The Project Theory Probe Journal

Issue 31
Aug. 31 2026

知能としてのプロジェクトを見い出したい

八木翔太郎

第7回 多が一になるとき生まれるもの

前号では、真正粘菌(Physarum)という脳も中心もない一個の細胞が、迷路を解き、記憶し、学ぶさまを眺めた。しかし真正粘菌は「一でありながら多」。切れば二つになり、近づければまた一つに戻る、ひとつづきの体だ。もしそうならば、彼らが見せた知性は特別な生き物の特別な生態に過ぎないのだろうか。細胞性粘菌(Dictyostelium discoideum)はそんな懸念を払拭するのにうってつけだ。彼らは、ばらばらに暮らす別々の個体だが、ときに集まって一つの体になるのである。さらにはなんと、一つになった集団が、どの個体にもできなかったことをしはじめる。今号ではその様子を、前号に引き続き、生きた実例(in vivo)として確認してみよう。

細胞性粘菌は、ふだんは土の中で一個ずつのアメーバとして暮らしている。バクテリアを食べ、分裂し、それぞれが自分の生を生きている。ところが餌が尽きて飢えると、ばらばらだった何万もの細胞が集まって、スラッグ(ナメクジのような一つの体)になり移動し、やがて子実体(いわゆるキノコのような構造体)になるのだ。細い柄が立ち、その先に、丈夫な胞子の塊がのる。もともとアメーバだった個体が合体するのである。

バラバラの細胞(左)が川のように合流し(中央)、集合体になる(右)。
De Palo, Yi & Endres (2017) PLOS Biology 15(4): e1002602 より(Fig 3A を切り出し)。CC BY 4.0。

どうしてこんなことが可能なのか。なんと、このプロセスに司令塔は必要ない。飢えた細胞はcAMPという化学物質を拍のように放つのだが、そのcAMPの密度が十分に高まると、細胞たちは確率的に脈を連鎖させ、互いを励起させ、やがて集団を貫く波になる。そして、その波の中心へ引き寄せられる形で細胞は集まっていくのである(Gregor et al., 2010)。バラバラだった個体が、共有された媒体(cAMP)を通じて連鎖し、確率的に秩序が立ち上がるのである。

こうして一つになった集団(スラッグ)は地表へ出るために光を感じて向かっていく。ここで注目に値するのは、個体のときには光に向かう能力を持たない(光走性を示さない)という点だ(Genettais et al., 2025)。光へ進んでいたスラッグをばらばらにほどいて取り出した細胞さえも、光には一切向かわない。さらには、細胞を高い密度で並べてもなお光走性は生まれない。スラッグという「自己組織化した」集団になったときだけ、はじめて立ち上がる能力なのである。そして興味深いことに、この能力が参加する細胞の数に比例する。細胞が二千個ほどより少ないスラッグは光へ向かう気配がないが、それを超えると徐々に光へ向かうようになっていく。

移動軌跡:スラッグ(左)は光源へ向かうが、単独の細胞(中央)や、スラッグを解体して取り出した細胞(右)は光へ向かわない。
Genettais et al. (2025) PLOS ONE 20(5): e0321614, Fig 2 より。CC BY 4.0。

一度立ち止まって、この奇妙さを噛みしめたい。光を感じて進む能力は、どの細胞も持っていない。にもかかわらず、細胞が十分に集まって組織を作ると、その能力がどこからともなく現れる。前号の真正粘菌が「脳のない知性」だったとすれば、こちらは「担い手のいない知性」に近しいものがあるだろう。この不思議な現象について、光走性のメカニズムそのものは未だ論争中だが、有力な見立て(Bonner et al., 1988)によると、アンモニアが関わっている。光が当たると細胞はアンモニアを出す。一個の細胞が出すひと吹きはたちまち拡散して消える(揮発性があるため)が、多くの細胞が寄り集まって同時に出すと個々のひと吹きが消えずに残る。細胞たちはその勾配分布を手がかりに進んでいくのである。アンモニアの勾配は集団的に吹き出すからこそ生じるのであり、単体では現れない。それが光走性という能力が集団と共に創発されるカラクリだ。

現れるか現れないかギリギリの瀬戸際にある現象。これはイリヤ・プリゴジンの自己組織化の議論を思い出す。実際に、集合していく細胞たちの状態が、物理でいう臨界点、つまり水が氷になるような相転移の瀬戸際に似た状態にあることが示されている(De Palo et al., 2017)。有機体がこうした状態を有している理由については、過去にブライアン・グッドウィンとメイワン・ホーの研究で触れた通りだ。臨界の状態は共有されているがゆえに、各細胞は隣と直接やりとりするだけで、その効果は遠くまで「ただで(for free)」集団全体を貫いて伝わるのだ。

こうした状態伝播は、水のさざなみとは似て非なる。動きに「反応」して水面が波立つ現象は皿が大きくなっても強さが変わらないのに対して、「応答」を連鎖させる粘菌では数が増えるほどに増幅されて強い現象となるのだ。理論的にも、一つの細胞には検出できないほど微かな勾配すら、集団としてなら感じ取れることが示されている(Varennes et al., 2016)。現に、細胞性粘菌は酸素の濃い方向に向かう性質があるが、集団であるほどにこの勾配を敏感に感じ取って進むことができるのである(Cochet-Escartin et al., 2021)。これは集団知性の生じる1つのヒントなのではないだろうか。

