The Project Theory Probe Journal

Issue 15
Jan. 31 2025

「もつれる」プロジェクトを見てみたい

八木翔太郎

第3回 Bacterial Sex

前号はダナ・ハラウェイを通じて、本連載を「プロジェクトをシンポイエーシス的に捉える試み」と呼ぶに至った。だがオートポイエーシス (自己創生) に対して、シンポイエーシス (共創生) とは何なのか。分かるようで分からない。オート (自己) と呼ぶほどは同一性がないが、互いの存在なしには創生できないと言えるくらいにはまとまりを持つようなダイナミズム。この「まとまり」はホロビオント (holobiont) と呼ばれるが、必ずしも閉じていることを意味しない。むしろ開かれているからこそ互いに創生するという関係性が構築できるのだろう。では、この互いに創生し合うというのはどのような状態なのか。「互い」はどのように選択されて関係が取結ばれるのか。微生物の世界を例に確認してみよう。

リン・マーギュリスとドリオン・セーガンは微生物 (microbes) が互いに影響を及ぼし合いながら超個体として振る舞うまとまりを小宇宙 (microcosm) と呼んだ。小宇宙の中で微生物は確かに互いに生きる環境を提供し合って共生している。これは数々の微生物が役割を果たしている人の細胞を見ても明らかだろう。また「小」宇宙とはいえ地球規模で共生が生じていることもあり得る。例えば、水 (H2O)から水素(H)を取り出すことを可能にしたシアノバクテリアの先祖は、一方で酸素ガス (O2) を発生させて当時ほとんどがそうであった嫌気性生物を「大量虐殺 (酸素ホロコースト) 」してしまった。しかし、やがて酸素の反応性の高さを逆手に取って、シアノバクテリアは酸素を使って効率良くATPを生み出す「呼吸」という新たな機構を生み出すことにより、いまの地球のように酸素濃度が保たれるようになる。地球の歴史を紐解くと、多くの生物が生き存えることができるこの大気や環境は (微) 生物自身によって生み出されていることに気付かされるだろう。

しかし、共生と創生は異なる。互いを生かし合うのみならず、互いを「創り合う」とはどういうことだろうか。例えば、DNA は生物の発現を司っているが、これが種を超えて相互に交わるとしたら「創り合う」と形容できるだろうか。マーギュリスらは細菌的セックス (bacterial sex) が動物のそれと大きく異なることを指摘している。太古の微生物は、強力な紫外線という厳しい環境を生き延びなければならなかった。紫外線による遺伝子破壊は致命的だったため、破壊された DNA を修復する機構を生み出す必要に迫られた。修復酵素は近くの DNA 素材を用いて破壊された箇所を修復するのだが、時に自らの DNA ではない他の微生物や細菌の DNA を拝借することがあり、このとき修復後の DNA は修復前と同じではない。つまり遺伝子が組み変わっているのである。有性生殖では自己複製を通じて世代的に同種と入れ替わる遺伝子が、細菌性セックスでは自己複製と関係なく同じ個体が全く異なる DNA に組み代わる。しかも、時には80%の遺伝子が入れ替わるということもあり得るのである。このような観点から、正確には細菌の世界では「種」という概念は存在しないのだという。まさに互いを創り合う関係性だと言えるのではないだろうか。このお陰で微生物あるいは小宇宙は驚くべき柔軟性で厳しい環境への適応を成し遂げてきた。

この細菌的セックスは、奇妙なほどプロジェクトの様相と重なる部分がある。例えばプロジェクトの重要な側面を説明している活動理論 (CHAT) によれば、活動は自身の「矛盾」を解消するためにアブダクティブに新たな媒介物と関係性を取り結ぶが、それは活動システム内の既存の媒介物との軋轢を生み出して、活動システム全体の発達を促すこととなる。ここで「矛盾」を DNA 破壊、「解消」を修復、「新たな媒介物」を他の微生物の DNA、「発達」を突然変異と読み替えれば、どうだろうか。活動システムの発達が、紫外線という厳しい環境への適応として編み出され、微生物の進化の歴史を一変させた「セックス」と似ているのは非常に興味深い。確かにプロジェクトも「外」のモノを取り込んで自身を変容させ続けている。

