The Project Theory Probe Journal

Issue 30
Jul. 31 2026

知能としてのプロジェクトを見い出したい

八木翔太郎

第6回 脳なき細胞が、迷路を解き、記憶し、学ぶ

前号まで連続でマイケル・レヴィンの集団知性の研究を辿ってきた。知性も自己も、関係から創発し、そこに司令塔も学習する主体も必要ないのである。ただ、彼の研究の多くはシミュレーション(in silico)だった。そこで今回は生きた生命(in vivo)に立ち戻ろう。粘菌である。

真正粘菌(Physarum polycephalum)の変形体は、一個の細胞でありながら数センチから時に数メートルにまで広がる。巨大で多核の、アメーバのような細胞。脳も神経もなしに、どこまで届き何に応答できるのだろうか。

地面を這って餌(バクテリアや菌)を探す変形体は二つの部分からなる。前へ探索していく扇状の薄いシート(先端)と、その後ろに広がる原形質管(Vein)が枝分かれして網になった構造だ。原形質管とは、体の中をどろりとした原形質が流れる血管のような通り道のこと。外側は硬めのゲルの壁、内側は流れるゾルでできている。

Ricigliano et al. (2015), Front. Microbiol. 6:720, doi:10.3389/fmicb.2015.00720. CC BY 4.0.

この管の網が、栄養も、信号となる化学物質も、体そのものである原形質も移動させている。管の壁が縮んで中身を押し出すと、原形質は管の中を行きつ戻りつ流れ(原形質流動)、その流れが体を前へ這わせもする(移動)。流れがよく通る管は太り、あまり通らない管は細って消える。網も絶えず組み替わり、餌のある方へは太い管を伸ばし、栄養の豊かな場所では細かい網目を張り、乏しい所ではまばらに枝を伸ばす。

内部を細胞に仕切る膜はない。どこを取っても連続した一つの中身で、その管の壁はリズミカルに縮んではゆるむをくり返している。周期はおよそ1、2分。この拍を生むのは、カルシウムなどの濃度が上がっては下がる化学的なサイクルであり、体のどの一片もこうして脈打っている。仕切りがないので、隣り合う部分は互いの拍のタイミング(位相)を感じ合う。縮めば隣を押し、物質が隣へ流れるからだ。そうして歩調がすり合い、ホタルの明滅が自然と揃っていくように、中央の指揮者なしに、体を貫く収縮の波が立ち上がる。そして不思議とその流れが何かを成し遂げるのである。

例えば、迷路実験(Nakagaki et al., 2000)は有名だ。寒天の迷路の上に、変形体の小片を撒くと小片どうしは融合してまた一個体になるのだが、両端に餌を置くと、なんと二つの餌を結ぶ最短経路に一本の太い管だけを残すのである(他より約22%短い路は、毎回選ばれた)。こうした「賢さ」は、先ほどの脈打ちの結果だ。餌のある場所で局所の収縮頻度が上がり、その波が体を伝わる。管は流れに沿えば太り、逆らえば細るというフィードバックによって、最短の管が残るのである(仕組みは量子コンピューターの原理の1つである量子アニーリングにも少し似ている)。

しかし、これは知性なのか、それとも単なる物理現象なのか。レヴィンの注目したジェームズ的知性を思い出そう。系が目標を保ち、障害を回り込んで手段を見つけることこそが知性であった。粘菌の流れは、餌へ回り道を見つける。迷路実験が明らかにしたのは、脳のない身体が目標へ向けて空間的に辿り着くさまであり、まさにジェームズ的知性であるといえるだろう。あまりにシンプルなので「解いている」と呼ぶのをためらうほどである。

粘菌は記憶もする。例えば、餌のある場所が管の壁をやわらかくする物質を出し、そこに至る管は太くなる。餌のあった方向・場所が、体の「管の太さの配置」そのものに刻まれているといえそうだ(Kramar and Alim, 2021)。さらには、自らの這った軌跡も記憶となる。現に、変形体は這った跡に粘液を残すのだが、その粘液は今度は避ける対象となる。実験ではY字迷路の片方にだけ自身の粘液を敷き、両端に同じ餌を置いたところ、40個体中39個体が粘液のない側を選んだ(Reid et al., 2012)。こうした「記憶」は探索能力に役立つ。大きく迂回しないと餌にたどりつかない(餌の匂いに直線で向かうとU字トラップに引っかかる)実験では、自分の跡を頼りにできるとき96%が餌に達し、地面全体を粘液で覆って跡がそもそも識別できない状態だと33%しか餌に辿り付かないことが確認されている。