本連載は、第3回で菌類を紹介した際にもこうした「担い手のいない知性」というテーゼに突き当たっている。しかし、菌糸は融合していて一本ずつ「取り出せない」。だからシェルドレイクは、知性や記憶の基盤は「特定できない」のであり、自分はそれを「意図的に語らない」と述べ、答えを留保していた。だが、細胞性粘菌を訪れたいま、われわれはもう一歩踏み込めて問いを深めることができるかもしれない。担い手がいないのは、担い手となる存在が変幻自在だからではない。個々の細胞との「間に」あるからではないだろうか。

脳のない生きものに知性や記憶を認めるとき、大切なのはそれを正しい水準に置くことだ(Sims, 2025)。粘菌の光走性は、一つの細胞の水準にはなく、集団という水準にある。担い手は、個体ではなく「関係」のほうにあるのだ。それは自ら生み出すものによって媒介されている(=スティグマジー)。cAMPであれ、アンモニアであれ、酸素であれ。自ら生み出す(あるいは消費する)ものによって結びつき、感覚をより鋭く、応答をより強くしている。前号の問いに答えるならば、集団になることがもたらすのは、その間に生じる「関係」そのものであり、それが拡張する応答可能性なのではないだろうか。

こうした理解は、プロジェクトの現場にもそのまま当てはまるだろう。知性は必ずしもメンバーが担っているとは限らない。どの個人も持たないような知覚や判断が、チームに宿るということが、あり得るのではないだろうか。メンバーとメンバーのあいだに立ち上がり、互いに応答し合うほどに育つ能力。その応答は自らが生み出したものによって媒介されている(私たちにとっての「アンモニア」や「脈拍」が何なのか、考えてみると面白いだろう)。「誰のものでもない知性」が立ち上がるのを見つけ、媒介するものを自ら生み出し、育てることこそが、プロジェクトの妙技なのかもしれない。

さて本連載ではバクテリアから菌類から粘菌まで、小さな原始的な生き物を辿ってきた。しかし、例えば私たちの免疫細胞(好中球)も傷口に群がるとき自ら作った化学物質の勾配を頼りに集まるのであって、これは粘菌の集団性と良く似ている(Strickland et al., 2026)。つまり、生き物の内側も、見方を変えれば「集団知性」に溢れているのではないか。この個と集団の境界を絶妙に崩してくる動物が存在する。蛸(タコ)である。次回は、Peter Godfrey-Smithの著作を紹介しながら、異なる知性のあり方を探ってみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(31) コミュニケーション

The Rhythm of Intimacy

Kitty Gia Ngân

Agents of Fidelity

Recently my friend and his lover put their relationship on a pause. When he asked whether they could remain friends, she replied, "I can't be your friend because I love you."

But is this a misnomer? Should it instead be: "I don't love you enough to be your friend because I want to prioritise my desires rather than contemplating other possibilities of being together"? Why is love separated from friendship, and rendered above it? How are they different?

In the last journal, I wrote about the loss of time in relationship: how we turned relationships into spatialised linearities, treating them as stable, bounded categories that persist across time, rather than as processes that continually unfold and transform. This temporal flattening relies on contemporary concepts such as intentionality, fidelity, and agency. We assume that an interaction must have an identifiable meaning originating in an individual's intention. It is either a friendship or a romance, and how it is categorised is based on the presence or absence of physical touch and romantic intentions. Romance is now elevated as above friendship, where sex is read as deeper (Foucault), because it's the one where the notion of a "real person" is thought to appear. I have commented about concept of having "a real you" and the narrowing down of touch elsewhere, in this article, I will talk about another factor: intentions.

The rhythm of intention

The existence of intentions implies there is agency, and agency is not a neutral concept to begin with. Despret (2013), drawing on Susan Crane, points out that the conventional definition of agency is embedded in a humanist and Christian lineage of human exceptionalism. What makes something an agent is the possession of subjective experience and autonomous intention: "A capacity for agency — for desiring, for forming intentions, and for acting creatively — is inherent in all humans" (Sewell, 1992; p. 20). The non-humans are not included. And as Braidotti futher noted, "We are all humans, but some of us are just more mortal than others" (Braidotti 2013, p.15): People of colours, the colonised, the (neuro)divergents and disabled have been made "less than human" because they supposedly lack "agency", "autonomy", "self-control", and don't think from a place of self-bounded individuality. These bodies were thus rendered disposable.

Colonial projects frame domination into the language of care: to govern was to protect the lesser people, to colonise was to civilise them, and to intervene was to educate. This language leaves remnants in the projects of contemporary love and romance, where jealousy becomes signs of attraction, possessiveness becomes romantic, and ownership (marriage) becomes the quintessential of union.


The White Men's Burden propaganda.

What's more, the concept of an autonomous and intentional agent has only been around for a short time in the span of (Eurocentric) civilisation. In Immaterial Bodies, Blackman (2012) traced the genealogy of the bounded, autonomous subject, pointing out that the dominant understanding of the subject in the 19th century was deemed porous and suggestible; leading to what William James famously called "the one and the many", he asked: How does a subject hang together as one yet many?!

It was from the emergence of Crowd and Mass Psychology (notably Le Bon, Tarde, and Moscovici in the 1980s) that being suggestible was reframed as abnormal, dangerous, and pathological. This porousness provoked fear, heightened in moments of mass protest, where people banded together and appeared to behave "abnormally." The conscious, bounded, rational agent is thus a historically recent and contingent construction, embedding with it concepts such as willpower, inhibition, and habit, as a defence against the porousness of the subject.

