The Project Theory Probe Journal

Issue 12
Sep. 30 2024

自己組織化するプロジェクトを見たい

八木翔太郎

第12回 自律的な包含関係

さて「プロジェクトとは何か」という問いから出発したこの連載だが、考えれば考えるほどに、そこに「プロジェクトがある」とは言えないことが分かってきた。むしろ、それを「プロジェクトと呼ぶ」という実践の結果として組織されている現象のことではないか。事前に「ある」と考えて行為することで結果として「生じる」という意味において、逆説的でありトートロジカルな結論だと言えるだろう。

これまで見てきた通り、日々のありふれた実践に内在しながら、しかも自己組織化を促し、かつ自身も変化していくような「謎の素材」があるとすれば、それはコミットメントだろう。「AはBだ=私はAはBのようにみえる」。コミットメントは小さな単位では観察による区別から、社会的な単位では「名指し」をはじめとする発話や行為、果てにはプロジェクトそのものに至るまで、われわれの認識や行為の隅々に浸透している。

コミットメントが収斂していくことはない (エヴァンゲリオンの人類補完計画などしない限り) 。なぜなら人はそれぞれ観点が異なるからだ。それはプロジェクトの自己組織化において問題にはならない。むしろ、こうしたコミットメントの齟齬はプロジェクトを推進する原動力となりつつ、新たなコミットメントを紡ぎ (学習び) 出していく。

前号では、こうした自己組織化を促進しうる規範について考えてみた。ケアの実践とも呼びうるこの規範は「真実とは客観的事実ではなく、むしろ検証されたコミットメント (これまで我々にはAはBのように見えてきた) に過ぎない」ということに対して素直になろうという呼びかけでもある。それと異なる観点を提供できるのが反証できる時だけというのは、あまりに窮屈だろう (もちろん厳密な科学的検証であれば別だが) 。そうではなく「その人がそう感じているのであれば、それを真実として捉えていこう」という発想によって、プロジェクトは違った自己組織化ができるのではないか。いわゆるプロジェクトを主語 (自己言及) にした論理だけでなく、「私は」に始まる個人を主語 (自己言及) にした論理をも包含して、プロジェクトが発達するようになるだろう。

これを上手く行えば、プロジェクトも個人も同一性が保たれながらドリフトしていく。つまり双方にとって自己組織的に発達していける。このとき両者は互いに包含関係として切っても切れない関係にある (デューイがTrans-activeと呼んだ構造) 。プロジェクトの制約を所与として個人は動くが、プロジェクトもまた個人の観点や知覚・行為の中で進んでいくのだ。さらに言えば、このプロジェクト=個人間の関係は、環境=プロジェクト間にも相似的に当てはまりうる (下図) 。プロジェクトは環境の制約を所与として動くが、環境はプロジェクトによって関係先として立ち現れている。

※互いと「やりとり」をする関係はInter-actional、相互に包含している関係はTrans-actional (図示できず)

このように、環境、プロジェクト、個人が三層で有機的につながり合っているプロジェクトは、世の中にどれくらいあるのだろうか。いずれも自律的でありながら、互いを活かし合っている状態。この連載のタイトルには「自己組織化する様子を見てみたい」という想いの他に、「このようなプロジェクトが増えてほしい」という期待も込められている。どんな実践がこうしたプロジェクトをかのうにするのか気になるのは私だけではないだろう。

さてここまできて、どうも解決されない気持ちがある。それは、言語に偏り過ぎているのではないかという不安である。これはデューイの研究者の Elkajaer 先生や、私に現象学を教えてくれた印部さんから指摘を受けたことでもある。コミットメントについて考えるときに、セラーズやブランダムのように言語を介して理解するのは容易だ。なぜなら、我々は日頃から言語で自分の思考を相対化できるからである。しかし、言語が全てではない。オフリス・アピフェラ (蜂蘭) は言語を使わず、視覚情報を得ることすらなく、マルハナバチの雌蜂にそっくりの姿に自らを進化の末に変形させられるのである。

自己組織化について語ってきたこの連載だが、果たしてどこまでが「自己」なのか、あるいはそれに「言及する」とはいかなることかに答えられただろうか。これを、言語の仕組み (あるいは言説的実践) に頼らず説明できなければ、プロジェクトという現象をしっかりと理解できたことにはならないのではないだろうか。その答えが見つかるかどうかは、次の連載に持ち越してみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(12) 非開示

What’s Love * Got To Do With Intimacy?