ただ跡を無差別に避けているのではない。粘液には、そこを通った個体の化学物質が残されていて、粘菌はそれを感じて応答する。よく食べた個体の跡には引き寄せられ、飢えた個体の跡は避ける(Briard et al., 2020)。もはやこれを体の外側に置かれる自分(や仲間)の残した「記憶」だと呼んでも差し支えないだろう。

最後に、粘菌は学習する。前号の最後で約束した「慣れ」はその1つだ。Boisseau et al.(2016) は、二つの餌場をつなぐ寒天の橋に、無害な忌避物質(キニーネやカフェイン)を仕込んで渡らせた。粘菌は、こうした忌避物質の橋の上では広がりが鈍り流れが滞るのだが、毎日くり返すうちに、その滞りはほどけ広がりも速さも戻っていく(慣れ)。これは疲れているのではない。刺激を数日止めれば反応は戻り(自発的回復)、別の忌避物質には一から反応する(刺激特異性)。つまり、神経がないのにも関わらず、しっかり学習をしているのである。

例えば、この学習の1つの経路として、原形質管の網の形が挙げられる(Yoneoka and Takamatsu, 2023)。上記の忌避物質を渡ることを繰り返した粘菌において、原形質管(Vein)の網が、進行方向に沿った一方向の「木」から多方向に絡む「網目」へと組み替わっていた。つまり網の形(と向き)という「形」も学習後の記憶として作用しうるということだ。その証拠に、慣れたあとにその網目をわざと切って崩す、あるいは向きを回すると、慣れは消え、また忌避物質を前に足踏みをするようになる。

他にも学習の経路として、化学物質が挙げられる。塩も粘菌の忌避物質なのだが、これに慣れた個体はその塩を取り込んでいることが確認された(訓練を一切せず、素朴な個体に塩を吸わせるだけでも慣れが生じる)(Boussard et al., 2019)。逆に塩が溜まりすぎれば逆にもっと避ける(感作する)ようになることも知られている(Smith-Ferguson et al., 2022)。

一般に「解く」「覚える」「学ぶ」と言ったときには、「考える」主体がいることを前提にしてしまうが、粘菌のこうした例を追うことで、それが思い込みに過ぎないことに気付かされる。どのケースでも、こうした現象が物質の流れや関係性の中から生じているからだ。同時に、粘菌は個と集団の境目をも曖昧にする。「一個」の細胞は、無数の核と、互いに位相を伝え合う無数の振動子でできている。一でありながら多。集団知性を追うわれわれは、この小さな親戚から実に多くを学べるのではないだろうか。

プロジェクトにおいて「人が考えて解決する」というイメージはどこまでも付き纏う。だが実際は、記憶も、学習も、中心となる司令塔なしに、関係から立ち上がりうるのではなかろうか。チームの知性は、関係の配置に、共有された環境に、残された跡(記録・道具)に、そして体の形に刻まれた通り道に、宿りうるのだ。前号で「何か」が学習するのではないというレヴィンの結論を追ったが、今回は粘菌の振る舞いから(in vivo)それを確認することができたのではないだろうか。

さて、真正粘菌は切れば二つになり近づければまた一つに戻る。分かれても融け合っても、もとは一続きの同じ体である。そこで次回は、対照的に、ばらばらに暮らす単細胞アメーバが、飢えると集まって一つの体になるという細胞性粘菌 Dictyostelium を追ってみたい。別々の個(多)が、なぜ一つになるのか。それを追うことで、集団知性が何をもたらし、何のためにあるのかヒントが得られるかもしれない。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(30) 遊戯的態度

The Rhythm of Intimacy

Kitty Gia Ngân

Every circle made into a line.

Musing about time in love.

A friend recently broke up with his long-term romantic partner. Among many factors for his decision, the narrative he settled on was that there is no future with his partner.

Time, how important it is as a (visualisation) factor in modern life: a concrete linearity that maps out futurity and shapes our present decisions. But linearity itself is a product of space. We visualise time by relying on space. The clock, for example, makes time visible by spatialising time. How did this paradox come about?