さて今号は、シンポイエーシス (共創生) とはどういった状態なのか、その解像度を高めるべく駆け足で微生物の世界を覗いてみた。強引にまとめるならば、シンポイエーシスとは、自らの同一性を保つために他者を必要とする一方で、他者を取り込むが故に同一性が保たれないという、逆説的な個体の生き様に別の表現を与えたものなのかもしれない。ここで「共に創生する」といったときの「共に」する相手は、遺伝子破壊や矛盾を修復できるという「有用性」によって選ばれている。シンビオティックな世界とは、ある種とてもプラグマティックな世界なのかもしれない。

では微生物以外にもこのプラグマティックな世界は広がっているのだろうか。次号は、理論生物学と生物数学の創始者であり、低次 (モノ) から高次 (文化) まで通底する原理を探究したブライアン・グッドウィンからヒントを得てみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(15) 遠近感

実践!プロジェクト推進のコツ

定金基
一旦、無邪気に線を引きますね!

まず、この連載の背景にある原則を説明する。私にとって当たり前にすぎていて、説明不足だったことにいまさら気づいた。

私は今後の社会情勢を考えると「プロジェクトのみんな化」が、プロジェクトを進める上での原則だと考えている。
みんな化 (everyonization) はもちろん造語である。

VUCA・TUNA・BANI… これからも予測できない社会でありつづけるという略語は増えるだろう。そんな社会であるからこそ、社会に影響を当然受けるプロジェクトももちろん、社会と同様に予測できなくなりつづける。
そんな中でプロジェクトが成果を出すためには、自発的な個人活動があつまり、自律したチームの意思を軸として、チームが現状において考えられる最もマシだ!と直感が働く方向に、プロジェクトを推進しつづけるー小さくアクションして、その結果により方向性を修正しつづけるーことが必須になる。
またこの行動習慣は、方向性を修正し続けるサイクルを、できるだけ短期・定期に繰り返すことが前提になければ成立しない。その繰り返しはサラスサラスバシー先輩の提唱するエフェクチュエーションの1つの原則である"許容可能な損失"を意識したものになるだろう。

この「プロジェクトのみんな化」状態に遷移してプロジェクトを進めるためのヒントを、特に定期的な対話のコツを、この連載では紹介していきたいと考えている。

さて本題である「一旦、無邪気に線を引きますね!」の紹介に移る。対話が膠着したときに、短時間でその場を活性にすることができ、素早くみんなの納得を得るコツである。

コツが生まれた背景から紹介しよう。

学生時代にはいろんな制約がありランチの場所選びに時間がかかることが多かった。ランチの時間はきまっているのに、話してもいつまでたってもいお店が決まらない。そんなときに、私がよく使っていたハックは、よく行くお好み焼き屋「よっちゃん」を提案してみることだった。

私「だったら"よっちゃん"に行こうよ」Aさん「えーまた?だったら"ひで"がいいな」Bさん「昨日も似たようなものをたべたから"三好"がいいな」

とりあえず"よっちゃん"を選択肢に出すと、議論が活性化して、納得のお店選びが素早くできた。「えーどこにする?」と議論が進まない状態にはならなかった。

こんな他愛もない大学生のランチ決定を具体例としながら、ファシリテーションでも同じようなことをしていないか?とりあえず納得できる合意形成のコツがあるのではないか?と仲間と議論していた。そのときに海外でも同様の考え方を展開しているひとがいる、と教えてもらった。それが"マクドナルド理論"だった。

I use a trick with co-workers when we’re trying to decide where to eat for lunch and no one has any ideas. I recommend McDonald’s.
An interesting thing happens. Everyone unanimously agrees that we can’t possibly go to McDonald’s, and better lunch suggestions emerge. Magic!
It’s as if we’ve broken the ice with the worst possible idea, and now that the discussion has started, people suddenly get very creative. I call it the McDonald’s Theory: people are inspired to come up with good ideas to ward off bad ones.