Kitty Gia Ngân

Haruma wrote, we have been digging tunnels from different sides of the mountain, yet here we are, finding one another in the middle point. In our PTP home, my life is a wide difference in terms of mother tongue, culture, generation, profession and so forth. Yet I know we share a lingo and walk towards the same direction. If we are different reincarnations of the same being according to Andy Weir’s egg theory, then at least momentarily in this phase of our life, we are recognizing ourselves in each other and "colluding" to probe forward.

At the time that I began creating zines for PTP, I also started reading David Graber. His determination that revolutionary actions must reconstitute our social relations in ways that are different from the domination in which we oppose – lends me the language to grasp one important dimension that bridges our tunnels together: The kinds of project and revolutionary change that PTP probes into, the quality of our intimate life is an important measure of it.

This month’s zine is created from a corner of Kathmandu, Nepal. It was the week that I stayed at an anarchist art residence called Kaalo 101. It was also the week where horrible rains hit the city and took away more than 160 lives – the heaviest monsoon rains in 2 decades. The contrasting dance of togetherness and struggles play its melody within and without myself. It provides the emotional necessity that pushes anyone who walks on any self-actualizing path a serious commitment to optimism. Such a contrast appears in all conversations about love and intimacy.

What’s Love* Got To Do With Intimacy?

  • 54 pages

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ハッカー文化の伝道師 12 クリストファー・アレグザンダー

菊地玄摩

若き日のケント・ベックが建築家を志す学生たちと同じ寮に住んだという偶然によって、ソフトウェアの世界に登場したクリストファー・アレグザンダー。その思想は、業界の顔役であるところのギャング・オブ・フォー (エリック・ガンマ、ジョン・ブリシディース、ラルフ・ジョンソン、リチャード・ヘルム) の手によって、のちに古典となる「オブジェクト指向における再利用のためのデザインパターン」(ソフトバンククリエイティブ) を通じ、コミュニティの精神の奥深くに受容されることになった。数多の伝道師たちを伝承の旅へと出発させる始まりの地点には、建築の世界からやってきたものづくりの精神があった。それは、ハッカー文化が自らの存在とその使命に目覚めるための、鏡だった。

クリストファー・アレグザンダーは建築家であり、「パタン・ランゲージ」として知られる設計理論の提唱者である。1993年に書かれた「時を超えた建設の道」(鹿島出版会) には、新時代を担うべき設計理論を支える、ものづくり哲学がまとめられている。ソフトウェア・コミュニティはそこで語られる、人工物を自然の中に位置づけ調和させようとする態度、優れた創造はひとりの設計者やひとつの制作物を超えて、人類の共有財産として歴史的に形成されていくという信念、そして、ひとにぎりの権力者による急進的なプロセスを拒否する態度に、大いに共感した。

クリストファー・アレグザンダーがソフトウェアの世界で受け入れられたのはなぜだろうか。ひとつは、変更や移動を容易にする可塑性の高さ、というソフトウェアそれ自体の特性によるだろう。設計の基礎的な要素としての「パタン」がくり返し発現することで全体が立ち上がるという設計思想は、物理的な損失を意識する必要がないプログラミングの場面では、現場の感覚と自然に一致できる。もうひとつには、ソフトウェアによって形作られるものが、人々の精神生活においてより大きな地位を占める環境が勃興したという歴史的な状況、つまりインターネットとパーソナルコンピュータの普及が挙げられるだろう。ソフトウェアが原子炉や株式市場などの身体的感覚を超越したスケールにのみ適用されていたとすれば、規模や速度を追求するためのいち技術にとどまっていたかも知れない。しかしインターネットとパーソナルコンピュータは個人の精神生活に寄り添う領域にまで普及した。テクノロジーの頂点に生まれたものでありながら、人の身体や精神という自然と親和的に振る舞わなければ機能できないという点で、ソフトウェアの性質は建築や都市に通じる。