Weber popularised the term 'disenchantment of the world' (Entzauberung der Welt) to describe the condition in which science and rationalisation rendered other ways of knowing: Once observed, any phenomenon can be formulated on a linear timeline. This ethics/ontology/epistemology emerged from the 16-17th century (aka the "Enlightenment" era), which went on to subjugate the rest of the world. Disenchantment "made every circle a line (Florian 2025, 26)." Magic, higher powers, synchronicities and unpredictability become obsolete concepts. What counts is "calculability, intellectualisation, and (linear) progress" (Weber 2002, 488).

In the 19th century, romanticists tried to resurrect feelings by adding "affective geography" (Boym 2001) onto this map of linear time. In other words, what's legible is still what's observable: spacialised relationality. We talk about feelings in terms of an observable linear timeline, such as nostalgia, predictable hormone cycles and psychological patterns. In romantic relationships, we understand it also exclusively in space. For example, the alternative of monogamy is polyamory. Although the latter is considered nontradition, polyamory is still spacialised love. Poly (many) amory (love). The name itself counts bodies that exist in space within a snapshot in time. Instead of indicating an ethics/ontology/epistemology of relationality, it indicates what's observable in a slice of time.

Modern love, narrated on a linear timeline, spatialises time while relying on linear causality. Contemporary concepts such as intentionality, control, fidelity, and agency, are all possible due to an assumption of causal time. If time loses its linearity, something else is in control and such a loss of self-locus is unthinkable.

So what does it mean to put non-linear, non-spacialised time back into relationship? When time is added, isn't everyone poly in nature? One cannot help but love many. By looking at it in a snapshot, we of course don't realise ourselves as poly. Temporal space disturbs the conception of what's moral and what's not. It means a relinquishment of spatialised concepts like control, fidelity, agency, all embedded in a bigger conversation around shame, guilt, and binary choices (to be continued).

親密性のリズム

Kitty Gia Ngân, 八木翔太郎(訳)

あらゆる円環が線になる

愛における時間に想いを巡らす

最近ある友人が、長年交際していた恋人と別れた。その決断にはさまざまな事情があったが、彼が最終的に落ち着いたナラティブは「相手との未来がない」というものだった。

時間。それが現代生活においていかに重要な(思考を描く際の)要素であることか。未来性を描き出し、わたしたちの現在の決断を形づくる、くっきりとした直線性。しかし、直線性は空間の産物なのだ。わたしたちは時間を思い描くとき空間を頼りにせざるを得ない。例えば時計は、時間を空間化することで、時間を見えるものにしている。このパラドクスはどこから来るのだろうか。

ウェーバーは、科学と合理化が他の認識様式を変えていくさまを説明するため、「世界の脱魔術化」(Entzauberung der Welt)という概念を世に広めた。ひとたび観察されると、いかなる現象も線形な時間軸の上で定式化できてしまう、というわけだ。16-17世紀(いわゆる「啓蒙」時代)に現れたこの倫理・存在論・認識論は、やがて世界中を支配していった。脱魔術化は「あらゆる円を線にした」(Florian 2025, 26)のである。魔法、大いなる力、シンクロニシティ、予測不可能性などはすたれた概念となり、「計算可能性、知性化、そして(線形的)進歩」(Weber 2002, 488)が意味があるものとみなされた。

19世紀、ロマン主義者たちはこの線形の時間の地図に「情動的地理学(affective geography」(Boym, 2001)を重ねることで、感情を復活させようと試みた。だが言い換えれば、ここでも依然として空間化された関係性、すなわち観察できるものこそが判別可能とされている。わたしたちは、懐かしさ、予測可能なホルモン周期、心理的パターンなどのように、感情を観察可能な線形の時間軸で語る。恋愛関係においても、もっぱら空間において関係性を理解するのである。たとえばモノガミーの代替はポリアモリーとされている。後者は非伝統的とみなされているものの、ポリアモリーは依然として空間化された愛だ。Poly(多数)amory(愛)。その名称そのものが、ある時の断面において空間に存在する身体を数えている。これは決して関係的な倫理・存在論・認識論を示しているのではなく、時間の断片において観察できるものを指し示しているにすぎない。

線形な時間軸の上で語られる現代の愛は、線形の因果関係に支えられて時間を空間化している。意図、管理、誠実さ、エージェンシー(主体性)といった現代的な概念はいずれも、「因果的な時間」という仮定のもとでこそ可能である。もし時間がその直線性を失えば、何か別のものがコントロールを握るのであり、そうした自己所在の喪失は考えることすら難しい。