(DeepL による日本語訳)
昼食にどこで食べるか決めかねていて、誰もアイデアが浮かばないとき、私は同僚にあるトリックを使う。私はマクドナルドを勧める。
面白いことが起こる。マクドナルドに行くなんてありえないというのが皆の一致した意見で、もっといいランチの提案が出てくる。マジックだ!
まるで最悪のアイデアで氷を割ってしまったかのように、議論が始まると、人々は急に創造的になる。私はこれを「マクドナルド・セオリー」と呼んでいる。人々は、悪いアイデアを追い払うために、良いアイデアを思いつくようになるのだ。

マクドナルドがだいぶ不名誉に使われているが、著者である Jon Bellさんにとってはそんな存在だそうなので仕方がない。
ちなみに私は"よっちゃん"が大好きでずっと食べつづけても良いお店だったが、友達にとっては、頻繁に通っていたので飽きていた、毎日行く味付けではない、という印象だったのだろう。とても美味しいお店なのにJonさんでいうマクドナルドと同様に機能したのだと信じている。

The same goes for groups of people at work. The next time a project is being discussed in its early stages, grab a marker, go to the board, and throw something up there. The idea will probably be stupid, but that’s good! McDonald’s Theory teaches us that it will trigger the group into action.
It takes a crazy kind of courage, of focus, of foolhardy perseverance to quiet all those doubts long enough to move forward. But it’s possible, you just have to start. Bust down that first barrier and just get things on the page. It’s not the kind of thing you can do in your head, you have to write something, sketch something, do something, and then revise off it.

(DeepL による日本語訳)
職場のグループも同じだ。今度、あるプロジェクトが初期段階で議論されるときは、マーカーを持ってボードに向かい、何かを投げかけてみよう。おそらくそのアイデアはくだらないだろうが、それがいい!マクドナルド理論は、それがグループを行動へと駆り立てるきっかけになると教えている。
前進するのに十分な時間、すべての疑念を静めるには、並外れた勇気、集中力、無鉄砲な忍耐力が必要だ。しかし、それは可能だ。最初の壁を打ち破って、とにかくページに書き出すこと。何かを書き、何かをスケッチし、何かをし、そしてそれを修正する。

この"すばやくみんなが納得できる決定をするために、とりあえず好ましくない選択肢を決定案として提案することで議論の活性化を促す"のアプローチを会議に応用したものが、今回の「一旦、無邪気に線を引きますね!」というファシリテーターのセリフととりあえずえいやっと線を引く行動である。

ある会議で、とりあえずみんなからいっぱい付箋が出てきた。不明瞭な部分は質問することで解消できた。親和性が高いものを集めて島にすることもできた。参加者からも不満はでていない (ようにみえる) 。
でもなぜか次のアクションが決まらない。誰も何も言い出さない。みんなが様子をみている。
そんな状況にあなたも遭遇したことはないだろうか。私は頻繁に「みんなですすめていきたいが…次どうしよう…誰か何か喋ってくれ…」と冷や汗をかいていた。

「ではどんな決め方にするのか、みなさんで決めましょう」というセリフとともに、決め方を決める方法も民主的で丁寧でよい。だが、活用できる状況は限定的だ。参加者から決め方を提案してもらい、決め方を決めて、その決め方で次のアクションを決める。もはや「決」が多すぎてゲシュタルト崩壊しているが、とても時間がかかってしまうことは想像に難くないだろう。そして参加者が決め方の選択肢や、それぞれのメリット・デメリットを理解していることはすくないだろう。かといってファシリテーターが決め方を勝手に決めるのも「みんな化」を推している私としては気が引ける。

場の空気が硬直してしまったときには一旦無邪気に、大胆な線を引いてみよう。貼られた付箋の間にペンで線を引いてみよう。大胆の程度は、なんであなたが勝手にこんなこと書いてるの?と非難されるぐらいを目安にするとよい。大胆な線を引くことによって、みんなの創造性が発揮できる環境がすばやく訪れる。私は何百回もその線を引いてきて怒られたことはないが、何もわかってないんですね…と呆れられたことはある。だがその後にチームによって素晴らしい出力がもたらされた。

ちなみに線とはなにかを区別するものの象徴である。なので線を引く以外でも、たとえば選択肢から勝手に1つを選んで提示することでもよい。その場に気づきがでるような提案を行うことが大事だ。

プロジェクトにおいては、誰からも何もアクションが起こそうとおもえない状況は避けたい。チームに気づきがうまれやすくなり、それをもとにいまチームが考える最もマシだ、とおもう方向にまず小さく動いてみようと納得できる状態が望ましい。
あなたの無邪気な線が引かれることで、気付きがうまれ、議論が活発になり、みんなが納得できる次の小さなアクションが出力されるだろう。そこから、このメンバーと一緒ならマクドナルドだろうが何をたべても美味しいランチになるぞ、とおもえるチームになるだろう。

本文中の全ての引用元 McDonald’s Theory

THE ARCHITECTURE OF INTIMACY

In-Visibility and In/Visibility: Toward a Practice of Relational Embodiment

Kitty Gia Ngân

Laying the foundations to talk about intimacy, where intimacy is the process of making oneself be seen and known, whether by oneself or another. My last article introduced some bio-psychological foundations, such as neural entrainment, in achieving this state of seeing, thus, intimacy. In this journal, I want to introduce in/visibility and in-visibility, which are the materials that enable the Architecture of Intimacy.