In her landmark book, All About Love, bell hooks wrote that love is not simply a feeling but a choice. The contemporary emphasis on psychological choice, and the concern with (in)fidelity, with deciphering whether a relationship is love or friendship continues to elate unexamined notions of intentions, agency, and bounded relational categories. With it, the spatial visualisation of romantic progress (seeing → dating → marrying → reproducing) and division in relational categories. The anxiety around the intimacy (emotional, physical, spiritual) outside of one romantic partner reveals our discomfort with relational indeterminacy, while containing the legacy (tools and language) of the colonial projects. Bequeathed within this anxiety is the agent of (in)fidelity: the individual is made responsible for normalising every relationship and policing the intimacy that might exceed them.

If our subjectivity is more porous than we currently suppose, how would we reframe relationships? How else could relationships be if we pour attention into intimacy and qualitative states of relationships rather than its categorical rules?

親密性のリズム

Kitty Gia Ngân, 八木翔太郎(訳)

何が貞節をつくるのか

最近、友人とその恋人が、関係をいったん休止することにした。彼が「友だちのままでいられないか」と尋ねると、彼女はこう答えたという。「あなたを愛しているから、友だちにはなれない」。

だが、これは呼び名を取り違えているのではないか。むしろ先の発言は「一緒にいる別の可能性を考えるより、自分の欲望を優先したいから、あなたと友だちになれるほどには、あなたを愛していない」と、こう表現されるべきではないのか。なぜ愛は友情から切り離され、その上に位置づけられるのだろうのか。愛と友情はどう違うのだろうか。

前号で、私は人間関係における時間の喪失(脱魔術化)について書いた。私たちが人間関係を空間化された線形性へと変えてしまったさま——つまり、関係を、絶えず展開し変容するプロセスとしてではなく、時間を越えて持続する安定した境界づけられたカテゴリーとして扱うようになったさまを。この時間の平坦化は、意図、貞節、エージェンシー(主体)といった現代の概念群によって支えられている。私たちは交流には、個人の意図による特定可能な意味があるはずだと思い込んでいる。それは友情か恋愛のいずれかであり、そのどちらに分類されるかは、身体的な接触と恋愛的な意図があるかないかで決まる。恋愛は、いまや友情の上に位置づけられている。そこでセックスが(フーコーの言うように)より深いものとして認識されるのは、それが「本来の自己」という観念の現れる場所だと考えられているからだ。私は過去にも「本来の自己」という概念の問題と、「触れること」が狭められてきたことについて触れたが、本稿では、もう一つの要素、すなわち「意図」について語りたい。

意図のリズム

意図の存在はエージェンシー(主体性)があることを示唆するが、そもそもエージェンシーは中立的な概念ではない。ヴァンシアンヌ・デプレ(Despret 2013)はスーザン・クレインを引きながら、いわゆるエージェンシーの定義が、人間例外主義にあたるヒューマニズムとキリスト教の系譜に埋め込まれていることを指摘している。なにかをエージェントたらしめるのは、主観的な経験と自律的な意図を有しているかどうかであり、「エージェンシーのキャパシティ——欲望し、意図を形成し、創造的に行為するキャパシティ——は、すべての人間に本来備わっている」(Sewell 1992, p. 20)。ここには非人間は含まれていない。さらにロージ・ブライドッティが「私たちはみな人間である。だが一部の者は、他の者よりもっと死すべき者なのだ」(Braidotti 2013, p. 15)と述べたように、いわゆる有色人種、被植民者、(神経)多様性や障害のある人々は、「エージェンシー」「自律性」「自己コントロール」を欠き、自己に境界をもつ個人であるという立場から思考できない、とみなされたがゆえに「人間未満」に貶められてきた。これらの身体は、かくして使い捨て可能なものとされたのである。

植民地主義の企ては、支配をケアとして語る。統治することは弱い者を保護することであり、植民地化することは彼らを文明化することであり、介入することは教育することである、と。そして、こうした語法は現代の愛と恋愛にも影を落としている。嫉妬が惹かれていることのしるしとなり、独占欲が恋愛的なものとなり、所有(結婚)が典型的な結合をなす、といったように。

さらに言えば、自律的で意図的なエージェントという概念は、(欧州中心的な)文明の長い歴史の中で、まだごくわずかな期間しか存在していない。『Immaterial Bodies(非物質的身体)』(2012)でブラックマンは、境界づけられた自律的主体の系譜をたどり、19世紀に支配的だった主体の理解は、むしろ多孔的(porous)で暗示にかかりやすい(suggestible)ものとみなされていたと指摘する。同時代のウィリアム・ジェームズの有名な「一と多」の問い、すなわち「主体はいかにして、多でありながら一としてまとまっているのか?!」は、そうした理解から生じたものであった。

群衆・大衆心理学(とりわけ1980年代のル・ボン、タルド、モスコヴィシ)の登場によって、被暗示性は、異常で危険で病的なものとして再定義された。そして多孔性(porousness)は恐怖を呼び起こした。その恐怖は、人々が集まって「異常に」振る舞うように見える大衆デモの際に、とりわけ高まったのである。意識的で、境界づけられていて、合理的なエージェントは、このように歴史的にはごく最近になって偶発的に構築された観念なのであり、主体の多孔性に対する防御として、意志の力、抑制、習慣といった概念を自らのうちに作り込んでいるのである。