では、関係性に「非線形で非空間的な時間」を取り戻すとは、何を意味するのだろうか。時間を引き伸ばしてみれば、誰もが本質的にPoly(多)ではないだろうか。誰もが多くの人を愛さざるを得ない。スナップショットで見ては、もちろん私たちは自分がPoly(多)だとは気づかないだろう。このように時空間は、何が道徳的で何がそうでないかという概念化をかき乱す。これは、恥、罪悪感、そして(挙げきれないほどの)二項対立に関わる会話に埋め込まれた、管理、誠実さ、エージェンシー(主体性)といった空間化された概念群を手放すことを意味するのである。

プロジェクトマネージャーに「体」は必要か?

長谷部かな

第5回 体との関係をチューニングする

第4回で「体を感じる」ことをモデリングしてみた。体の声と思考を分けて扱い、双方の意向を踏まえて「チューニングする」と書いた。では、チューニングとは具体的に何をすることか。

今回は、体との関係をチューニングすることについて書いてみようと思う。

「体」は、思い通りにできるか?

「体が思い通りにならない」と感じたことはあるだろうか。私はある。妊娠時の"つわり"の経験だ。期間中、吐き気と嘔吐、めまいやだるさといったあらゆる体調不良に悩まされ、自分の意識としては何ひとつ思い通りにならない日々を過ごした。

つわりによる体調不良の理由として、一説には「強制的に母体を安静にさせたり、胎児に影響のあるものを食べないようにするため」というものがある。つまり私は、母体として妊娠初期に胎児を守るための安静な日々を過ごさせられていたのだ。生き物としての妊娠を維持継続する仕組みの勝利。私の思考や理性など、何の役にも立たなかった。

それ以来、私は「人間もまたひとつの生き物であり、今ここで考えている『私』は肉体に宿っているに過ぎない」と考えるようになった。自分の体だからといって、思い通りに支配できるわけではない。ここにいる「私」から見た「体」は、自分と対等、もしくは自分よりはるかに強い存在なのだ。

無理な計画は、必ず破綻する

少しプロマネっぽい話をしよう。

プロジェクトは、そもそも計画通りにはいかない。完璧な計画が存在しない以上、ズレは絶対に発生する。つまりプロジェクトとは「調整しながら進めるもの」であり、プロマネの仕事とは、刻々と変わる状況に合わせて進め方や方針を見直し、チューニングしていくことだ。

また、プロジェクトの資源や期限には限りがあり、意思決定の多くは「トレードオフ」になる。スケジュール、範囲、品質、体制、コスト——これらのパラメーターをすべて理想の形に持っていくのは不可能だ。あちらを立てればこちらが立たない。

これを無視して突き進むとどうなるか。例えば、納期は変えずに無理な追加機能を実現しようとする。余裕がなければ、メンバーが残業してなんとかするしかない。「もう無理です」という現場の声を無視し続ければ、作業効率は落ち、残タスクは山積みになり、やがて一人また一人と燃え尽きてチームが崩壊していく。いわゆる「ブラック」な状態だ。

このやり方が長続きしないことは、誰でもすぐにわかるはずだ。そして、体もまったく同じなのだ。体の「もう無理」という訴えを無視し続けたら、いつか必ずガタが来る。プロジェクトでは避けるべきとわかることは、自分にもしないほうがいい。

チューニングとは、落としどころを探す「合意形成」

では、思い通りにならない体とどう付き合うか。プロジェクトと同じように「落としどころを探す」のだ。

顧客の要望と、開発側の対応可否。両方が場に出てきたとき、経験のあるプロマネは単純に「どちらか一方に決める」ような極端なやり方はしない。自分たちはどこまで対応できて、顧客はどこまでなら妥協できるのかを探りながら、プロジェクトとしての「折衷案」を探るはずだ。

体と思考も同じ関係にある。どちらかが絶対的に正しくて、どちらかが間違っているわけではない。どちらか一方の言い分だけを優先すれば、もう一方にしわ寄せが行く。

だからこそ、両者をフラットに眺めて落としどころを探す。これが「チューニング」だ。体だけでも思考だけでもない。その間に立って、両方をフラットに眺めてみる。

「だるい」と体が言っているなら、「じゃあ今日はここまでやろう」と着地点を探す。「いやだ」と体が言っているなら、「じゃあ一度だけ試してみて、嫌ならやめよう」と提案してみる。両者を眺めた上でどうするかを一緒に決める、丁寧な合意形成だ。