From Hanging-Out to Research and Resistance

From my teenage years, I developed a peculiar interest in going around the city and talking to strangers. The habit started when I had to take long bus rides across town to set up a classroom for underserved children with a former teacher. Through repetition, I stumbled upon ways to engage in deep and genuine dialogues with many strangers.

This seemingly random skill became a methodology after my first year of college. At the time, I was sent to Japan for an honorary research program amongst students who were my seniors, thus, I received little instructions on how to conduct an interview. I then improvised my own approach for immersive observation, which translated to… hanging-out with my "subjects" and being friends. Formal interviews felt too insensitive for me. Only later did I discover that anthropologists also don’t "conduct interviews", they instead "hang-out deeply" and develop genuine connections with the communities they study, moving away from the exploitative and transactional nature of traditional social research. Within 20 minutes of learning this, I sent a letter to the university and switched my major to Anthropology.

The practice of seeing all beings not as subjects–mere passive receiver of our desires, needs, perceptions– but as their own respected entities is at the heart of decolonial activism.

In-Visibility: The Practice of Seeing

Being a social human means always navigating hierarchical implications in social interactions. Our sociality is structured by power, whether acknowledged or not.

For example, in a formal interview, the power dynamic favors the interviewer, who is in control and extracts knowledge without reciprocity. The interviewer remains hidden–invisible– while inquiring exposure–visibility– from the interviewee, reinforcing extractive knowledge production. To resist this implication of power which naturally creates dis/empowerment, it does not help by pretending that the hierarchy and biases don’t exist. We must make the biases known (at least to ourself) and actively work towards a place of mutual engagement. The ethics of care, then, becomes an active practice, where one is always resisting and consciously negotiating the status-quo by being aware and making aware of.

  • Being visible is to be seen, transparent, conscious, awake, alive.
  • In-Visibility is the proactive process of stepping into visibility (being visible) while simultaneously co-creating the space for mutual visibility. Given the histories and sociality of exclusion and oppression, achieving In-Visibility must actively disrupt existing power hierarchies.

The heart of today’s anthropological practice is this intentional practice of care, acknowledging the exploitative culture of our current social interactions. We reach insight through embodied and lived knowledge, not "studied" from an "objective", outsider’s point-of-view. In other words, anthropologists practice seeing people as they see themselves, rather than imposing an outsider’s framework.

The Shift in Anthropology: from Exploitation to Care
One-sided visibility Reciprocal visibility
Extraction Mutual engagement
Interview Deep hang out
Objective observation Immersive participation
Learned through the mind Learned through embodied experience
Extract knowledge from the subjects Develop a genuine and ethical relationship with the community
Knowledge achieved through predefined research questions and goals Insights emerge naturally through engagement and (ontological) understanding
Benefit the power status-quo Resist the power status-quo

In/Visibility: The Site of Resistance, Negotiation, and Care

In/Visibility is the fluid state of being seen/unseen, recognizing that visibility is shifting and dependent on power, perception, and agency, or the lack of.

  • The slash ( / ) in In/Visibility follows the logic of Dis/Ability in Crip Theory and Critical Disability Theory, marking the tension between being seen and remaining unseen, showing that these states are fluid rather than fixed or mutually exclusive, and what's visible or invisible depends not so much on choice, but on the structure of power: who's given visibility (e.g. "beauty"), what is usually silenced or rendered invisible, and so on.
  • Some forms of visibility come with power and recognition, while others come with surveillance, scrutiny, or negative vulnerability (e.g. disabled bodies are usually a site of attention). In/visibility must be navigated intentionally and consciously, in ways that negotiate and resist on the basis on Care.
  • In/Visibility is the foundation of human's intimate/public lives and identities, how do we bring back agency to the site of In/Visibility?