クリストファー・アレグザンダーの描く「マンメイド・ユニバース」の理想は、ソフトウェアによって構築される領域の拡大を背景に、今日の世界において切実に必要で、かつ現実的に目指し得るものになった。しかしその実現は、まだ遙か先にあると言わなければならない。クリストファー・アレグザンダーは、私たちは自然と一体であり、だからこそ「私たち自身の内面から秩序が生まれてくるようなプロセス」(時を超えた建設の道) に従うことが、平凡だが美しく、人を人らしくさせるものを生み出すための道であり、そのためには思い上がりと恐れを捨てなければならないと説く。作り手だけではない。あらゆる人々の理解と励ましがなければ、それは現実にはならない。その永遠とも言える道のりにあって、ハッカー文化の伝道師たちの仕事は、ソフトウェアの世界から始まったひとつの希望なのである。

(了)

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自分本位な複雑適応系

八木翔太郎

プロジェクトと聞いて気後れする人がいる。過去に炎上した経験があったり、減点方式に従った組織に所属している人にとっては外れクジにしか見られないかもしれない。そんな人たちに「プロジェクトを楽しむこと」が最も重要だと伝えたら、どんな反応をされるだろうか。ここに、私が北欧で見た2つの例を挙げてみたい。

1つは、資産運用会社向けの金融ソフトウェアを開発する SimCorp。Googleの20%ルールどころか、ここでは40%もの稼働時間を自分の好きなプロジェクトに費やすことが奨励されている。この組織のアジャイル・コーチと、本社近くで美味しいコーヒーを飲んでいる時に、初めてそのことを聞いたのだが目の前のビルが輝いて見えたのを覚えている。

もう1つは、Stockholm Resilience Centre 。ここはサステナビリティという非常に大きな目標に向かって研究者が学際的に協業している研究機関だが、あえてゴールを掲げていないし、全体整理をしようともしていない。研究者は自分本位で好きなプロジェクトに参画しているのである。週一のランチミーティングでは、学際的な研究プロジェクトが各々ライトニング・トークのように進捗報告やメンバー募集を呼びかけている。

なぜ、こんなアプローチをとっているのか。そして、それで果たして上手くいくのか不思議に思ってしまう。優秀な人材確保のための働きやすい文化設計ではなかろうかと。しかし彼らは、わざわざこうしたアプローチを取っているのである。前者はイノベーション、後者はサステナビリティ。SRC のTilman Hertz 氏は「自分の仕事がもたらす成果なんて分かりっこない!」と笑い飛ばしていた。もしかすると、いわゆる計画や優先順位に従っては遂行できないような複雑なプロジェクトに、自分本位 (want) は不可欠なのかもしれない。

複雑なプロジェクトとは、プロセスどころかASIS/TOBEもわからない可能性すらある。つまり、多様な観点を武器として、予期できない課題に即興で対処でき、各自の守備範囲を超えて背伸びして学習をしていく必要がある。こうした対応が求められる環境下で、メンバーのエンゲージメントなしに進めることは非常に難しいだろう。

Stockholm Resilience Centre では頻繁に「複雑適応性 (Complex Adaptive System) 」という言葉が使われていた。そして、自分たち研究者のグループもまさにそれ (CAS) なのだという。個々人が相互作用することによってより複雑な現象に適応しているという考え方。確かに、自分らしさや自分の Want は少なからず社会のそれを代表している側面がある。たとえば、魚を食べるのが好きな自分は社会のそうした声を代表しているし、教育分野にやり甲斐を覚える自分は教育の持つ社会的意義を代表している。全人格を持ち込んだ個が、好きに相互に協業してプロジェクトを起こすことで、全体として複雑性に適応している状態となっているのではないか。

