The Project Theory Probe Journal

Issue 31
Aug. 31 2026

知能としてのプロジェクトを見い出したい

八木翔太郎

第7回 多が一になるとき生まれるもの

前号では、真正粘菌(Physarum)という脳も中心もない一個の細胞が、迷路を解き、記憶し、学ぶさまを眺めた。しかし真正粘菌は「一でありながら多」であり、切れば二つになり、近づければまた一つに戻る、一続きの体である。もしそうならば、これは特別な生き物の特別な生態に過ぎないのだろうか。 細胞性粘菌(Dictyostelium discoideum)はそんな懸念を払拭するのにうってつけだ。彼らは、ばらばらに暮らす別々の個体だが、ときに集まって一つの体になるのである。さらにはなんと、一つになった集団が、どの個体にもできないことをしはじめる。今号ではその様子を、前号に引き続き生きた実例(in vivo)として辿っていきたい。

細胞性粘菌は、ふだんは土の中で一個ずつのアメーバとして暮らしている。バクテリアを食べ、分裂し、それぞれが自分の生を生きているだけだ。ところが餌が尽きて飢えると、ばらばらだった何万もの細胞が集まって、スラッグ(ナメクジのような一つの体)になり移動し、やがて子実体(いわゆるキノコのような構造体)になるのだ。細い柄が立ち、その先に、丈夫な胞子の塊がのる。もともとアメーバだった個体が合体するのである。

どうしてこんなことが可能なのか。司令塔がいるのだろうか。飢えた細胞はcAMPという化学物質を拍のように放つ。そのcAMPの密度が十分に高まると、細胞たちは確率的に脈を連鎖させ、互いを励起させ、やがて集団を貫く波になる。そして、その波の中心へ引き寄せられることで、細胞は集まっていくのである(Gregor et al., 2010)。最初の拍はあらかじめ決まった指揮者から出るのではない。バラバラだった個体が、共有された媒体(cAMP)を通じて連鎖し、確率的に秩序が立ち上がるのである。

こうして一つになった集団(スラッグ)は地表へ出るために光を感じて向かっていく。ここで驚くべきは、個体は光に向かうということができない(光走性を示さない)という点だ(Genettais et al., 2025)。光へ進んでいたスラッグをばらばらにほどいて取り出した細胞さえも、光には一切向かわない。スラッグという集団になったときだけ、はじめて立ち上がる能力があるのである。ここで、細胞を高い密度で並べてもなお光走性は生まれない点は特筆すべきだ。スラッグという「自己組織化した形」が必要なのである。そして極めつけは、この能力が参加する細胞の数に比例することだ。細胞が二千個ほどより少ないスラッグは光へ向かう気配がないが、それを超えると徐々に光へ向かうようになっていく。

一度立ち止まって、この奇妙さを噛みしめたい。光を感じて進む能力は、どの細胞も持っていない。にもかかわらず、細胞が十分に集まって組織を作ると、その能力が関係のあいだに現れる。前号の真正粘菌が「脳のない知性」だったとすれば、こちらは「担い手のいない知性」に近しいものがあるだろう。これは一体どうして可能なのだろうか。光走性のメカニズムそのものは未だ論争中だが、有力な見立て(Bonner et al., 1988)によると、アンモニアが関わっている。光が当たると細胞はアンモニアを出す。一個の細胞が出すひと吹きはたちまち拡散して消え(揮発性があるため)るが、多くの細胞が寄り集まって同時に出すと個々のひと吹きが消えずに残る。細胞たちはその勾配分布を手がかりに進んでいくのである。アンモニアの勾配は集団的に吹き出すからこそ生じるのであり、単体では現れない。それが光走性という能力が集団と共に創発されるカラクリである。

現れるか現れないかギリギリの瀬戸際にある現象。これはイリヤ・プリゴジンの自己組織化の議論を思い出す。実際に、集合していく細胞たちの状態が、物理でいう臨界点、つまり秩序と無秩序の境目、水が氷になるような相転移の瀬戸際に似た状態にあることが示されている(De Palo et al., 2017)。有機体がこうした状態を有している理由は、過去にグッドウィンとメイワン・ホーの研究で触れたのが思い出される。臨界の状態は共有されている。だから各細胞は隣としか直接やりとりしていないのに、その効果が遠くまで「ただで(for free)」集団全体を貫いて伝わるのだ。しかも、それが応答によって伝わっていることは重要だ。動きに「反応」して水面が波立つ現象は皿が大きくなっても強さが変わらないのに対して、「反応」が伝わる粘菌では数が増えるほどに増幅されて強い現象となる。理論的にも、細胞の集団は、一個の細胞には検出できないほど微かな勾配すら、集団としてなら感じ取れることが示されている(Varennes et al., 2016)。現に、細胞性粘菌は酸素の濃い方向に向かう性質があるが、集団であるほどにこの勾配を敏感に感じ取って進むことができるのである(Cochet-Escartin et al., 2021)。これは集団知性の生じる1つのヒントなのではないだろうか。

本連載は、第3回でも菌類でもこうした「担い手のいない知性」というテーゼに突き当たっている。しかし、菌糸は融合していて一本ずつ「取り出せない」。だからシェルドレイクは、知性や記憶の基盤は「特定できない」のであり、自分はそれを「意図的に語らない」と述べ、答えを留保していた。だが、細胞性粘菌を訪れたいま、われわれはもう一歩踏み込めて問いを深めることができる。担い手がいないのは、担い手となる存在が変幻自在だからではない。個々の細胞との「間に」あるからである。