彼女の金字塔的な著作である『オール・アバウト・ラブ 愛をめぐる13の試論』において、ベル・フックスは、愛は単なる感情ではなく選択であると書いた。このように愛を選択の問題として強調する現代の風潮、(不)貞といった問題、人間関係を愛か友情かで読み解くこと。これらは意図、エージェンシー、境界づけられた関係のカテゴリーといった、十分に検討されていない観念を押し上げ続けている。それには、恋愛の進展の空間的な視覚化(出会う → 付き合う → 結婚する → 子をもうける)と、人間関係のカテゴリーの分割も伴っている。ただ一人の恋愛パートナーの外側で誰かと親密になること、それが感情的なものであれ、身体的なものであれ、精神的なものであれ、そのことへの不安が露わにしているのは、関係の非決定性に対する私たちの居心地悪さである。そしてこの不安は同時に、植民地主義的な企ての遺産(道具と語彙)を抱え込んでもいる。この不安のうちに受け継がれているのが、(不)貞をつくり出すエージェントである。それは個人に、あらゆる人間関係を規範化(一般化)し、そこからはみ出しかねない親密性を取り締まる責務を負わせるのだ。

もし私たちの主体性(subjectivity)が、いま考えられいるよりも多孔的(porous)なものだとしたら、私たちは関係をどう枠づけ直せるだろうか。分類的なルールよりも、親密性と関係の質的な状態に着目するなら、関係性は、ほかにどのような形でありえるだろうか。

プロジェクトマネージャーに「体」は必要か?

長谷部かな

第6回 「体を感じる」モデルで、「できない」を解体する

これまで、体に目を向けることの話をしてきた。ここで、「どんないいことがあるか」を書く前に、「どんなよくないことが起こりうるか」を書いてみたい。

体に目を向けるとは、「なかったものを足す」ことではない

第1回から書いてきた通り、体は常に信号を受け取り続けている。意識していなかっただけで、体はずっと感じていた。だから、意識を向け始めると、自然と感じられるようになってくる。新しい感覚が生まれるのではなく、もともと背景にあったものが「前景化してくる」ということだ。

一度始まると、元には戻らない

そして、一度感じられるようになると、その感度はじわじわと上がってくる。その結果、今まで背景化していたものが、前景化してくる。「なんかおかしい」「これは違う」「居心地が悪い」——今まで流せていたことが、だんだん流せなくなっていく。体が感じていることが、無視できなくなってくる。これは、副作用と言えば副作用だ。でも、それは身体に正直になってきた証でもある。

まず、肯定する

だからこそ、同時にやらなければならないことがある。それは、感じていることを受け入れる、肯定することだ。「感じていること」があることに気付かずに、無視して「こうあるべき」という形を押し付け続けると、思考と身体のバランスが崩れる。

お腹が痛いなら、お腹が痛い。頭が痛いなら、頭が痛い。やる気が出ないなら、やる気が出ない。がんばれないなら、がんばれない。

まず、体が感じていることがある。その前提でやり方を変えるのが、前回紹介したチューニングだ。

しかし、「感じていること」に気付かない例も案外ある。

  • もっと夜の時間を有意義に使いたいけど、ついダラダラしてしまう
  • 本を読む時間を取りたいと思いながら、気付けばもう2年ぐらい経っている
  • いつも締め切りギリギリになる。やることを整理して、もっと計画的に仕事を進めたい
  • いつも先のことを考えられてなくて怒られる。段取りがニガテ

こうした、なんとなく「やったほうがいいこと」。うっすら、頭の片隅にへばりついていないだろうか?

「できない」を解体してみる

「やりたい」と考えているが、「やっていない」「できていない」。これはどういうことかと言うと、つまり「頭ではやりたいと思っている。でも、体は動いていない」ということだ。

第4回で紹介した「体を感じる」モデルで整理してみる。

A:肉体 → B:体の声「頭が痛い」、A:肉体 → C:思考「仕事にいかなきゃ」、両者がチューニングを経てD:行動「仕事に行く」へ

前述の例は、つまり「C:思考」ではこうなっているということだ。

  • 「夜の時間は有意義に使ったほうがいい」
  • 「本を読んで学んだほうがいい」
  • 「締め切りには余裕を持って終わらせたほうがいい」
  • 「計画的に、段取りよく進めたほうがいい」

でも、思考ではそう考えているからといって、体も同じ方向を向いているとは限らない。これらの考えに対して、Bの身体の声が「NO!」と言っていることもある。もちろん、NOの理由には様々あるだろう。だからこそ、そのNOを、ただの「やりたくない」で終わらせずに、情報として耳を傾ける。

そして、ここで大事なのは、「できない」を「意志が弱い」「能力がない」で終わらせないことだ。

BとCを分けてみる

実際にやってみよう。頭に「やりたいけどできていないこと」を思い浮かべてほしい。私たちは一度に取り組めることが限られている。そこで、考えてみてほしい。

一般的にはあったほうが良いものだとしても

  • ①それは、本当に自分に必要か?
  • ②それは「今の自分」に必要か?
  • ③最優先で必要か??