Who gets to be desired? Who gets to be unseen? Who dictates the meanings of what they see?

When we resist the hierarchy which pre-exists in all social interactions and dictates what's invisible and visible, essentially, we are reconstructing In/Visibility and practicing seeing:

  1. We practice seeing another person for who they see themselves.
  2. We practice co-creating a site where others can easily see and reveal themselves.
  3. We practice spotting (our) existing biases, thus, no longer being distorted by them.
  4. We recognize the fluidity, power implications, and political complexities inherent in visibility. Thus, we negotiate this politic consciously.

Keeping a connection transparent for intimacy is active– it is labor, and is the foundation of the Ar(t)chitecture of Intimacy.

南の島の Project Sprint

賀川こころ

第3回 ハレの日、ケの日

第1回でも述べたように、ここ小笠原諸島と本州を結ぶのは6日に1便の定期船おがさわら丸のみである。曜日で日にちが指し示されることはほとんどなく、おがさわら丸の父島への入出港を「1航海」という単位として、入港日・入港翌日・出港前日・出港日・出港翌日・入港前日という一連の表現が用いられる。それぞれの日ごとに、一定のタイムテーブルに沿って一定のルーティンが習慣化される。このサイクルの中で経験を積めば積むほどに、固定化された習慣が身につき、機械的な反復行動だけでも最低限は事足りるようになってゆく。島民にとっては、あくまでも連綿と続く6日単位のサイクルの中のケの日々だ。

他方、観光で訪れる人にとって、この南の島で過ごす時間は紛れもなく非日常そのものだろう。平生の生活の場と大きく異なる美しい風土の中で、見るもの経験するものすべてが目新しく、ハレの日として長く記憶に残るものになるかもしれない。否、小笠原の海を案内するガイドという個人的な立場からは、そうなってほしいと願っている。この島が、どこまでもついてくる祝祭になってしまった人のことも、何人も知っている。

けれど、観光客だったころのわたしは、この島を待ち望んだハレの日の舞台として年の数日を過ごすことにじきに飽き足りなくなってしまった。おそらくは、この島を瞬間的な非日常として消費したくも、祝祭として日常から逃れるための手段にしてしまいたくもなくなったのだろう。だからといって、この島のケの日のサイクルにただ埋没していきたかったわけではない。この島を、行動できる当事者として生きたかった。

Project Sprint における習慣とは、行動の土台となるものである。アイデンティティの一部と言えるまでに血肉化された習慣が、初めて遭遇する状況においても最善の一歩を踏み出す糸口となる。行動しつづけることが、環境の変化を捉えつづける最善の手段となる。

島に移り住んでからのわたしが、日々変わりゆく自然をフィールドにできたことは幸せだったと思う。明確な四季のないこの島ではあるけれど、空の色も海の青さも風の匂いも夕焼けの彩度も、出会える生き物たちもその行動も、日ごとにまるで表情を変える。変わりつづける環境の中、否応なく訪れる6日単位のサイクルの中のルーティンが、わたしを行動させ変化させつづけてくれた。そこにおいて習慣とは、わたしにとって非常に創造的なものだった。

この島に、そして自然の中における習慣とは、ありふれたケの日に潜む、毎日見ているからこそ気づくことのできる小さな違和感を something special として見出し愛おしむための土台になるものではあるまいか。習慣があるからこそ、イレギュラーを検知しそれを適切な場所に位置づけたり意味づけたりすることが可能になる。観光客に自然解説を行うインタープリターは、そういう役割を担っているのだろう。自身がハレの日を生きつづけることは好まなかったけれど、誰かのハレの日の祝祭に小さな華を添えつづけることのできる仕事は悪くない。インタープリテーションは単なる一方通行の解説ではなく、自然と人との仲立ちをする通訳者でもある。自然の中の小さな発見を通訳と対話によって他者と分かち合うことができるからこそ、わたしの目に映る世界はさらに変容し、意味を増していく。

