生と風変わりさを殺しかねない」。さらには、「快楽を最大化して利益に変える効率的な機械を作るという、資本主義の衝動に加担させられうる」とまで書いている。「というわけで、反復設計よ、くたばれ!」とまで言い放つ彼は、ゲームを定義する試みを放棄し、「ゲームは一つのものではない。多くのものである」とし、デザインそのものを定義し直している。「デザインとは、人間的な感受性を実践する仕方である。プレイテスターに耳を傾けることを学べ。それは、あなたの作者性(authorship)の感覚を、他者を含むものへと拡張する」のだと。これは、前号でこころさんが提案した態度に呼応しているように思われるのは、私だけだろうか。

いやはや、このゲームデザインの教科書は思いのほか、プロジェクトと重なるところがある。チームでプロジェクトの環境を作ろうとしているとき、これは「選択が意味を持つような場」を作っていると言えるかもしれない。そして、その作り方はメンバーや状況への感受性を持って、即興的に実践する必要があるのだ。本書の5つの段階は、その健康状態の診断に使うことができるかもしれない。意味はモノに宿らず、選択に宿る。体験は、プレイを通じて創発するのであって、直接作ることはできない。だからこそ、選択の先に立ち上がるものを感受しながら、プロジェクトが立ち上がるのを待つほかない。ゲームデザインと同様に、信念の行為(act of faith)だといえるだろう。

今回は、ゲームデザインの教科書からゲームデザイナーの世界の見方を覗いてみた。そこで次回は、ゲーム開発の現場について覗いてみたい。どんなプロセスで、どんな課題と格闘しているのだろうか。ジェイソン・シュライアーのルポルタージュ『Blood, Sweat, and Pixels』を開いてみよう。

プロジェクトマネジメントにおけるディスコース

武富拓也

第1回 プロジェクト内でやりとりされる「当たり前」に焦点を当てる

プロジェクトは、様々な状況に埋め込まれており、多様なメンバーの会話や行為が積み重なることで進んでいきます。同じ会社でも、部署が異なれば目的や前提に違いが出ます。さらに他社のベンダーが参加すれば、組織ごとの文化の違いも加わるでしょう。この連載は、プロジェクトを進めるコミュニケーションの中で文化と言葉や行為がどのように絡み合っているのかを、ディスコース分析の方法論を参照しながら探っていく試みです。

ディスコースという言葉の意味は研究分野によって多少異なりますが、一言で言えば「当たり前」を対象にするものです。少し硬く表現すると、次のようになります。社会と言語の関係を扱う社会言語学の分野では、ディスコースは従来の「談話」よりも広い意味で使われています。話す・聞くといったミクロな言語活動から、話し手のあいだで共有される話し方、さらには話し手が所属する地域や組織の価値観といったマクロな世界観までを含みます。加えて、それらが互いのやりとりの中で形づくられていくプロセスも含めて捉えます。

ただ、そこまで硬く考えなくても、ここで扱うディスコースは「どのような『当たり前』がすでにあり、それがどのようなプロセスで作られているのか」という意味で理解していただければ十分です。

プロジェクトの中の「当たり前」は、普段ほとんど意識されません。同じチームでは自然に通じることも、部署や会社の異なるメンバーが加わると、すれ違いの原因になることがあります。一方、うまく進んでいるプロジェクトでは、メンバーそれぞれが持ち込んだ当たり前が日々のコミュニケーションの中ですり合わされ、新しい当たり前へと更新されているのかもしれません。

ディスコースの研究では、こうした当たり前を「そういう文化だから」と固定されたものとして扱いません。その場の力関係や目的、役割といった状況に応じて、コミュニケーションの中で意味が作られていく過程として捉えます。そしてその過程を、言葉だけでなく振る舞いや道具の使い方も含めて見ていきます。

既に世の中にあるプロジェクトマネジメントの理論やフレームワークは強力なツールですが、現場に埋め込まれた当たり前は、一般化された知見からこぼれ落ちやすいものです。本連載では、プロジェクトマネジメントのディスコースを探ることを通じて、日々のプロジェクトの中で知識をどのように使っていくのか、その手がかりを考えていければと思います。

流動のなかのプロジェクト

賀川こころ

第8回 納得はどこで起こるのか

初心者がスノーケリングを始めるときの最初の小さな関門は、力を抜くことだ。人体は自然と浮かぶようにできているものの、それはリラックスして体重を分散させているときの話で、力が入れば入った場所から身体は沈んでゆく。けれどわたしが誰かにスノーケリングを教えるとき、身体が強張っている人に対して「力を抜いてください」と言うことはあまりない。「力を抜く」という行為そのものを人に教えることは難しい。代わりに「息を吐いてください」と声をかけることが多い。人間の身体から力が抜けるのは、息を吐くときだからだ。力を抜くという結果を直接求めるのではなく、力が抜けるための条件をつくる。