どうだろうか?おそらく「あったほうがいいけど、困らない」種類のものではないだろうか。

もしそうなら、手放すことを考えてみてほしい。「やらなきゃ」と思い続けていること自体が、自分へのダメ出しになっているからだ。

例えば「資格試験の勉強をしたい」と思い、できないまま2年経ったとする。つまりそれは、「お前はそれをやる力がない」と、自分で自分に2年間も言い聞かせているということだ。悲しすぎる。

それでも「やっぱりやりたい」「これは必要だ」と思うなら、やろうと思ってもできないのは、たぶんやり方が合っていない。体のエネルギーの流れと、やり方が噛み合っていない。

一番エネルギー効率がいいのは、やりたいと思ったタイミングで、やりたいことをスッと前に出してやること。エネルギーを止めたり、絞ったり、無理やり曲げたりしない。なるべく。健やかに放出する。そのために、やり方を工夫する。やりたくないまま、無理やり身体を動かすことほど、燃費の悪い、非効率なことはない。またいつか、必要になったときに思い出せば良い。心配なら手帳やリマインダー、カレンダーに書いておいても良い。あなたが忘れていても、本当に必要なら体が思い出すはずだ。

一方で、「いや、これは必要だ。今やったほうがいい」というものもあるだろう。そのときは、自分の身体が動けるようにやり方を工夫しよう。ここでもう一度チューニングが始まる。

これは、他者(チーム)にも使える

これは、自分だけではなく他者にも使える方法だ。プロマネとして、ToDoのリマインドをしたことがあるはずだ。何回言っても進まないタスク、お互いにイライラするし、言われる側はだんだん距離を取りはじめて、プロジェクトから気持ちが離れていく。メンバーの主体性を引き出したいという話もよく聞く。でも、ToDoをリマインドされる、ということは「あなたできてませんよ」と、自分の無力さや無能さを突きつけられることだ。これでは、自分の力が信じられなくなり、主体性はますます引っ込んでしまうだろう。

だからやり方を工夫してほしい。

まず、本当にいま必要か、考えること。

B:体の声を聞いてみる。

  • 「何やるかイメージ、思い浮かんでる?」
  • 「なんとなく気が重い?」
  • 「今は忘れたい?」

どんな返答も大事な情報だ。それでも「やらなければ」と思うなら「では、どうするとできそうか?」とチューニングが始める。どこからならできるのか、どんな助けがあればできるのか。

頭ごなしに命令して、やり方を押し付けて、気分よく従う人はいない。身体が気分よく動けるように、自分たちで自分たちのコンディションを整える。それが、ものごとを前に進める、ということではないだろうか。

体があるPMは、何ができるか

ここまで5回書いてきた。「プロジェクトマネージャーに体は必要か?」という問いに、そろそろ答えてもいいかもしれない。

体があるPMは、「できない」を解体できる。

B:身体の声と、C:思考を分けて、それぞれが何と言っているのかを聞く。自分に対しても、チームのメンバーに対しても。「なぜ進まないのか」を問い詰めるのではなく、「体が何と言っているのか」を聞き、そこからチューニングを始める。「できない」が「どうやるとできるか」に変わる。

体に目を向け、体と折り合いをつける。その実践が積み重なると、「できない」の正体が見えるようになってくる。自分もチームも、エネルギーが健やかに流れるようになっていく。一朝一夕ではない。でも、不可逆な変化が、じわじわと進んでいく。

あなたの体のエネルギーは、健やかに巡っていますか?

今月のビデオゲーム

八木翔太郎

街はアナロジー(喩え)でできている
〜デジタルなアナログ〜

区画を塗り、道を引く。しばらく待つと、家が建ち、車が流れ、街がひとりでに息づきはじめる。SimCity(1989)に初めて触れたプレイヤーは、手品のような悦びを覚えたという。ところが、流れる車の一台をよく目で追ってみると、奇妙なことに気づく。その車は、途中でふっと途切れて、消える。渋滞の流れは生き生きと続いているのに、一台の車は、どこにも辿り着かない。街は確かに生きている。だが、その「生きている」は、いったいどこにあるのだろうか。

Micropolis(オープンソース版 SimCity)より。原作: Will Wright / Maxis、Unix 移植: Don Hopkins / DUX Software、Web 版: Don Hopkins(micropolisweb.com)。GPL v3。

プレイヤーが街を作ることを可能としたSimCityは、前号コスターがゲームがプレイヤーを作り変えると言ったのと、ちょうど逆に位置しているように見える。このゲームを作ったウィル・ライト自身は書籍を残していないが、かつてEAでライト本人に弟子入りした元開発者の研究者チャイム・ギンゴールドの『Building SimCity』(2024)を借りて、この画期的な哲学に触れてみよう。

本書はSimCityをその歴史とソースコードの両面から精密に読み解く。ギンゴールドが立てる問いは「どうやって世界を機械に入れられるのか」だ。ここで言う機械とは、歯車や電子回路のことではなくコンピューターのことだ。どんな計算もできる変幻自在の機械であり、その変身をソフトウェアが指図する。私たちは、そのソフトウェアに世界を演じさせる営みを「シミュレーション」と呼んできた。ギンゴールドが強調するのは、この言葉は元々アナロジー(類推、喩え)を指していたという点だ。モデルを立てるとは、機構と現象のあいだに対応を組み、一方にもう一方を代理させる行為だ。橋の揺れを、同じ方程式に従う電気回路で言い当てたヴァネヴァー・ブッシュの解析機のように。解析機は橋そのものではなく、橋の類推物(アナログ)である。そしてこの意味でなら、離散的(デジタル)なコンピューターもまた、世界を対応物に写すアナロジーの道具(アナログ)にほかならない。