これは何も、疲労や拒絶といった状況だけに限らない。

「理由は説明できないけれど、なんか好き」

「大変になると分かっているけれど、なぜかやってみたい」

論理や言葉では説明できなくても、体が「なんかいい」と感じている瞬間がある。そのときはぜひ、「どうやら自分はこういうものが好きらしい」と自分に対するイメージを少し更新して、体の「なんかいい」に付き合ってみてほしい。

決定を一方的に押し付け、命令ばかりを聞かせようとするプロジェクトになんて、誰もいたくないはずだ。自分の体との間でも、同じように落としどころを探してみてほしい。

体は、いつだって正直だ

思考は「大丈夫」と嘘をつける。「まだできる」と言えてしまう。けれど体は、無理なときは正直にブレーキを踏む。喉が詰まる、胃が重い、足が進まない。言葉にならなくても、体はシグナルを出している。

一方で、思考は「そんなの役に立たない」「効率が悪い」と切り捨てがちだが、体はやりたいときはアクセルを踏みたがる。つい目が向く、気づいたらいつもやっている、なんか好き。言葉にならなくても、体はサインを送っている。

だから、体の声を「ただの雑音」として扱わないでほしい。体は、思考より広い範囲で自分の事をわかっている。

思考と体の声をどちらかに偏ることなくフラットに眺め、落としどころを探す。言うのは簡単だが、意外と難しい。けれど、「自分の中で今、健やかな合意形成が行われているか?」と眺めるだけで、体との付き合い方は少し変わってくるはずだ。

あなたの体と思考は今、どうしていますか?

今月のビデオゲーム

八木翔太郎

テトリスは、うまくなるとつまらない

テトリスをやり込んだ人なら、覚えがあるだろう。最初はどこに置くか迷っていたブロックが、ある時から、考えるより先に手が動くようになる。降ってくる形を見た瞬間、指先が置き場所を知っている。あの「わかった」の快感。ところが、うまくなりすぎると、今度は妙に手応えがなくなる。同じことのくり返しに思えて、いつのまにかゲームを起動しなくなっている。なぜ、うまくなる過程はあれほど楽しく、うまくなり過ぎると楽しくなくなるのだろうか。

前号、スーツはゲームを「前‐遊戯的目標を、非効率な手段の自発的受容によって目指す活動」と定義した一方で、「なぜそれが楽しいのか」は括弧に入れたままだった。そこで今号は『ウルティマ オンライン』を手がけたゲームデザイナーのラフ・コスターの著作『A Theory of Fun』(2004/2014)を元に、楽しさとは何かを考えてみたい。

コスターによれば、楽しさとはシンプルに学習だ1。脳は「パターンを貪り食う機械」であり、まだ掴めないパターンはノイズとして、それを自分のものにする(彼はハインラインの造語で「grokする」と言う2)ことに快(fun)の信号を返す。ゲームとは探索すべきパターンの空間であり、テトリスの「手が勝手に動く」あの瞬間こそ、パターンをgrokした合図だ。そして退屈は、逆に学ぶものが尽きたことを意味する。うまくなり切ったテトリスがつまらないのは、もう学ぶパターンが残っていないからだ。「ゲームとは、要するに教師だ。楽しさは学習の別名にすぎない」と彼は言い切る。

「面白いか?」という漠然とした問いを、取り扱える問いに変えてくれる頼もしさが、20年以上もゲーム設計者に読み継がれる本たる所以だろう。プレイヤーが退屈しているなら、ゲームは教えることを切らしている:深みを足せ。逆に投げ出すなら、パターンが掴めていない:分かるようにしろ。「面白くない」はすべて「いま、学びがどこで止まっているか」という設計の問いに翻訳される。これは設計者にとって、後ろめたさを晴らし、手を動かす指針をくれる画期的な手引きだ。