脳のない生きものに知性や記憶を認めるとき大切なのはそれを正しい水準に置くことだ(Sims『Slime Mould and Philosophy』2025)。粘菌の光走性は、一個の細胞の水準にはなく、集団という水準にある。担い手は、個体ではなく「関係」のほうにあるのだ。それは自ら生み出すものによって媒介されている(=スティグマジー)。cAMPであれ、アンモニアであれ、酸素であれ。自ら生み出すものによって結びつき、感覚をより鋭く、応答をより強くしている。前号の問いに答えるならば、集団になることがもたらすのは「関係」そのものであり、それが拡張する応答可能性なのではないだろうか。

こうした観点は、プロジェクトにも当てはまるだろう。どの個人も持たない知覚や判断がチームに宿るということがあり得るということである。優秀な能力は必ずしもメンバーが担っているとは限らない。メンバーとメンバーの関係のあいだに立ち上がり、互いに応答し合うほどに育つ能力があるのではないか。そして、その応答は自らが生み出したものによって媒介される。私たちにとっての「アンモニア」や「脈拍」が何なのか、考えてみると面白いだろう。自ら生み出すものが自ら彫り出していく。「誰のものでもない知性」が立ち上がるのを見つけ、育てることこそが、プロジェクトの妙技かもしれない。

さて本連載ではバクテリアから菌類から粘菌まで、小さく原始的な生き物を辿ってきた。だが、例えば私たちの免疫細胞(好中球)も傷口に群がるとき自ら作った化学の勾配を頼りに集まるのであって、これは粘菌の集団性と良く似ている(Strickland et al., 2026)。つまり、生き物の内側も、見方を変えれば「集団知性」に溢れているのではないか。この個と集団の境界を絶妙に崩してくれる動物が存在する。タコである。次回はPeter Godfrey-Smithの著作を紹介しながら、集団と知性の関係をより深掘ってみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(31) コミュニケーション

The Rhythm of Intimacy

Kitty Gia Ngân

Agents of (In)Fidelity

Recently my friend and his lover put their relationship on a pause. When he asked whether they could remain friends, she replied, "I can't be your friend because I love you."

But is this a misnomer? Should it instead be: "I don't love you enough to be your friend because I want to prioritise my (romantic) desires rather than contemplating other possibilities of being together"?

What is embedded in "romantic desires"? Why is "love" considered above "friendship" in modern life? When was the 2 made into a difference? Is such a cut "natural"? How does this affect intimacy?

In the last journal, I wrote about the loss of time in relationship. What's left is spatialised relationship: seeing relationships as stable bounded categories across time, relying on contemporary concepts such as intentionality, control, fidelity, and agency. We assume that an interaction must have a stable, identifiable meaning originating in an individual's intention. And a relationship can be categorised based on one's sexual and romantic intentions.

Agency is not a neutral concept to begin with. Despret (2013), drawing on Susan Crane, points out that the conventional definition of agency is embedded in a humanist and Christian lineage of human exceptionalism. What makes an agent, in this view, is the possession of subjective experience and autonomous intention: "A capacity for agency — for desiring, for forming intentions, and for acting creatively — is inherent in all humans" (Sewell, 1992; p. 20). But as Braidotti wrote, "We are all humans, but some of us are just more mortal than others" (Braidotti 2013, p.15) The people of colours, the colonised have been inferior or less than human, with less agency, less ability to "self-control" and think from a place of self-bounded individuality.


Colonial projects frame domination through the language of care: to govern was to protect, to colonise was to civilise, and to intervene was to educate. This language resonates with the projects of "love" and "romance", where jealousy becomes attraction, possessiveness becomes romantic, and ownership through marriage becomes the quintessential of union.

The ranking used to run the other way. Aristotle treats philia (a deep, affectionate, and loyal friendship or brotherly love) as central to the good life in a way eros isn't; Montaigne's essay on friendship explicitly places it above the marital bond, which he describes as a bargain constrained by obligation. For a long stretch of European thought, marriage was the practical arrangement and friendship was the elevated relation freely chosen, between equals, oriented toward virtue rather than property.

Stephanie Coontz's argument in Marriage, a History is that the shift to love as the basis for marriage is what made it simultaneously the most emotionally loaded institution and the most fragile one: The couple was assigned the job of supplying everything that used to be distributed across kin, neighbours, guild, congregation.

Foucault pointed out that any relation containing sex is automatically read as deeper, because it's the one where the notion of a "real person" is thought to appear. Friendship becomes, by category, the relation where you don't get the truth, because physical touch is forbidden.

Infra-structurally, the hierarchy is materially enforced. Immigration status, next-of-kin, medical decisions, inheritance, tenancy succession, pension, tax, parental presumption—all of it attaches to the conjugal pair. So romance genuinely is more, in the only sense the state recognises.

Examining the genealogy of marriage and friendship as 2 concepts, (1) the distinction between romance and friendship is blurry (and questionable) to begin with; And (2) the rules that guardrail such a friendship makes it impossible to become friends: The curfew of not meeting too many times, not being physical, the hesitation and guessing what the other person means. The distinction between romance and friendship is crazy to begin with.

These rules attempt to maintain the boundaries of supposedly distinct relational categories. They assume that friendship and romance are stable containers, and that the people inside them can consciously maintain the boundary. Then the anxiety around heterosexual friendship might reveal our discomfort with relational indeterminacy, while containing the legacy (tools and language) of the colonial projects.