水に入ることに慣れていない人は、呼吸のたびに身体を起こそうとしたり、フィンを必要以上に動かしたりする。本人は力んでいるつもりなどない。ただ身体の側が、水に自分を預けることをまだ許していない。もちろん理論を先に言葉で説明することはできる。けれど、頭でなにかを理解したからといって、身体がただちに同意してくれるとは限らない。ゆっくり息を吐く。身体から余分な力が抜ける。力を抜いたままでもちゃんと浮いていられることを知る。そういう小さな経験を重ねているうちに、少しずつ身体の振る舞いが変わっていく。納得というものは、頭の中だけで起こるものではないのだろう。

わたし自身、スキンダイビングで水深15メートルの壁をなかなか越えられなかった時期がある。数字だけで見ればあと僅かなのに、そこから先へ身体がなかなか進まなかった。あるとき、水中スクーターを使って潜ってみた。フィンキックをしなくても進むので酸素効率がよく、長く息がもつ。気づいたら15メートルを越えて潜っていた。生身の身体で初めて潜る深さだった。

するとそれ以降、なぜか自力でも15メートルを越えて潜れるようになった。身体能力が突然向上したわけではない。肺活量や潜水技術がその一回で劇的に変わったわけでもない。たぶん身体の側が、「この水深はいける」と納得したのだと思う。それまで15メートルは身体にとっては未知の領域であり、未知である以上、どこかで警戒していたのだろう。一度そこへ行き、そこで自分が存在できることを経験したことで、15メートルという水深についての身体の理解が更新された。理解したから行けたのではない。行ったことで、世界についての理解が変わったのだ。

Project Sprintでは、理解は行動によって更新されると考える。これは知識の話だけではないように思う。納得もまた、行動によって更新される。複雑で不確実な状況では、なにが正しいかをあらかじめ知ることはできない。それでも、わたしたちはどこかで判断し、次の一手を選ばなければならない。そのとき支えになるのは、絶対的な正しさではなく、いま自分が持っている情報や経験をもとに「これでいこう」と思えるだけの根拠なのだろう。もちろん、その判断が正しかったかどうかは、行動してみなければ分からない。実際に動いてみて、その経験をもとにまた次の判断をする。水深15メートルに一度潜ったことで「この水深はいける」と身体が知ったように、プロジェクトのなかでも、行動することで初めて得られる根拠がある。納得とは、行動する前に完成しているものではない。いま持っている根拠をもとに一度その判断を引き受け、行動し、そこで得た経験によってまた更新されていくものなのだと思う。

第7回で、結果は制御できなくても、その瞬間に応答できる自分であるための準備はできると書いた。では、その準備とはなんだろう。未来に起こりうる出来事をすべて予測し、正しい対応方法をあらかじめ覚えておくことではない。海ではそんなことはできない。どれだけ経験を積んだとしても海は安全ではないし、想定していなかったことは起こる。風も波も、生きものの動きも、刻々と変わる。準備とは、未来の正解を持っておくことではなく、未知の未来に対して自分は応答できるという納得を育てることなのかもしれない。必要なのは、なにかが起きたときにそれに気づくことができ、その場で自分の振る舞いを変えられるという、自分の応答可能性に対する納得なのだろう。

Project Sprint の Principles には、「正しさよりも納得を」という言葉がある。一般に納得というと、理由や事情を受け入れて自分の中で腑に落ちている状態を指すのだろう。けれど Project Sprint における「納得」はもう一歩踏み込んで、自分で次の一手を引き受けられる状態までを含んでいる。誰かが示した正解を理解していても、自分でその一歩を踏み出せなければプロジェクトは動かない。逆に、完全な正解が分からなくても、「いま分かっている範囲でこれを試してみよう」と引き受けることができれば、そこから世界との応答が始まり、その応答によって納得もまた更新されていく。

スノーケリングの講習で、最初はフロートを強く握っていた人が、いつの間にか手を離して泳いでいることがある。海が突然安全になったわけではない。人間の身体が浮くという物理法則が、その瞬間に変わったわけでもない。変わったのは、その人と海との関係だ。納得というものもまた、人の内側だけで完結するものではなく、世界とのやりとりのなかで立ち上がるものなのかもしれない。力を抜くとは、なにもしないことではない。世界を制御しようとする力をすこし緩めて、そのぶん世界から返ってくるものを受け取れるようになることなのかもしれない。納得とは、世界が思い通りになると信じることではない。思い通りにならない世界とやりとりを重ねながら、自分の可動域を更新してゆくことなのだと思う。

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Editor's Note

八木翔太郎

Editor’s Noteは日本語では「編集後記」といいますが、いつもこれを書くのが記事が出揃うのとほぼ同時なので、おのずと後記というよりかは独り言コーナーのようになってきています。毎月、いまの気持ちを定点観測している気分なのですが、今回もどうもモヤモヤした感情があるようです。良いのか悪いのか、もの申したいことがあるのは良いことなのかもしれないですね。