では具体的に、面白い学習はどう設計できるのか。その鍵は、難関を、プレイヤーの技量のすぐ先に置き続けることだ。易しすぎれば学ぶものがなく、難しすぎればパターンが見えない。どちらも脳への「小さな快」が止まり、退屈か挫折に落ちてしまう。コスターはこの適所をヴィゴツキーの最近接発達領域(一人では届かないが、助けがあれば届く範囲)になぞらえ、足場(scaffolding)を積み重ねることを推奨する。例えばテトリスは、最初はひとつのこと(落ちてくる形を隙間にはめる)だけをさせ、上達すると技量を追い越さない程度に速度を保ち、その先にはホールド・Tスピンといったより深いパターンを学ばせてくれる。それぞれに即座の手応えがある。設計とは、学べるかどうかのぎりぎりのパターンを、途切れず流し込む振り付けなのだ。

では、プレイヤーはどのくらいのスピードで学べるのだろうか。学んだパターンは、自動化された一つの「塊(チャンク)」に畳まれ、意識の作業領域を空ける(心理学者ミラーによれば、人が一度に扱えるのはせいぜい7±2個だ)。下の層がgrokされて手が勝手に動くほど、その上(積み方、ホールド、Tスピン)を考える余裕が生まれる。逆に、要素を一度に増やしすぎれば作業領域はあふれて急に難しくなる。設計者は、プレイヤーがいくつのチャンクを持てるかを見ながら、次の層を差し出すべきなのだ。

ところでコスターは、ゲームは ludeme という「原子」でできていると言う。そして(別に)面白いゲームが備える要素を、こうチェックリストにしている(第7章):

  • 準備:挑む前に勝率を変える選択ができること
  • 空間感覚:戦場・盤面・プレイヤー間の関係の広がり
  • 確かなコアメカニック:コンテンツを注ぎ込める本質的に興味深い規則群
  • 挑戦の幅:少しずつ異なるパラメータでありコンテンツそのもの(敵キャラなど)
  • 求められる能力の幅:時間とレベルに従って多くの選択肢を持てること
  • 技量の要求:器用さが結果を分けること

さらにプレイを「学習」経験にするには以下の特徴が必要だ:

  • 可変のフィードバック:上手いほど良い報酬が返る
  • 習熟格差への対処:上級者が簡単な課題で荒稼ぎできず、初心者も締め出されない
  • 失敗にコストが伴う:やり直せてもただではない

これらが面白さのアルゴリズムではなく、彼曰く、あくまで面白さの「不在」を点検する診断票である点は留意が必要だ。

とはいえ、学習を強調するコスターに対して、こんな反論もあり得るだろう。やり込んだプレイヤーが語るのは、むしろ「我を忘れる感覚」ではないか、と。チクセントミハイの語るフロー(ゾーンに入る)状態だ。しかしコスターは「楽しさはフローではない」と言い切る。熟達しきったフローは、瞑想に似た脳波を伴い、楽しくないことすらある。楽しさが立つのはフローの上の縁(まだ学んでいるところ)だけなのだ。

さて、このように「楽しさ」について言語化をしてきたコスターだが、彼にとってゲームの本質は楽しさにないと言ったら、意外に聞こえるだろうか。彼は媒体としてのゲームを「パターンを教える、形式的で抽象的なモデル」と捉え、曖昧な「ゲーム」という語を避けて「遊びの人工物(ludic artifact)」と呼んでいる。つまりゲームの基本的な意図は伝達的であり、ルールという記号論理の組み合わせによって意味を運ぶことなのだと。これは芸術が伝達であるのとちょうど相同的である。

ゲームの本質が伝達なのだとすれば、設計者の最大の挑戦はいかに「唯一の解を持たない問題やパターンを差し出すか」となるだろう。というのも、そうした問題こそが、プレイヤーの新たな側面を照らして、自らの理解を深めるからだ。正解へ最短距離で導く「教師」から、答えの定まらない問いへプレイヤーを開く「作品」へ。これはゲーム設計がすなわち本連載の冒頭で述べた存在論的デザインであるという自覚に他ならない。

現にゲームが怖がられもするのは、人を変える力を持つからこそである。コロンバイン事件を受けて「ゲームは善の道具か、悪の道具か」と祖父に語りかけられた3と言うコスターは、これは「賭け」だとエピローグで説明している:ゲームが悪の道具なら、責任をもって作れば何も失わない。だがもし善の道具であるのなら、その力を引き受けて人間の条件を照らせるではないかと。彼にとって、ゲームとは芸術なのである。