親密性のリズム

Kitty Gia Ngân, 八木翔太郎(訳)

何が(不)貞をつくるのか

最近、友人とその恋人が、関係をいったん休止することにした。彼が「友だちのままでいられないか」と尋ねると、彼女はこう答えたという。「あなたを愛しているから、友だちにはなれない」。

だが、これは呼び名の誤りではないだろうか。本当はこう言うべきではないのか。「あなたの友だちになれるほどには、あなたを愛していない。共にあることの別の可能性を考えるより、自分の(恋愛的な)欲望を優先したいから」。

「恋愛的な欲望」には、何が埋め込まれているのか。なぜ現代の生活では「愛」が「友情」の上に置かれるのか。この二つが差異にされたのは、いつなのか。そのような切断(カット)は「自然」なものなのか。それは親密性にどう影響するのか。

前号で、私は関係における時間の喪失について書いた。あとに残るのは、空間化された関係である。すなわち、関係を、時間を通じて安定した、境界づけられたカテゴリーとして見ること。志向性、コントロール、貞節、エージェンシー(主体性)といった現代的な概念に依拠しながら。私たちは、相互行為には、個人の意図に由来する安定した、特定可能な意味があるはずだと思い込んでいる。そして関係は、その人の性的・恋愛的な意図にもとづいて分類できる、と。

そもそもエージェンシーは、中立的な概念ではない。ヴァンシアンヌ・デプレ(Despret 2013)はスーザン・クレインを引きながら、エージェンシーの通念的な定義が、人間例外主義をめぐるヒューマニズムとキリスト教の系譜に埋め込まれていることを指摘する。この見方においてエージェントを成り立たせるのは、主観的経験と自律的な意図の所有である。「エージェンシーの能力、すなわち欲望し、意図を形成し、創造的に行為する能力は、すべての人間に内在する」(Sewell 1992, p. 20)。だがロージ・ブライドッティが書いたように、「私たちはみな人間だが、ある者たちはただ、他の者たちより死すべき存在であるだけだ」(Braidotti 2013, p. 15)。有色の人々(ピープル・オブ・カラー)、被植民者は、劣った者、あるいは人間未満の者とされてきた。エージェンシーをより少なくしか持たず、「自己コントロール」の能力に欠け、境界づけられた自己完結の個という場所から思考する力を欠く者として。

植民地主義のプロジェクトは、支配をケアの言語によって枠づける。統治することは保護することであり、植民地化することは文明化することであり、介入することは教育することだった。この言語は、「愛」と「ロマンス」のプロジェクトと共鳴する。そこでは嫉妬が魅力になり、独占欲がロマンティックなものになり、結婚を通じた所有が、結びつきの精髄になる。

かつて、序列は逆だった。アリストテレスはフィリア(深い情愛と忠実にもとづく友愛、兄弟愛)を、エロースにはない仕方で、善き生の中心に据えている。モンテーニュの友情論は、友情を婚姻の絆の上にあからさまに置き、婚姻のほうは、義務に縛られた取引として描いている。ヨーロッパ思想の長い期間にわたって、結婚は実際的な取り決めであり、友情こそが高められた関係だった。自由に選ばれ、対等な者のあいだで結ばれ、財産ではなく徳へと向かう関係として。

ステファニー・クーンツが『Marriage, a History(結婚の歴史)』で論じたのは、愛を結婚の基盤とするこの転換こそが、結婚を、最も感情的な重みを負った制度であると同時に、最も壊れやすい制度にした、ということだ。かつて親族、隣人、ギルド、教会共同体のあいだに分散していたすべてを供給する仕事が、カップルに割り当てられたのである。

フーコーが指摘したのは、性を含む関係はどれも、自動的により深いものとして読まれる、ということだった。そこは「本当のその人」という観念が現れると考えられている関係だからだ。友情はカテゴリーからして、真実にたどり着けない関係になる。身体的な接触が禁じられているからである。

インフラの水準では、この序列は物質的に強制されている。在留資格、近親者としての地位、医療上の意思決定、相続、賃借権の承継、年金、税、嫡出推定。そのすべてが、婚姻のペアに紐づいている。だから、国家が認める唯一の意味において、ロマンスは本当に「より多く」なのだ。

結婚と友情という二つの概念を系譜学的にたどってみると、こうなる。(1)ロマンスと友情の区別は、そもそも曖昧であり、疑わしい。(2)そして、そうした友情に柵をめぐらす規則群こそが、友だちになることを不可能にしている。会いすぎてはいけないという門限、身体に触れないこと、ためらい、相手の真意を推し量ること。ロマンスと友情の区別は、そもそも正気の沙汰ではないのだ。

これらの規則は、別個であるはずの関係カテゴリーの境界を維持しようとする。規則が前提しているのは、友情とロマンスが安定した容器であること、そしてその中にいる人々が意識的にその境界を保てる、ということだ。だとすれば、異性愛の友情をめぐる不安は、関係の非決定性に対する私たちの居心地の悪さを露わにしているのかもしれない。そして同時にその不安は、植民地主義のプロジェクトの遺産(道具と言語)を内包しているのである。

プロジェクトマネージャーに「体」は必要か?