ただし、これは誰もができることではない。全てを持ち込んだら相容れない矛盾が沢山生じるはずだ。Simon West 氏は「理論的に相容れない研究者とも協業できる」と語っていた。そこには彼の言うところのケアの実践があるはずであり、安全な場が確保されていることだろう。それがどんな実践なのか、色んな現場の知恵を集めてみたいものである。

今月の一冊: Leadership on the edge by ウッフェ・エルベック

八木翔太郎

この本は学術書でもビジネス書でもない。自伝だ。それでいてプロジェクト (特にその社会的な側面) について雄弁に語っている。Uffe Elbaek はデンマークのビジネススクールであるカオスパイロットの創始者、元デンマーク文化大臣、緑の政党 The Alternative の発起人だ。本書を手にとって読み始めたのは、コペンハーゲンからオーフス (デンマークの第2都市) に向かう長距離列車の中だった。没頭してしまったあまり、電車が当初の掲示とは異なる方向に向かっていたのに気づかずに、引き返したり乗り継いだりするハメに。昼過ぎに着く予定が、人影もまばらな夜遅くに到着したのは良い思い出だ。本書のおかげでで晴々しい気持ちでオーフスに降り立ったのを覚えている。

本書の原著は2010年出版であり、まさに彼が国会議員として出馬する時期に重なる。彼の履歴書であり信条の表明とも読める本書は、彼のキャリアが不況下に職にあぶれた若者を支援をするソーシャルワーク (なんとサーカス団を創り上げている) から話が始まっている。冷戦下のソ連に3000人の若者を率いて侵入してモスクワで3日3晩の野外クラブを開く (Next Stop Soviet) 経験を通じて、そのようなソーシャル・ムーブメントのやり方を教えるカオスパイロットを創設して奮闘する話、LGBT を含め全ての人を対象とした国際総合競技大会である Outgames の代表を勤めて、最終的には政治家になるまでの決意と半生を語っている。

ビジネススクールとして受賞していたり、デザイン思考の文脈で脚光を浴びていたカオスパイロット。少なくとも私にはそう見えていたのだが、その出自が、草の根のアクティビズムにあったということを知って新鮮な驚きを得た。Uffe は終始プロジェクトという言葉を用いているが、それは通常と2つの意味で異なっている。

まずは、メインストリームに対抗するものとして位置付けている点である。タイトルの通り Edge (辺境) に位置する人のことを「クリエイティブ・アウトサイダー」と呼んでいる (彼自身もその1人と自認している)。しかしながら「部外者」という名にもかかわらず、彼らがもたらす文化的な草の根的プロジェクトは、組織、会社、都市や社会のアイデンティティにとって不可欠なアイデンティティをもたらスノである。 (「ヒッピー」コミュニティのクリスティアニアなしにコペンハーゲンを考えられるだろうか。作家やロック、パンクのないロンドンは?) 一方で、彼はクリエイティビティを起業家精神とも結びつけている。こうした人々が実践するプロジェクトはメインストリームから外れながらも、社会課題や停滞した景気を解消しうるのである。

次に、社会空間の発達の起点として位置付けている点だ。例えば都市空間はこんな具合に文化的発達を遂げる。安い地価や文化的寛容が相まって、まずはアーティストや社会・政治的活動家が集まってプロジェクトを行う。次に、文化的起業家が近隣をリノベートし興味深い生活空間が出来上がる。そうして、文化的に関心の高い中流層が集まり、最終的には高級住宅などが立ち並び上流層が集まるが、もうその頃にはアーティストや活動家は次の場所へと移動しているという具合だ。こうした文化的な都市発達の軌跡は、商業主義的な都市開発 (高速道路のネットワークを敷く等) と対照的だ。いわゆるプロジェクトにもこうした対照を描くことができるかもしれない。商業的なプロジェクトを後者だとすると、Uffe は常に前者の文脈においてプロジェクトを語っているのである。