橋の構造(上)と、同じ方程式に従うようにあつらえた電気回路(下)。回路は橋の「類推物(アナログ)」として働く。
V. Bush, "Structural Analysis by Electric Circuit Analogies," Journal of the Franklin Institute, vol. 217, no. 3 (1934), pp. 289–329

ライトは自ら手がけたゲームを、「software toy(ソフトウェアのおもちゃ)」と呼んだこととこれは、無関係ではない。彼は街全体をアナログ(類推)するおもちゃを生み出したのだ。勝ち負けも終わりもなく、「自由な形をした、開かれた」系。プレイヤーは、区画を指定し、シミュレーションがそこを埋める。ギンゴールドはこれを「魔法のクレヨン(magic crayon)」と呼ぶ。プレイヤーと機械の創造性が一つになった、混成的な行為だ。そして街を動かす規則そのものは、驚くほど単純だという。「中を覗けば、シミュレーションはむしろ単純な規則でできている。その単純な規則が互いに作用し合って、大きな複雑さを生む」(ダグ・ビーレンドによるインタビュー「SimCity That I Used to Know」Medium、2014年)。設計の狙いは「創発を使って、より単純な部品で、より大きな可能性空間を組み立てる」ことにあった(GDC 2003「Dynamics for Designers」)。

では、その単純なシミュレーションは、どうやって丸ごと一つの生きた街になるのだろうか。SimCityをソースコードから読み解くと、性質の違う三つの層が編み合わされているという。まず、街全体の経済を束ねる中央集権的なモデル(税率をいじれば街全体が反応する)。その上に、火事や地価変動などの広がる空間の振る舞い(セルオートマトン)。さらにその上を、ゴジラや船やヘリコプターといった、実時間で動き回る物体が走る。これら食い違う3つがコードの中で翻訳されて縫い合わされて、街は生きて見えている(継ぎ目は今もソースコードに残っている)。アナロジーとは、性質の違う世界を一つの街に和解させる、混淆の技術でもあるのだ。

和解というと語弊があるかもしれない。というのも、シミュレーションの挙動がプレイヤーの常識から食い違っている箇所(ギンゴールドが見かけ上のバグと呼ぶもの)が随所にあるからだ。たとえば発電所。プレイヤーは律儀に、建てた発電所をすべて送電網につなぐ。ところがコードの上では、一つ繋がっていれば街全体に電気が回る。極めつけは渋滞だ。プログラムの中に、車は一台も走っていない。あるのは、定期的に放たれる到達チェックのシミュレーションと、その軌跡の多い道路の上で繰り返される渋滞する車のアニメだけだ。それでもプレイヤーはそこに渋滞を感じとっている。もはや、機械の外でもう一つのシミュレーションが走っているといってもよい。ライトも「人間が頭の中で得意にシミュレートできる部分は、プレイヤーの頭へ荷下ろし(offload)」をしたと語っている。SimCityの生きた街は、機械の中には無い。ほのめかされたものを埋めているのはプレイヤーなのである。

アナロジーがこれほど機能するのは、私たちの認知そのものが、もともとアナロジーで働いているからだ。信じているから、そのように振る舞い、振る舞うぶんだけ、街はますます生きて見える。この働きを、演劇学者のジャネット・マレーは「信念の能動的創造(the active creation of belief)」と呼んだ。これはマンガにも似ている。描かれないコマとコマの間の出来事や、動き、時間の流れは、読者が補って完成させている。ライト自身、この「マンガ学」の理論を自分の設計の手本にしたと語っており(リチャード・ラウズ『Game Design: Theory and Practice』所収のインタビュー)、SimCityを移植した開発者ドン・ホプキンスは、この過程を「示唆によるシミュレーション(simulation by implication)」と名付けている。

アナロジーは曖昧だ。だからこそ混ぜ合わせることができる。結果としてSimCityはゲーム、玩具、科学などの狭間にある、名づけようのない対象だった。都市計画者も、サンタフェ研究所の科学者も、ベンチャー投資家も、教育者も、任天堂も、ゲーマーも集まって交換するこの場(ネットワーク・フォーラム)。こうして、一つの曖昧なアナロジーが、バラバラの人々を束ねて新たな文化を生み出したのだ。

本連載はこれまで、意味も美も、設計者が「提供する」のではなく、プレイヤーと世界の出会いから「立ち上がる」ものだ、と確かめてきた(シカールの「物遊」ニューエンのプロセス・ビューティ)。ギンゴールドのSimCity論はまさにここに加わるだろう。これは、本連載のテーゼである存在論的デザイン、つまり「私たちが道具を作り、道具が私たちを作り返す」という循環的な定義をより違った角度から見せてくれる。循環と言うと、自己と道具がキャッチボールのように作用し合う姿を思い浮かべるだろう。だがSimCityで起きているのは、キャッチボールというより二人三脚だ。アナロジーという一つの作動が、はじめから機械とあなたの間にまたがっている。あなたが愛した生きた街は、あなたとゲームのどちらのものでもなく、そのあいだの作動だったのだ。

しかし、アナロジーはあいだに立つものでありながらも、中立ではない。シミュレーションは何を「ある」とするのかを決めて抽象化している。いつも何かしらの世界観を、こっそり抱え込んでいるのだ。例えばSimCityの都市モデルは、「階級は見るが、人種は見ない」。市民は「住宅の住み手」として数えられ、ホームレスは含まれない。連帯もない。第2回でゲームは「何を数え、何を数えないか」という操作(ユニット・オペレーション)を行なっている、と書いたが、アナロジーは数えているものを私たちに気づかせないまま決めているのである。