長谷部かな

第6回 「体を感じる」モデルで、「できない」を解体する

これまで、体に目を向けることの話をしてきた。ここで、「どんないいことがあるか」を書く前に、「どんなよくないことが起こりうるか」を書いてみたい。

体に目を向けるとは、「なかったものを足す」ことではない

第1回から書いてきた通り、体は常に信号を受け取り続けている。意識していなかっただけで、体はずっと感じていた。だから、意識を向け始めると、自然と感じられるようになってくる。新しい感覚が生まれるのではなく、もともと背景にあったものが「前景化してくる」ということだ。

一度始まると、元には戻らない

そして、一度感じられるようになると、その感度はじわじわと上がってくる。その結果、今まで背景化していたものが、前景化してくる。「なんかおかしい」「これは違う」「居心地が悪い」——今まで流せていたことが、だんだん流せなくなっていく。体が感じていることが、無視できなくなってくる。これは、副作用と言えば副作用だ。でも、それは身体に正直になってきた証でもある。

まず、肯定する

だからこそ、同時にやらなければならないことがある。それは、感じていることを受け入れる、肯定することだ。「感じていること」があることに気付かずに、無視して「こうあるべき」という形を押し付け続けると、思考と身体のバランスが崩れる。

お腹が痛いなら、お腹が痛い。頭が痛いなら、頭が痛い。やる気が出ないなら、やる気が出ない。がんばれないなら、がんばれない。

まず、体が感じていることがある。その前提でやり方を変えるのが、前回紹介したチューニングだ。

しかし、「感じていること」に気付かない例も案外ある。

  • もっと夜の時間を有意義に使いたいけど、ついダラダラしてしまう
  • 本を読む時間を取りたいと思いながら、気付けばもう2年ぐらい経っている
  • いつも締め切りギリギリになる。やることを整理して、もっと計画的に仕事を進めたい
  • いつも先のことを考えられてなくて怒られる。段取りがニガテ

こうした、なんとなく「やったほうがいいこと」。うっすら、頭の片隅にへばりついていないだろうか?

「できない」を解体してみる

「やりたい」と考えているが、「やっていない」「できていない」。これはどういうことかと言うと、つまり「頭ではやりたいと思っている。でも、体は動いていない」ということだ。

第4回で紹介した「体を感じる」モデルで整理してみる。

A:肉体 → B:体の声「頭が痛い」 ──┐
 ├─ チューニング → D:行動「仕事に行く」
A:肉体 → C:思考「仕事にいかなきゃ」 ──┘

前述の例は、つまり「C:思考」ではこうなっているということだ。

  • 「夜の時間は有意義に使ったほうがいい」
  • 「本を読んで学んだほうがいい」
  • 「締め切りには余裕を持って終わらせたほうがいい」
  • 「計画的に、段取りよく進めたほうがいい」

でも、思考ではそう考えているからといって、体も同じ方向を向いているとは限らない。これらの考えに対して、Bの身体の声が「NO!」と言っていることもある。もちろん、NOの理由には様々あるだろう。だからこそ、そのNOを、ただの「やりたくない」で終わらせずに、情報として耳を傾ける。

そして、ここで大事なのは、「できない」を「意志が弱い」「能力がない」で終わらせないことだ。

BとCを分けてみる

実際にやってみよう。頭に「やりたいけどできていないこと」を思い浮かべてほしい。私たちは一度に取り組めることが限られている。そこで、考えてみてほしい。

一般的にはあったほうが良いものだとしても

  • ①それは、本当に自分に必要か?
  • ②それは「今の自分」に必要か?
  • ③最優先で必要か??

どうだろうか?おそらく「あったほうがいいけど、困らない」種類のものではないだろうか。

もしそうなら、手放すことを考えてみてほしい。「やらなきゃ」と思い続けていること自体が、自分へのダメ出しになっているからだ。

例えば「資格試験の勉強をしたい」と思い、できないまま2年経ったとする。つまりそれは、「お前はそれをやる力がない」と、自分で自分に2年間も言い聞かせているということだ。悲しすぎる。

それでも「やっぱりやりたい」「これは必要だ」と思うなら、やろうと思ってもできないのは、たぶんやり方が合っていない。体のエネルギーの流れと、やり方が噛み合っていない。

一番エネルギー効率がいいのは、やりたいと思ったタイミングで、やりたいことをスッと前に出してやること。エネルギーを止めたり、絞ったり、無理やり曲げたりしない。なるべく。健やかに放出する。そのために、やり方を工夫する。やりたくないまま、無理やり身体を動かすことほど、燃費の悪い、非効率なことはない。またいつか、必要になったときに思い出せば良い。心配なら手帳やリマインダー、カレンダーに書いておいても良い。あなたが忘れていても、本当に必要なら体が思い出すはずだ。

一方で、「いや、これは必要だ。今やったほうがいい」というものもあるだろう。そのときは、自分の身体が動けるようにやり方を工夫しよう。ここでもう一度チューニングが始まる。

これは、他者(チーム)にも使える

これは、自分だけではなく他者にも使える方法だ。プロマネとして、ToDoのリマインドをしたことがあるはずだ。何回言っても進まないタスク、お互いにイライラするし、言われる側はだんだん距離を取りはじめて、プロジェクトから気持ちが離れていく。メンバーの主体性を引き出したいという話もよく聞く。でも、ToDoをリマインドされる、ということは「あなたできてませんよ」と、自分の無力さや無能さを突きつけられることだ。これでは、自分の力が信じられなくなり、主体性はますます引っ込んでしまうだろう。

だからやり方を工夫してほしい。

まず、本当にいま必要か、考えること。

B:体の声を聞いてみる。

  • 「何やるかイメージ、思い浮かんでる?」
  • 「なんとなく気が重い?」
  • 「今は忘れたい?」

どんな返答も大事な情報だ。それでも「やらなければ」と思うなら「では、どうするとできそうか?」とチューニングが始める。どこからならできるのか、どんな助けがあればできるのか。