とはいえ、本書では「クリエイティブ」ということの意味があまり語られていない。もちろん彼のプロジェクト全てがそうだから自然なことではあるが、考えてみる余地はあるだろう。そして、「クリエイティブ」と本書後半で語られる「サステナビリティ」や「多様性」はどのように繋がってくるのだろうか。

ここからは仮説であるが、プロジェクトは本当に社会の「辺境」にあるのではないか。例えばルーマンは社会システムが二値コードで作動することを説明した。適法/違法、真/偽、出来る/出来ない、などあらゆる二値コードのシステムへと機能分化している社会システムだが、その最も根源的なところは「ある/ない」という区別だろう。ここでは「 (馴染みが) ある/ない」と表現した方が分かりやすいかもしれない。

どのように馴染みのないものが、馴染みのあるものになるのか。それは可能性の1つでしかなかったことが事実として経験されることを通じてだろう。プロジェクトはまさにこのプロセスの1つなのではないか。不可能を可能にする革新的なプロジェクトは、これまで社会に存在しなかった概念と可能性を既成事実化する。言い換えれば、これまで社会の外側にあったもの (人が忘れた自然環境や多様性) を内側へと取り込む機能を負ってるとは考えられまいか。もしそうならば、プロジェクトは言葉通り、社会の内外の境目 (辺境) に位置しているのである。

こうして考えれば、本書が縦横無尽に描いている、クリエイティブ、社会、政治、都市、サステナビリティ、アクティビズムが繋がってくる気がしてくる。読み終える頃には、単なる「ゴールの達成」というニュアンスでかたられるよりも、より豊かで広範なプロジェクト像が浮かび上がってくるだろう。

このごろの Project Sprint

賀川こころ

プロジェクトの「本筋」と「それ以外」

Project Sprint では、プロジェクトにおいて生み出されるものは、ステークホルダーが認識する便益としての「価値」 - プロジェクトチームが生み出す所産としての「成果」 - 個々のメンバーが産出する作成物としての「出力」、という構造を基本としています。この構造に従って、目的達成までの過程をシンプルに時系列で表現したプロジェクトストーリーが設定され、プロジェクトストーリー上には成果がプロットされていきます。しかし、具体的な行動レベルにおいては、必ずしも成果に明確に結びつくと言い切れない出力に取り組むこともよしとしてきました。

プロジェクトを筋道の立ったストーリーの形で捉えることは確かに必要です。それによってプロジェクトの流れが可視化されチーム内外へ共有可能になるとともに、プロジェクトチームが次の行動を決定しやすくなるからです。しかし、このいわば「本筋」のみを見ることで、すべての活動をゴールへのステップとして捉えたり、現時点でゴールへのステップとして意味づけられない活動を無価値だと考えたりしてしまっては、取りこぼしてしまうものがあまりに多くなります。

そもそも活動の本当の意味や意義は、自分自身も事後的に、しかも他者との対話を経る形でしか認識できないものです。自身がこれから行うべき活動の意味をプロジェクトの「本筋」に位置するものとして把握したとしても、それはあくまでその時点でチームで合意し納得した仮初の解釈であり意味づけにすぎず、今後 (より「本筋」方向へもより「それ以外」方向へも) アップデートされうるものです。逆に、現時点で「それ以外」に思える活動も、取り組んでみれば「本筋」をアップデートする材料が得られるかもしれません。Project Sprint の構築チーム内でも、雑談的に取り上げたトピックが非常に重要な示唆を含むことに後から気づいたり、ここ数年それぞれ単体で散発的に会話されてきた複数のトピックが思わぬところで1点にまとまったりするという経験を得てきました。