さて、プロジェクトに引き戻そう。SimCityの街はほのめかすことで機能していた。同様にチームが共有するアナロジーは、精密だから機能するのではない。曖昧だから機能するのである。ロードマップも、ポンチ絵も、メタファーも、細かな認識のズレを炙り出そうとしているのではない。むしろ、その豊かな曖昧さこそが、相容れない立場を一つの仕事へ束ねる言語になる。そもそもプロジェクト自体が大きなアナロジーであり人とそうした記述に「またがった作動」なのかもしれない。アナロジーであるからには、何が「ある」のかを決めて、何かを静かに排除している。だからプロジェクトの設計には責任が伴うのである。メンバー(プレイヤー)はボンネットを開けて、その前提と言い争えているだろうか。

さて、SimCityの生きた街は機械の中には無いにも関わらず、ライトは見事に設計してみせた。しかし体験は直接デザインできない。デザインできるのは規則だけで、体験は規則から遊びを通じて創発するのみだ。次回は、この「作れないものを、どう作るか」という逆説を定式化し、ゲームデザインを学問にまで仕立て上げた教科書『Rules of Play』を開いてみたい。

このコマ間の読者の補完を、スコット・マクラウドは理論書『マンガ学』(1993)で「補完(closure)」と名付け、マンガという表現形式の核に据えた。

流動のなかのプロジェクト

賀川こころ

第7回 ゴールを手放す

イルカやクジラを探して海に出るとき、成果のかなりの部分はアンコントローラブルだ。もちろん人間側が求める日々の成果は種々あるだろう。「クジラを近くで見たい」「イルカと一緒に泳ぎたい」「いい写真が撮りたい」。それは己の中に抱えていていい欲望だ。けれど、世界にはその欲望を満たす義務がない。人間側のゴール設定とはまったく無関係な次元でイルカやクジラたちは生きていて、行動の選択権は常に彼らの側にある。

それでも、こちらにできることはある。たとえばクジラを見つけたとき、船をぎりぎりまで寄せることもできるけれど、敢えて前進を止めて彼らの動きを待ってみる。彼らがこちらに興味を持てば近づいてきてくれることもあるし、我関せずの面持ちで彼らの生活を続けていることもある。わたしたちが今日なにを見ることになるか(あるいはなにも見られないか)は、彼らに委ねられている。これは彼らの行動を制御するための技法の話ではなく、彼らの世界に接するにあたっての作法の話だ。

制御できない世界にそれでも参与しようとするとき、わたしたちはなにを決められるのだろうか。ゴールの設定権を手放すということは、意志や主体性を手放すということではない。無論なにもしないということでもない。相手がどう動くかを決められないならば、むしろ己の在り方や振る舞いの側にこそ強い意志が要る。制御できない世界に対してわたしたちが持てるのは、ゴールではなく作法だ。

ただ船を漂わせながら彼らの動きを待つとき、わたしたちのモードは「クジラをどう動かすか」ではなく、「クジラがどう動くかに自分はどう応答するか」に変わる。待つということはなにもしないことではない。船の揺れを感じ、波を読み風を読み、彼らの呼吸の間隔を測り、次に浮上する場所を想像しながら、世界のわずかな変化を見つづける。近づいてくれば止まり、離れていけばその距離を受け入れる。潜れば次の浮上を待つ。こちらがなにかをするたびに世界はすこし変わり、その変化に彼らは応答する。その応答は、わたしたちには感じ取れないくらいに微細なものかもしれないし、あるいは彼らの威容を肌で感じるようなダイナミックなものかもしれない。そして彼らの応答を受けて、こちらもまた次の振る舞いを選ぶ。

そこには、あらかじめ定められた正解はない。いま目の前で起きていることを見て、次の一手を選ぶ。その一手によって変わった世界をまた見て、次の一手を選び直す。そうして互いの選択を重ねながら、その日にしかない時間が立ち上がっていく。

考えてみれば、海でわたしたちが決められることは案外少ない。クジラがどこにいるかは決められない。見つけたクジラがどちらへ向かうかも、どのような行動をするかも決められない。けれど、どこを探すかは決められる。なにを見るかは決められる。どこまで近づくかは決められる。いつ止まるかも、いつ離れるかも決められる。そして、目の前でなにかが起きたとき、それにどう応答するかは決められる。制御できないものを手放すと、自分が引き受けるべきものの輪郭はかえって鮮明になる。

プロジェクトもまた、たくさんのアンコントローラブルなものの上に成り立っている。顧客がどう反応するか。市場がどう変わるか。一緒に働く誰かがなにを考え、なにを選ぶか。未来の世界になにが起きるか。それらをすべてあらかじめ知ることも、思い通りに動かすこともできない。それでもわたしたちは、プロジェクトにゴールを置く。そして、そのゴールへ向かう道筋を描く。ゴールを置くこと自体が悪いわけではない。まだ存在しない未来へ向かって複数の人間が動くためには、ひとまずどこへ向かおうとしているのかを共有する必要がある。

けれど、ゴールを持つことと、ゴールに世界を従わせることは違う。計画した道筋から外れた出来事を失敗として排除し、予想と違う反応をノイズとして扱い、当初決めた場所へなんとか世界を押し戻そうとするとき、わたしたちは目の前で起きていることへの応答をやめてしまう。プロジェクトに必要なのは、ゴールへ向かって世界を動かす力ではなく、世界から返ってきたものを受け取りながら、次の一手を選びつづける力なのかもしれない。