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今月の概念

八木翔太郎

トンネル開通

  • Project Theory Probe では各々の探査 (Probe) 活動を「トンネル」という比喩表現で形容することが多い。それはこの言葉がProbeをしている感覚を上手く表現してくれているからだ。
  • トンネルには窓がないため、どこを掘り進んでいるのか把握するのは容易ではない。さらに掘り進めるのは敷かれた道を歩くよりずっと困難だ。柔らかい土ならまだしも、もし硬い岩盤にぶつかろうものなら、迂回するか打開するしか進む方法はない。「トンネル」という言葉は探査 (Probe) がそうした孤独で愚直な歩みであることを再認識させてくれる。
  • 一方で「トンネル視野 (Tunnel Vision) 」という言葉もある。窓のないトンネルに居続けることは視野狭窄に繋がり「自分と異なる他の可能性を考慮しようとしない姿勢」を生み出す危険性もあるだろう。トンネルを掘りたいが、視野も広げたい。
  • このジレンマを表現した逆説的概念が「トンネル開通」である。両者は両立するのではなかろうか。この言葉が使われるようになった時期と、Project Theory Probe が発足した時期が重なっているのは偶然ではない。まさにトンネルが開通したことをきっかけとして Project Theory Probe は発足しているからだ。
  • 具体的には、その当時の2023年頃、菊地さんはプログラマがどのように (準) 自然に対峙しながらプロジェクトを問い直していくべきか、どのように人々の主観的な認識が擦り合うのかを事例やプロトタイプを通じて探究していた。一方で、八木はどのように言説的実践がプロジェクトを生み出しているのか、組織や社会環境などの抽象的なレイヤーも含めてメンバーの共通認識となるためには何が必要なのかを考えていた。
  • プロトタイプによる検証と理論探究という全く異なるトンネルを掘り進めていた両者だが、対話の中で浮かび上がってきたのが「名指し」という概念だ。名指すというのは、行為でもありながら実践でもあるという特殊性を持つ。この不思議な概念を見つけてからは、互いの探究が補完し合う感覚が加速度的に高まった。まさに「トンネル開通」である。この辺りの経緯は第1回 Meetup! で語られているが、これを機に Project Theory Probe に向けた確信が高まったと言っても過言ではないだろう。
  • 実際、1st Season (Issue #1 - 12) で「名指し」という行為は直接言及されることこそ少なかったが、ハッカーの伝道師を紹介するという連載、その締め括りであるクリストファー・アレグザンダーのパターン・ランゲージ、自己組織化するプロジェクト連載で語られた言説的実践ケアの実践などの通奏低音となってくれている。
  • Issue #8 から Project Theory Probe に参画している Kittyさんも「トンネル開通」について触れている通り、職業・文化・世代・国籍を超えて共に探究できることは実に驚くべきことだ。彼女が本Journalで執筆してきたZineである「Making Fuss」「Daring to Archive」「Knowing the Warewolf」もまた、「名指し」という概念を用いながら新たな視座/存在論を切り開いている。彼女は現代的な (植民地主義的で限定的な) 語りを超えて愛や親密性の定義を拡張する取り組みの中で、規範や搾取に抗ってあらゆる存在や在り方にとっての安全な場を守ることを擁護している。さらには、この拡張版の愛や親密性について議論するための共通言語(shared language) を生み出そうとしているのである。彼女が文化人類学的観点から掘り進めている「トンネル」は、すでに様々なレイヤーで他メンバーのトンネルと開通しつつある。
  • Issue #13 から始まった 2nd Season では、賀川さんも小笠原でイルカと泳ぐバックグラウンドを持ち込んだ連載を開始し、定金さんも「みんな化」という造語を用いながらメンバーが自律的にプロジェクトを推進するためのヒントを紹介している。
  • Project Theory Probe は、これからも「開通」する予感を携えながら様々な「トンネル」が並走するだろう。もし、これを読んでいる皆様の「トンネル」もここに開通するのであれば、ぜひ Digital Garden を訪れてみていただきたい。