最近思うのは、コミュニケーションって何だろうという素朴な疑問です。もちろん、人と人との会話であれば、それは間違いなくコミュニケーションなのですね。では、例えば機械と機械の間の通信は?これは単なる電気信号のやり取りに過ぎず、コンピューターの回路に電気が巡ることをコミュニケーションと呼ばないのと同様なのだと考えられます。では、人と機械のやり取りは?例えばボイジャー1号とNASAエンジニアの約244億km隔てたやり取りは、コミュニケーションと呼べるのか否か。

真面目に答えるのも良いですが、私は個人的には学会や査読でいろんな反論を受けたり、先行研究があらぬ方向に脱線しているのを見たりして、どうもやり切れない気持ちになってしまいました。機械とのやり取りをルーマン自身があまり取り扱わなかったせいでもあるのですが、それ以上に、「西洋的な」コミュニケーションに対する思い込みがいかに根深いのか思い知らされた局面だったように感じるからです。

ふつう、コミュニケーションというと、分別ある主体が相互にやり取りしている状況を思い浮かべると思います。あなたがこう言ったと、私は理解をする。いわゆる言葉のキャッチボールというものです。ですが、例えばウソを言われたら、コミュニケーションそのものが危うくなってしまいます。でたらめのコミュニケーションに、どんな意味があるというのでしょう?そこで、発言されたことは責任を伴うようになるわけです。その責任を担える範囲で発言する権利が与えられる。かくして、コミュニケーションは責任論をも生み出す仕組みであると。

例えば、ロバート・ブランダムの「理由を与え求める言語ゲーム」はまさにこの規範的な側面を説明していて、かくいう私もどっぷりでした。ただ、最近はこうした構造にどうしても疑念を抱いてしまいます。綺麗で完全なこうした構造を、マリー・トンプソンにならって「白さ(whiteness)」と呼ぶのだとしたら、なんかとても「白い(white)」気がする。そもそも数に入っていないものを「黒さ(blackness)」と呼ぶのだとしたら、このコミュニケーション観が無いことにしてきた「黒い(black)」ものは無いのだろうかと思ってしまうわけです。

実際に、赤ちゃんが話す喃語は、責任を負わされるようなものではありません。内言を獲得する際の自己中心的発話でさえ、大人は微笑んで聞いています。赤ちゃんがマネをして獲得する発話は、動物が動いて獲得する行為と相似関係ではないのか。前者はコミュニケーションに、後者は世界との応答関係に、それぞれ発達するわけですが、その仕組みは同じものなわけです。そうならば、コミュニケーションは責任ある人間だけのものだと言い切れる根拠はどこにあるのでしょうか。そもそも「責任」という概念は条件などではなく、後付けで作られた概念なのではないでしょうか。

アフリカの村では、宛先を決めずに投げるだけの発話という様式があります。投擲的発話と呼ばれるもので、ボナンゴはその一つです。夕方、村の広場とかで、いきなり大声でおじさんが話し始めます。誰にともなくです。声が聞こえている人は、それに応じても良いし、そのまま生活を続けても良い。ちなみに大きい声は200〜300メートル先まで届き、30分続くこともあるそうです。応答を期待しないが、開かれている発話。木村大治によれば、話し手は宛先についての責任を、聞き手は聞くことについての責任を、どちらも免除されています。逆に、バカ・ピグミーの会話は発話が重なります。木村はそれを割り込みとは呼びません。話すのをやめる人を一度も見なかったからで、まるで歌と踊りのポリフォニーのようです。ここにもターンテイキングといった規範も責任もないようなあり方を見てとることができます。われわれが前提にしていくコミュニケーションは一形態に過ぎないことに気付かされる瞬間です。

まずサインの前にシグナルがあります。音を聞いて、何かが「発されている」なという環境注意は、どの生物も持っています。そして、その背景には、何もが分かちがたく関係しあっているこの世界があるのではないでしょうか。例えば、ヒヒの相互行為を観察をしている研究者は、できるだけ中立に、岩のようにそこに居るよう助言されていました。ですがヒヒたちはその岩ぶりに感心せず、視線を無視されるほど不満そうだったといいます。皮肉なことに、ヒヒのやり取りを観察するために、人間の方がコミュニケーションをする必要があった訳です。このバーバラ・スマッツの体験談を紹介しながら、ハラウェイは「私たちは、ほとんど理解していないコミュニケーションの行為において、互いを訓練し合っている。私たちは、構成的に、伴侶種である。私たちは、互いの生身をかたちづくっているわけだ。」と述べます。コミュニケーションにおいて、「白さ」より「黒さ」が根本的です。ものは常に音を立てているのだとしたら、聴き耳を立てることからコミュニケーションは始まるのではないでしょうか。