頭ごなしに命令して、やり方を押し付けて、気分よく従う人はいない。身体が気分よく動けるように、自分たちで自分たちのコンディションを整える。それが、ものごとを前に進める、ということではないだろうか。

体があるPMは、何ができるか

ここまで5回書いてきた。「プロジェクトマネージャーに体は必要か?」という問いに、そろそろ答えてもいいかもしれない。

体があるPMは、「できない」を解体できる。

B:身体の声と、C:思考を分けて、それぞれが何と言っているのかを聞く。自分に対しても、チームのメンバーに対しても。「なぜ進まないのか」を問い詰めるのではなく、「体が何と言っているのか」を聞き、そこからチューニングを始める。「できない」が「どうやるとできるか」に変わる。

体に目を向け、体と折り合いをつける。その実践が積み重なると、「できない」の正体が見えるようになってくる。自分もチームも、エネルギーが健やかに流れるようになっていく。一朝一夕ではない。でも、不可逆な変化が、じわじわと進んでいく。

あなたの体のエネルギーは、健やかに巡っていますか?

今月のビデオゲーム

八木翔太郎

街はアナロジー(喩え)でできている
〜デジタルなアナログ〜

街を作る。区画を塗り、道を引く。しばらく待つと、家が建ち、車が流れ、街がひとりでに息づきはじめる。SimCity(1989)を初めて動かしたときの、あの手品のような悦びを覚えている人は多いだろう。ところが、流れる車の一台をよく目で追ってみると、奇妙なことに気づく。その車は、どこかへ向かっているわけではない。渋滞は生き生きしているのに、その一台には行き先がない。街は確かに生きている。だが、その「生きている」は、いったいどこにあるのだろう。

前号の逆から入ってみよう。前回のコスターは、ゲームを「教師」だと言った。面白さとは学習で、ゲームはプレイヤーを作り変える。設計が人を作る、という側だ。ところが、その反対に見える作り手がいる。人が世界のほうを作る側である。ウィル・ライト、そして彼のSimCityだ。この作品を内側まで解剖する導きに、チャイム・ギンゴールドの『Building SimCity』(2024)を借りたい。ギンゴールドは、かつてEAでライト本人に弟子入りした開発者出身の研究者で、本書はSimCityをその歴史とソースコードの両面から精密に読み解いた、内側からの研究である。

まず、ライトが何を作ったのかを見たい。ライトは自分の作るものを「ゲーム」と呼ばない。勝ち負けも終わりもなく、ただいじって遊ぶ開いた系。彼はそれを software toy(ソフトウェアのおもちゃ)と呼ぶ。彼の言葉では、玩具は「自由な形をした、開かれた」もので、ゲームのように「一つのルールの宇宙に閉じていて、その宇宙を出たらルールは無意味になる」ものではない(ギンゴールド前掲書)。源流は、ビル・バッジの Pinball Construction Set(1982、発売元いわく「最初のソフトウェアのおもちゃ」)だ。そしてライトの本当の仕事は、その玩具に、生真面目な道具を溶かし込んだことにある。都市を機械に入れるため、彼はジェイ・フォレスターの都市経済モデル(システムダイナミクス)を下敷きにし、空間の振る舞いにはセルオートマトンを、動く物にはビデオゲームの手法を持ち込んだ。予測と分析のための、本来バラバラで生真面目な道具立てを、想像力と遊びへの愛で、一つの遊べる世界に和解させた。「世界を機械に入れる」を、何百万人もが手に取り、いじれるものにしたのだ。

その悦びは、作ることにある。区画を置き、道を引くと、機械が細部を埋め、細密な街がひとりでに芽吹く。プレイヤーは一つ一つの建物を選ぶのではなく、区画を指定し、シミュレーションがそこを埋める。ギンゴールドはこれを「magic crayon(魔法のクレヨン)」と呼ぶ。プレイヤーと機械の創造性が一つになった、混成的な行為だ。そして街を動かす規則そのものは、驚くほど単純だという。ライト曰く、「中を覗けば、シミュレーションはむしろ単純な規則でできている。その単純な規則が互いに作用し合って、大きな複雑さを生む」(本人インタビュー)。その少ない部品から立ち上がるのが、大きな可能性空間(possibility space)だ。ライトはこう説明する。プレイヤーはゲームに入ると「この空間に入り、あらゆる枝分かれを探索する。それがゲームプレイの本質だ」。そして数分も遊べば、「その空間がどれだけ大きいか、境界はどこかを直感でつかむ」。この講演で彼が掲げた設計の狙いは、「創発を使って、より単純な部品で、より大きな可能性空間を組み立てる(engineer)」ことだった(GDC 2003「Dynamics for Designers」)。

では、その薄い機械が、どうやって丸ごと一つの生きた街を生むのか。ギンゴールドはソースコードまで降りて、SimCityの内側を開いてみせる。そこには、性質の違う三つの層が編み合わされている。まず、街全体の経済を一点から束ねる中央集権的なモデル(フォレスター由来のシステムダイナミクス。税率をいじれば街全体が反応する、あの予算画面がその窓口だ)。その上に、区画から区画へ、火事や地価がにじり広がる空間の肌理(セルオートマトン)。さらにその上を、ゴジラや船やヘリコプターといった、実時間で動き回る物体(ビデオゲーム由来)が走る。三つが噛み合って、街は生きて見える。