Concept of the Month

Shotaro Yagi

Tunnel Opening

  • In Project Theory Probe, individual exploratory activities referred to as "probes," are often described using the metaphor of a "tunnel." This is because the term "tunnel" effectively conveys how it feels like to probe.
  • Since tunnels have no windows, it’s not easy to locate where you are digging. Digging a tunnel is also much more difficult than walking a paved road. We should be creative dealing with the soil, let alone a hard bedrock. There is no choice but to either bypass or break through it. The term "tunnel" thus reminds us of a relentless and lonely aspect of probing activities.
  • On the other hand, the phrase "tunnel vision" exists for a reason. Staying within a windowless tunnel may narrow your perspective, being blind to alternative possibilities.
  • Dig tunnels or broaden our view. "Tunnel Opening" is the very concept which addresses this dilemma. We believe both can be achieved at the same time. It’s no coincidence that the launch of Project Theory Probe coincides with the time we coined the term—it was precisely this "tunnel opening" that triggered the inception of the project.
  • Back then around 2023, Haruma was exploring how programmers confront the (quasi-)nature of computers and networks during programming. He was also creating prototypes to re-examine how people align their subjective perceptions of their environment. Meanwhile, Shotaro was inquiring how discursive practices shape a project and how people share common perception on something abstract as organization and social environments.
  • Although Haruma and Shotaro were digging entirely different tunnels—one focusing on prototypes, the other on theoretical inquiry—a shared concept called "naming" (or "calling") emerged through consecutive dialogues. Naming is unique in the way it is both practice and perception at the same time. Once this concept was shared, our respective explorations picked up speed in building onto each other. This was the moment of a "tunnel opening" which significantly bolstered the team’s conviction in Project Theory Probe. (The more details are found in our first meetup archive.)
  • Despite the word "naming" was rarely mentioned explicitly, it consisted the *basso continuo* of the 1st Season (Issue #1 - 12). For example, the series introducing "evangelists" of the hacker culture which was concluded by Christopher Alexander's Pattern Language and discursive practices discussed in the article series on self-organizing projects.
  • It is a remarkable experience for us, as Kitty mentions while referring to the "tunnel," that we "share a lingo and walk towards the same direction" regardless of "a wide difference in terms of mother tongue, culture, generation, profession and so forth." The zines she has contributed to this journal since issue #8, such as Making Fuss, Daring to Archive, and Knowing the Warewolf, resonate with the concept of "naming" while opening up new perspectives. Through her work on expanding the definition of love and intimacy beyond the modern (colonial and limiting) use of them, she advocates for the resistance against normativity and exploitation to protect the space for all species and modes of beings. She seeks to create a "shared language" that enables us to discuss this new and more expansive version of love and intimacy. The "tunnel" she is digging from a cultural anthropology viewpoint is in fact already "opening" with others' tunnels across various layers.
  • From the 2nd Season (Issue #13~), Kagawa has introduced a new series that brings in her background of swimming with dolphins in Ogasawara while Motoi coins the word "everyonization" to encourage projects to operate more autonomously by its' members.
  • Project Theory Probe will likely continue to witness various tunnels running in parallel with anticipation of further "openings". If you, the reader, have a feeling that your tunnel would also encounter "openings," we welcome you to visit our Digital Garden to further participate.

WHAT’S LOVE* GOT TO DO WITH EATING THE FRUIT?

Kitty Gia Ngân

A journaling zine exploring the radical act of knowledge-seeking through the lens of crip theory, intersectionality, critical race theory, critical disability theory, and feminist ethics of care. Retelling the story of Eve, who chose to eat the forbidden fruit, as an act of resistance against imposed ignorance and control.

Through journaling prompts and further resources, this zine invites us to question the "forbidden fruits" in our own life—the truths we’ve been discouraged from exploring, the parts of ourself we’ve been told to hide, and the systems that benefit from our silence. It’s a call to gather and share the resources and fusses that help us liberate ourselves and each other, to create spaces where everyone can thrive as their fullest, most authentic selves.

What’s Love* Got To Do With Eating the Fruit?

  • 24 pages
  • What’s inside:
    • Reframing the bible's story of Eve and the Forbidden Fruit.
    • An interactive journal on censorship and knowledge-seeking.
    • Comments on the practice of destabilizing censorship.
    • Some resources on Feminist Ethics of Care, Crip Theory, Critical Disability Theory, and Intersectionality.