実際の世界とは相対主義的・個人主義的なもので、誰もが世界に対する固有の解釈を持ちます。しかし、実証主義的・全体主義的な認識が存在しなくては、プロジェクトやチームというものを成立させること自体が難しくなります。それぞれのメンバーが固有の解釈でプロジェクトを取り巻く物事を眺め、プロジェクトストーリーに落とし込みきれていない「それ以外」の範囲も含めて咀嚼した上で、必要な部分を本筋であるプロジェクトストーリーに還元し共有してゆくことが、適切な分化と統合のありかたでしょう。

これは國分功一郎が「目的への抵抗」第一部の冒頭で述べている、「ものすごく近くにある課題とものすごく遠くにある関心事の両方を大事にする」 (思い通りにならない中間的な領域のことは都度アップデートしていく) ということ、そして個人にあっては「短期的な課題を一つ一つこなしていくと、課題で求められていたこと以上の何かが身につ」くということにもつながるといえそうです。

Editor's Note

菊地玄摩

Project Theory Probe Journal が始まってから1年が経ちました。Issue 12 は 1st Season の終わりということになります。1ヶ月の準備期間を経て、Issue 13 は新しい連載とともに戻ってきますのでご期待下さい。

Project Theory Probe を始めるとき、Project Theory を可能にする能力をもって、Project Theory を追い求めると宣言していました。この1年間、私たち Project Theory Probe がどのようなチームだったかといえば、メンバー同士の違いを原動力にし、理解が及ばないものがあることを受け入れ、想定していなかったところまで行ことを楽しむ、そしてそのことについて自覚的なチームだったと自負しています。実際にやれるという実感をもちながら「それ」について書く体験は、非常に楽しく、充実したものでした。ここまで読んでくださった皆さまにとっても、何か発見のある旅であったなら嬉しいです。

Project Theory Probe の 1st Season は何だったのか。ひとことでまとめるのは難しいですが、それは、プロジェクトを何かに従属する立場から解放することについて、さまざまな方向から語る挑戦だったように思います。良い意味で一人歩きをする空間には、創造的な力が宿る、という視点です。

そしてその難しさもまた、12回にわたって各記事によって語られた話題の数だけある、ということになります。そこには世界の保持者のひとりになる、創造する主体として振る舞う、チームの肯定から出発する、結論を先取りしない、といった、恐れを捨て、勇気を持つことを当事者に要求するものが多く含まれています。人に備わった自然の力を引き出すことは、自らの内面にその存在を信じることを通してしか始まらない。これは真実であるように思いますが、簡単でもないことは明らかです。

そしてもうひとつ、いかに勇敢であろうと、当事者自身の力だけでは克服できないものがあることも、ここまでの議論で予感されていることだと思います。クリストファー・アレグザンダーは「時を超えた建設の道」の中で「人が活き活きとするのは、ひたむきな気持ちで、自分に正直で、自己の内面の力に忠実で、自分のおかれた状況に逆らわずに自由に振る舞える時である」「このような状態は、内面的な努力だけでは達成できない」と語っています。中庭に通じる窓は、その自然なありようとして人々を活き活きとさせる。しかし、「窓が単なる壁の"穴"にすぎない場合、人びとに解消不能な内的葛藤をもたらす」というのです。

人々が勇気をもって、未だ知られていない状況を引き受け、前に進もうとするとき。その人々を支える環境と、その身体の動きや思考を可能にする道具は、チームがその可能性に到達するために不可欠な要素にも、不本意な撤退に追い込まれてしまう原因にもなり得ます。実践、それを支持するものの作用について知り、あるべき態度を手に入れることは 2nd Season の大きな挑戦になるでしょう。

10月末の Journal はお休みです

毎月発行の Journal ですが、10月末の発行はありません。編成を新たにして11月末に再開します。Issue 12 までの12回を Season 1 として振り返る企画も予定しています。ご期待下さい。

ウェブサイト

毎月の Journal は Project Theory Probe のウェブサイトにアーカイブされます。Project Theory Probe の活動場所である GitHub や Digital Garden へのリンクなども提供しています。

ptp.voyage

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