ところが、その機械を覗き込むと、奇妙なことが起きている。ギンゴールドが目を留めるのは、機構が、プレイヤーの信じていることから食い違う箇所だ。たとえば発電所。プレイヤーは律儀に、建てた発電所をすべて送電網につなぐ。ところがコードの上では、一つ繋がっていれば街全体に電気が回る。港もそうだ。海辺に置くが、船にとっても市民にとっても、港の位置はどうでもいい。極めつけは渋滞だ。画面には車の流れが見える。だが機械の中で実際に起きているのは、区画が目に見えない探査を放ち、道路を辿らせているだけで、あの滑らかな車の列は、その確率的な過程の上にかけられた「うわべ」にすぎない。ギンゴールドの言葉では、「巧妙なミスディレクションと抽象によって、SimCityは、実際には起きていない過程をほのめかす。隠しつつ、現す」のだ。

つまり、あなたが見ていた生きた街は、機械の中には無い。機械にあるのは、薄い、ところどころ嘘さえ混じった模型だ。生きた街のほうは、あなたの想像力が補っている。港は海辺にあるべきだと信じるから、あなたは海辺に置く。発電所は繋がっているべきだと信じるから、二つ目も三つ目も繋ぐ。その信じる働きを、演劇学者のジャネット・マレーは「信念の能動的創造」と呼んだ。ギンゴールドはそれを一句にする。「SimCityはほのめかし、私たちがシミュレートする」。

そして、これこそがライトの本当の凄みだ。彼は、機械の中の模型と、プレイヤーが感じる街とを、一致させたのではない。むしろ二つがずれることを見越して、そのずれを采配した。ライト自身が、はっきりこう言っている。「コンピュータでは到底シミュレートできないが、人間は頭の中で得意にシミュレートできることがある。だからその部分を、コンピュータからプレイヤーの頭へ荷下ろし(offload)するんだ」(ライトの言葉、ギンゴールド前掲書)。ギンゴールドはこう畳む。「SimCityの最も強力なシミュレーション部品は、コンピュータの中には無い。プレイヤーの想像力だ」。しかもこれは、思いつきの一言ではない。ライトは自分の設計思想として、講演でこう言い切っている。「モデルとは、コンピュータの中に作るものと、頭の中に作るものの両方だ。人間は、絶えず世界をモデル化している」(GDC 2003)。だから彼は、その頭の中のモデル化にこそ、シミュレーションの一部を委ねたのだ。

だからライトが自作を「都市の戯画(caricature)であって、現実の模型ではない」と言うとき(本人インタビュー)、それは謙遜でも欠点の告白でもない。戯画であることが、設計なのだ。薄く描いてほのめかし、残りを見る者の頭に建てさせる。ミスディレクションと、複数の表現(グラフや地図が犯罪や公害を「見える」ようにする)と、メッセージによる足場かけ。それらはすべて、あなたの想像力が働きだすための舞台装置だ。街があなたの思い通りにならず、押し返してくるあの抵抗さえ、あなたが世界の縁に触れ、その先を自分で埋めはじめる契機になっている。

同じことが、もう一段深くも起きる。SimCityで本当にシミュレートしているのがあなたの頭なら、そこには、都市がどう動くかについての、あなた自身の暗黙のモデルが走っている。そして遊び込むほど、機械のモデルとあなたのモデルは食い違いはじめる。ライトが面白がるのは、まさにそこだ。「遊び込んだ人は必ず、どこかでシミュレーションの前提と言い争いはじめる。『公共交通はそんなに効かないはずだ』『公害でそんなに住民が逃げるとは思わない』と」(本人インタビュー)。だが彼が本当に言いたいのは、その先だ。「その時プレイヤーは、都市がどう動くかについての"自分の内なるモデル"を、明確にせざるをえない。ふいに、自分の前提が、自分に見えてくる」。機械の前提が、あなた自身の前提を映す鏡になる。ギンゴールドも、この可能性に票を入れている。SimCityは自らの非現実を戯れに掲げることで、批評的な構えを誘う、と。もっとも彼は、逆に、プレイヤーが前提を無自覚に飲み込んでしまう危うさも、同じだけ書き残しているのだが。

第2回で、ボゴストを手がかりに、ゲームの意味はそれが「何を数え、何を数えないか」にある、と書いた。だがあれは、プレイヤーが経験する側の話だった。この連載はその後、意味も美も、設計者が「処方する」のではなく、プレイヤーと世界の出会いから「立ち上がる」ものだ、と確かめてきた(シカールの物遊ニューエンのプロセス・ビューティ)。ギンゴールドは、ここからもう一歩、深い所へ進む。生きた街は「立ち上がる」のでもない。それは機械の中にも、あなたの頭の中にも、純粋には無い。機械がほのめかし、あなたがシミュレートする、その連関、作動そのものに在る。「世界を機械に入れる」という本のタイトルは、だから半分は誇張で、世界は半分機械の中に、半分あなたの頭の中にある。いや、もっと正確に言えば、自己と世界は、はじめから互いに跨っている。

ここで、この連載の背骨が一つ、転回する。存在論的デザイン、つまり「私たちが道具を作り、道具が私たちを作り返す」という見方は、まず自己と世界を対置し、それを循環(ループ)で結ぼうとする。だがSimCityが見せるのは、そのループの手前だ。自己と世界は、あとから輪でつなぐ二極ではない。シミュレーションという一つの作動が、はじめから両者に跨っている。対置を循環で救うのでなく、跨りで溶かす。SimCityは、自らを戯画だと戯れに掲げる玩具だからこそ、この、ふだんは気づかない連関を、手に取れる形で見せてくれる。あなたが愛した生きた街は、あなたと世界のどちらのものでもなく、そのあいだの作動だったのだ。