Read here. (PDF 6.2MB)

Editor's Note

菊地玄摩

隣の個体と遺伝子を交換するときー例えば「自分」の構成を80%も置き換える作業をするときーどんな心地がするのでしょう。はやく新しい自分になって動き回ってみたい、そんな感じでしょうか。あるいは、みんなが取り入れてるから自分も…と特に理由なく、流行に乗るのかも知れません。そうしてみたことで自分が立派になったように感じたり。または流れに逆らって、他の誰も持っていない自分だけのものが欲しい、と思ったりするのでしょうか。

八木さんの記事を読みながらそんな想像が捗るのも、エリック・レイモンドの「The Cathedral and the Bazaar (伽藍とバザール, 1997)」に描かれた、バザール方式を思い出したからです。
バザール方式は、オープンソースプロジェクトとして成功した Linux コミュニティを駆動する原理として、エリック・レイモンドによって見出された在野の文化人類学の成果です。ローカルな取引が縦横無尽に行われるバザール会場のような、一見無秩序な活動が、時として「カテドラル (伽藍) のように構想され、構築」されたものよりも素晴らしい成果を生み出すことがある。そしてそれはもちろん無秩序などではなく、いくつかの行動パターンの帰結として説明することが可能であり、また意図的にコミュニティをその方法 (バザール方式) で運営することで、その生産性を再現することも可能である。おおよそこういった内容になるでしょうか。

私は破壊された自己の DNA を修復するために隣の人から借りたことはありませんが、その活気ある世界を、既に経験しているように感じています。それは Linux に代表される数々のオープンソースプロジェクトの恩恵を、日々直接受けているからです。その成果を手にすること (より具体的には、自分のコンピュータへダウンロードすること) は、魔法の呪文が自分のところへやってくるように、自分一人では一生かかっても生み出すことができない質、量を、一気に自分の手もとに置く体験です。世界が自分であり、自分が世界であると感じられるような感覚、万能感とでも言うべきでしょうか。何万行もの「他者からの贈り物」のコードの上に自分が書いた1行を置く体験は、「私の小ささや限界」を感じさせるどころか、忘れさせてくれるものです。

私がここで強調したいのは、ひとりひとりの成果が贈り物のように交換され、その全体が継続的に進化する世界を私たちはすでに持っている、ということです。しかしなぜそんなことが可能なのか?
努力の成果に見返りを求めず、そのまま共同保有の世界に溶け込ませる行為は利他的に見えたり、強力な善意の存在を想起させるかも知れません。しかしそうなると、そんな高い道徳を可能にするものがどこからやってくるのか。オープンソースのハッカーはみな「境地」が進んだ坊さんたちなのか?そうでなければその世界において何かの事故があって「私」はどこかにいってしまったのか?そう思うのもやむを得ないでしょう。
エリック・レイモンドもそんな疑問を察して、バザール方式を発見すると同時に「インターネットのハッカーたちを『エゴがない』と呼ぶなんて、つい笑ってしまうではないの」と書いています。実際、The Jargon File にまとめられるような不完全さをもち、美的なこだわりはあっても社会性が高いとは決して言えないある典型を示す人たちは、聖人であるかのように言われたらアレルギーを起こしてしまうに違いありません。

バザール方式は、その結果として高品質なソフトウェアや、報酬によらない協調的なコミュニティを生み出したとしても、その原理に高尚な精神を必要としているわけではありません。むしろ根源的な意味でのエゴの充足によって駆動されるものでしょう。エリック・レイモンドは美しい文書で、そのことを詳しく描き出しています。
だからきっと微生物たちの「驚くべき」振る舞いの内実も、そんなものなんじゃないでしょうか。オープンソースプロジェクトの現場で個性的なハッカーたちが喧々諤々やってきたように、微生物の DNA の交換の現場も、同調と離反、保身と挑戦、虚栄と高貴なプライドがごちゃまぜになった、エゴがぶつかりあう活気ある世界なのではないでしょうか。自分の「ソースコード」を80%置き換えるとき、確かに怖いには怖いでしょうが、変わることについてわくわくしてなければそんなことをする必要もないのです。そこには変化への意欲とそのための機会が、熱気となって渦巻いているはずです。そのとき「私」は、維持すべきものというよりも、新しいソースコードを走らせるための器でしょう。

「The Cathedral and the Bazaar」は、当事者たちが集う Linux 開発者会議で発表されるとたちまち好評を博しました。そのことによってエリック・レイモンドは、自身が「seeing people as they see themselves」に成功したことを証明したと言えるでしょう。微生物たちにあなたたちはこんな感じ?と問いかけることは難しいですが、興味をもって観察し、そのことについて考え抜き、自分でも同じようにやって確かめれば (エリック・レイモンドは Linux をまねてプロジェクトをひとつやってみた経験をもとに、「The Cathedral and the Bazaar」を書いています) 、その心地を知り、そのように振る舞うことも叶わないことではないでしょう。