だからProject Sprintでは、小さく試す。出力する。返ってきたものを見る。そして、また次の一手を決める。最初に描いた道筋を忠実になぞるためではない。そのときどきの世界に応答しながら、自分たちがどこへ向かうのかを更新しつづけるためである。

海に出る日々も似ている。何時間探しても、なにも見つからない日がある。ようやくイルカを見つけても、こちらにはまるで興味を示さず去っていく日もある。カメラを持って海へ入り、ただ青い水だけを撮って船へ戻ることもある。それでも、また海に出る。いつ現れるか分からないものを探し、いつ起きるか分からない瞬間に備えて、海を見つづける。その一瞬をこの目で捉えるために、なんの目立った成果も得られない日々を、それでも海に出つづける。わたしはそれを「人事を尽くして天命を待つ」と呼んでいる。

天命を待つというのは、なにもせず幸運を待つことではない。自分にできることと、自分には決められないことを見分けることだ。そして自分にできることについては、できる限りのことをする。その先でなにが起こるかは、世界に委ねる。結果は制御できない。けれど、その瞬間に出会ったときに応答できる自分であるための準備はできる。

ゴールを手放すとは、行き先を諦めることではない。自分には決められない未来を手放して、いま自分が選べる次の一手を引き受けることなのかもしれない。

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Editor's Note

八木翔太郎

ちょうど昨日まで論文を書いていて、寝不足が続いているのですが、疼いた気持ちのままに編集後記を書き始めています。ニコラス・ルーマンの社会学と向き合う日々だったわけですが、彼をご存知の方は少ないかもしれません。私も大学の頃、「コミュニケーション」について語った会話の専門家なのかな、くらいにしか思っていなかったのですが、読めば読むほど深い話をしていて、こういう人がいたものだとつくづく唸ってしまいます。

彼は、誤解を恐れずに言えば、社会を生き物のようなものとして説明した学者です。彼の依拠するオートポイエーシスはもともと、マトゥラーナとヴァレラが「生きているとはどういうことか」を説明しようとして編み出した理論でした。彼らは、心臓や脳といった生理学の話を離れて、生きるという現象そのものを説明しようとし、「自らが自らを創り出すこと」としてオート(自己)ポイエーシス(創出)という理論に行き着いた。それならば社会も、政府や学校やお金といった単位を前提とせず、そうした自らを創り出す現象として捉えるべきなのではないか——そうやって、大学への着任時に「対象は社会の理論、期間は30年、経費はなし」と研究計画を出し、その言葉どおり明け暮れたのがルーマンなのです。

しかし、彼はよく批判を受けます。社会がコミュニケーションによって形作られているとする彼の理論は、構築主義的な立場なのではないか、あるいは結局、唯我論(solipsism)や観念論(idealism)に陥っているのではないか、と。構築主義というとリアリティとは別に世界が認識的に構築されているというニュアンスがあります。しかし、ルーマンはリアリティの否定すらもリアルな操作なのだと述べている。つまり、区別や認識もまたリアルなのだと。

この点は論争も多く、よく批判もされていますが、個人的にはそこまで突飛な発想でもないように思います。なぜなら、区別的な操作(コミュニケーション)をリアルでないと退けることは、物質はリアルなのに生き物が「生きている」こと自体はリアルではないと退けることに等しいからです。そんな主張をしたい人が、どれだけいるでしょうか。こうした論争に現れているのは、ルーマンへの批判というよりも、むしろ私たち自身のバイアスへの批判(露呈)なのではないかと思うわけです。まさにブーメランのように批判者自身に突き刺さっています。

どうしても認識や感覚、「生きていること」といった関係的なものをリアルなこととして捉えられず、実体(substance)が先にあると思ってしまう私たちがいます。何かを主語に立て、そこに述語を帰属させる文法に慣れきっていることの弊害もあるでしょう。点の定義から始めるユークリッド幾何学の弊害もあるでしょう。実際に、私たちはネットワークを描くとき、ノード(点)があってエッジ(線)があると考えてしまう。私は修士時代、特許の引用ネットワークを分析していたのですが、データ設計ではノード(点)の属性として別のノード(点)へのつながりを持たせるのが通例でした。そのことを疑問にさえ思わない。思えない。しかし、そうした思い込みのままでは、ルーマンの試みを理解できないのかもしれません。現に彼の研究者で彼を誤解してしまっている人は、どうしても実体から話を始めてしまうのです。

実体と関係、どちらから始めても同じ結論に辿り着くという類のものではありません。心臓や脳を扱う生理学と「生きている現象そのもの」を比べてみましょう。後者から前者に辿り着くことはできますが、前者から後者を説明するのは困難ではないでしょうか。今号も記事の数々が、どれも実体よりも関係の側から日々の現象を捉え直そうとしています。能力や、規範や、「街」などを生み出す関係性。体が「感じていること」をもと組み立てる実践、応答できる準備をする作法といった振る舞い方。これらは「生きている」ものごとに対して向き合う立場です。生き物が「生きている」さまを捉えるように、プロジェクトが「生きている」さまを見つめてみたい。そのためには、私たちもルーマンのように、関係をリアルなものとして捉えていくことが、その出発点になるのでしょう。