ここで、前号のコスターに戻れる。コスターは、脳を「パターンを貪り食う機械」と呼び、面白さとは学習だと言った。ライトも、自分の言葉で同じことを言っている。「脳が娯楽を楽しむようにできているのは、まさに、娯楽が本質的に教育的だからだ」(本人インタビュー)。なぜ二人はここで出会うのか。ライトが、シミュレーションの一部を文字通りプレイヤーの頭へ荷下ろししたからだ。SimCityで本当に走っているシミュレータは、あなたの脳なのだ。ライトが範に取ったのは、モンテッソーリ教育だ。彼自身、こう語っている。「モンテッソーリは、発見する悦びを私に教えてくれた……大事なのは、教師に教わるのではなく、自分の条件で学ぶことだ。SimCityはモンテッソーリから直接来ている。都市を作るこの模型を人に渡せば、彼らはそこから都市設計の原理を自分で抽象する」(New Yorker「Game Master」、2006年)。あなたが自分の条件で学べるのは、街をあなたの頭の中で建てているからにほかならない。SimCityは、あなたをシミュレータにすることで、教える。

プロジェクトに引き戻そう。チームも、プロダクトも、ツールも、私たちが「世界を機械に入れる」試みだ。だが、そこで生きられる経験は、仕様書の中には無い。かといって、関わる人の頭の中だけにあるのでもない。それは、仕様と人のあいだに、両者に跨って立ち上がる。だから設計とは、設計者が場を作り、それが一方的にメンバーを形づくる、という二極の話ではない。良い設計とは、あらゆる細部を作り込むことでもない。SimCityのように、ほのめかすべきところをほのめかし、余白を残し、その荷下ろしを見越して舞台を整えること。関わる人が、自分の側から、その世界を建てられるように。

最後に、冒頭の、どこへも行かない車に戻ろう。あの車に行き先が無くても、街は生きていた。それは、あなたがその街を生きていたからだ。あなたが愛した街は、はじめから半分、あなたのものだった。それは仕掛けの失敗ではない。それこそが、ライトの技だったのだ。

流動のなかのプロジェクト

賀川こころ

第7回 ゴールを手放す

イルカやクジラを探して海に出るとき、成果のかなりの部分はアンコントローラブルだ。もちろん人間側が求める日々の成果は種々あるだろう。「クジラを近くで見たい」「イルカと一緒に泳ぎたい」「いい写真が撮りたい」。それは己の中に抱えていていい欲望だ。けれど、世界にはその欲望を満たす義務がない。人間側のゴール設定とはまったく無関係な次元でイルカやクジラたちは生きていて、行動の選択権は常に彼らの側にある。

それでも、こちらにできることはある。たとえばクジラを見つけたとき、船をぎりぎりまで寄せることもできるけれど、敢えて前進を止めて彼らの動きを待ってみる。彼らがこちらに興味を持てば近づいてきてくれることもあるし、我関せずの面持ちで彼らの生活を続けていることもある。わたしたちが今日なにを見ることになるか(あるいはなにも見られないか)は、彼らに委ねられている。これは彼らの行動を制御するための技法の話ではなく、彼らの世界に接するにあたっての作法の話だ。

制御できない世界にそれでも参与しようとするとき、わたしたちはなにを決められるのだろうか。ゴールの設定権を手放すということは、意志や主体性を手放すということではない。無論なにもしないということでもない。相手がどう動くかを決められないならば、むしろ己の在り方や振る舞いの側にこそ強い意志が要る。制御できない世界に対してわたしたちが持てるのは、ゴールではなく作法だ。

ただ船を漂わせながら彼らの動きを待つとき、わたしたちのモードは「クジラをどう動かすか」ではなく、「クジラがどう動くかに自分はどう応答するか」に変わる。待つということはなにもしないことではない。船の揺れを感じ、波を読み風を読み、彼らの呼吸の間隔を測り、次に浮上する場所を想像しながら、世界のわずかな変化を見つづける。近づいてくれば止まり、離れていけばその距離を受け入れる。潜れば次の浮上を待つ。こちらがなにかをするたびに世界はすこし変わり、その変化に彼らは応答する。その応答は、わたしたちには感じ取れないくらいに微細なものかもしれないし、あるいは彼らの威容を肌で感じるようなダイナミックなものかもしれない。そして彼らの応答を受けて、こちらもまた次の振る舞いを選ぶ。

そこには、あらかじめ定められた正解はない。いま目の前で起きていることを見て、次の一手を選ぶ。その一手によって変わった世界をまた見て、次の一手を選び直す。そうして互いの選択を重ねながら、その日にしかない時間が立ち上がっていく。

考えてみれば、海でわたしたちが決められることは案外少ない。クジラがどこにいるかは決められない。見つけたクジラがどちらへ向かうかも、どのような行動をするかも決められない。けれど、どこを探すかは決められる。なにを見るかは決められる。どこまで近づくかは決められる。いつ止まるかも、いつ離れるかも決められる。そして、目の前でなにかが起きたとき、それにどう応答するかは決められる。制御できないものを手放すと、自分が引き受けるべきものの輪郭はかえって鮮明になる。

プロジェクトもまた、たくさんのアンコントローラブルなものの上に成り立っている。顧客がどう反応するか。市場がどう変わるか。一緒に働く誰かがなにを考え、なにを選ぶか。未来の世界になにが起きるか。それらをすべてあらかじめ知ることも、思い通りに動かすこともできない。それでもわたしたちは、プロジェクトにゴールを置く。そして、そのゴールへ向かう道筋を描く。ゴールを置くこと自体が悪いわけではない。まだ存在しない未来へ向かって複数の人間が動くためには、ひとまずどこへ向かおうとしているのかを共有する必要がある。

けれど、ゴールを持つことと、ゴールに世界を従わせることは違う。計画した道筋から外れた出来事を失敗として排除し、予想と違う反応をノイズとして扱い、当初決めた場所へなんとか世界を押し戻そうとするとき、わたしたちは目の前で起きていることへの応答をやめてしまう。プロジェクトに必要なのは、ゴールへ向かって世界を動かす力ではなく、世界から返ってきたものを受け取りながら、次の一手を選びつづける力なのかもしれない。

だからProject Sprintでは、小さく試す。出力する。返ってきたものを見る。そして、また次の一手を決める。最初に描いた道筋を忠実になぞるためではない。そのときどきの世界に応答しながら、自分たちがどこへ向かうのかを更新しつづけるためである。

海に出る日々も似ている。何時間探しても、なにも見つからない日がある。ようやくイルカを見つけても、こちらにはまるで興味を示さず去っていく日もある。カメラを持って海へ入り、ただ青い水だけを撮って船へ戻ることもある。それでも、また海に出る。いつ現れるか分からないものを探し、いつ起きるか分からない瞬間に備えて、海を見つづける。その一瞬をこの目で捉えるために、なんの目立った成果も得られない日々を、それでも海に出つづける。わたしはそれを「人事を尽くして天命を待つ」と呼んでいる。

天命を待つというのは、なにもせず幸運を待つことではない。自分にできることと、自分には決められないことを見分けることだ。そして自分にできることについては、できる限りのことをする。その先でなにが起こるかは、世界に委ねる。結果は制御できない。けれど、その瞬間に出会ったときに応答できる自分であるための準備はできる。

ゴールを手放すとは、行き先を諦めることではない。自分には決められない未来を手放して、いま自分が選べる次の一手を引き受けることなのかもしれない。

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Editor's Note

八木翔太郎

ちょうど昨日まで論文を書いていて、寝不足が続いているのですが、疼いた気持ちのままに書き始めてみようと思います。ルーマンの社会学と向き合う日々だったわけですが、彼をご存知の方は少ないかもしれません。私も大学の頃、「コミュニケーション」について語った会話の専門家なのかな、くらいにしか思っていなかったのですが、読めば読むほど深い話をしていて、こういう人がいたものだとつくづく感じます。

彼は、誤解を恐れずに言えば、社会を生き物のようなものとして説明した学者です。彼の依拠するオートポイエーシスはもともと、MaturanaとVarelaが「生きているとはどういうことか」を説明しようとして編み出した理論でした。彼らは、心臓や脳といった生理学の話を離れて、生きるという現象そのものを説明しようとし、「自らが自らを創り出すこと」としてオート(自己)ポイエーシス(創出)という理論に行き着いた。では社会も、政府や学校やお金といった単位を前提とせず、そうした自らを創り出す現象として捉えるべきなのではないかと。そうやって、大学への着任時に「対象は社会の理論、期間は30年、経費はなし」と研究計画を出し、その言葉どおり明け暮れたのがルーマンなのです。

しかし、彼はよく批判を受けます。唯我論(solipsism)や観念論(idealism)に陥っているのではないかと。結局は構築主義的な立場なのではないかと。構築主義というとリアリティとは別に世界が認識的に構築されているというニュアンスがあります。しかし、ルーマンはリアリティの否定すらもリアルな操作なのだと言っている。つまり、区別や認識もまたリアルなのだと。

これは論争も多く、よく批判される点でもありますが、個人的にはそこまで突飛な発想でもないように思います。なぜなら、区別的な操作(コミュニケーション)をリアルでないと退けることは、物質的なリアルはあるのに生き物が「生きている」こと自体はリアルではないと退けることに等しいからです。そういう主張をしたい人が、どれだけいるでしょうか。こうした論争に現れているのは、ルーマンへの批判というよりも、むしろ私たち自身のバイアスへの批判(露呈)なのではないかと思うのです。まさにブーメランのように自らに突き刺さっています。

認識や感覚、「生きていること」といった関係的なものを、どうしてもリアルなこととして捉えられず、実体が先にあると思ってしまう私たちがいます。たとえばネットワークを描くとき、ノード(点)があってエッジ(線)があると考えてしまう。実際に、データを設計するときには、ノード(点)の属性として別のノード(点)へのつながりを持たせます。8年前に特許の引用ネットワークを分析し続けていた私は、そのことを疑問にさえ思いませんでした。しかし、そうした思い込みのままでは、ルーマンがしていることは理解ができない。現に彼の研究者で彼を誤解してしまっている人は、どうしても実体から話を始めてしまうのです。

だから何?という話かもしれませんが、当の私は書いててスッキリしたので、なにか愚痴を言いたかったのでしょう。このEditor's Noteも、感情を辿って書いてみました。「何を」も「誰に」もない文章です。Affectを辿って筆を取り、Affectが変わったことで完了とする。こんな実践もまた「関係論的」と言えないかなと思いながら、ここで筆を置いてみます。