さて、本書が出版された2004年の当初は、設計の関心は「ゲームが人を作る」側に強く注がれていた。存在論的デザインが「私たちが道具を作り、道具が私たちを作り返す」さまを指すのだとすれば、その後者に焦点が当たっていたことになるが、前者はどうだろうか。「人がゲーム(世界)を作る」、つまり、プレイヤーが自分で世界を形づくっていくオープンワールドやサンドボックスの試みが目立つのは、比較的最近のことだ。次回は『SimCity』『The Sims』を手がけたウィル・ライト(Will Wright)の言説を追ってみたい。プレイヤーが自分で世界を組み立てる余白を、具体的にどう設計するのか。コスターのちょうど裏返しの問いを探索しよう。

1 この「楽しさ=学習」という定式化そのものは、コスターの独創ではない。彼は先達のゲームデザイナー、クリス・クロフォードに負っている。彼は『The Art of Computer Game Design』の著者で、早くから「ゲームは芸術たりうる」と唱えた人物でもある。

2 grok(グロク)=SF作家ロバート・ハインラインが小説『異星の客』Stranger in a Strange Land, 1961)で造った言葉。火星語で、原義は「飲む」。作中の定義は「あまりに深く理解するので、観察する者が観察される対象の一部になること。溶け合い、混じり、集団の経験のなかで自己を失うこと」。つまり、対象を外から眺めて把握する understand(知的な理解)とは違い、自と他の境目が消え、対象と一つになるほどの理解を指す。コスター自身も、grokを「知的な理解」「直観的な理解」のさらに先、体が覚えた動き(muscle memory)に近いものとして使う。

3 コロンバイン事件とは、1999年に米コロンバイン高校で2人の生徒が銃乱射により自らを含む15名の命を奪った事件であり、犯人が暴力的なビデオゲーム(『DOOM』など)を好んでいたことから論争を生んだ。これを受けた祖父の「ゲームは善の道具か、悪の道具か」という問いに対して、コスターはエピローグの題で「おじいちゃん、楽しさは大事なんだ」と回答している。

流動のなかのプロジェクト

賀川こころ

第6回 流れとはなにか

ドルフィンと名のついた台風13号が、小笠原を目指している。けれどこの海にまだ嵐の気配はなく、鮮やかな夏の凪が続いている。今日のミナミハンドウイルカの群れは、いつもより随分大きかった。群れは3〜10頭程度で構成されるのが通例だが、今日は30頭以上が同じ海域にいた。ホイッスル、クリックス、バーストパルス。彼らが発するありとあらゆる音で、温かい海は賑やかに満たされていた。彼らはやはり音の世界の生きものなのだと、こういう日に実感する。

リップと呼ばれている成熟したメスが、生まれたばかりの小さな子どもを連れていた。1996年から観察履歴のあるベテラン個体で、ここ10年ほど繁殖が確認されていなかったため、すっかりゴッドマザー的なポジションになったかと思っていたが、まだまだ現役だったということなのだろう。彼女は常に鷹揚な物腰で、瞳の奥には確かに知性を感じる。わたしは海の中での礼節というものを彼女から教わったような気がする。

これだけの数のイルカが集まった理由は定かではない。1年ほどの妊娠期間を経て夏に出産する彼らの繁殖サイクルを考えると、繁殖が関係していると考えてもよさそうだが、今日の海の賑やかさは、なんとなく彼らなりに新しい生命の誕生を寿いでいるような、祝祭のムードを感じさせた。

群れには時折、こうして普段と異なる雰囲気を漂わせる日がある。どこかへ向かって泳ぐ日もあれば、お気に入りの海域で行ったり来たりしながら休息している日もある。イルカ同士のコミュニケーションが側から見ていても密な日もあれば、ただ黙って近くを泳いでいるだけに見える日もある。その日の群れには、その日、その瞬間ならではの流れがある。けれど、不思議なのは、その流れをコントロールしている個体が見当たらないことだ。

群れの先頭をゆく個体はいる。遊びが始まれば、そのきっかけをつくる個体もいる。群れの動きは、誰か1頭の行動をきっかけに変わることも少なくない。けれど、先頭を泳ぐ個体は、案外よく入れ替わるのである。ある個体が前へ出たかと思えば、気づけば別の個体が前にいる。それでも群れは乱れない。方向も、大きな流れも、そのまま続いていく。もし流れが先頭の個体によって生み出されているのなら、先頭が入れ替わるたびに群れはぎこちなく立ち止まってもよさそうなものだ。しかし実際には、そんなことはほとんど起こらない。

流れに先頭はいても、主はいない。誰かが流れを所有しているわけではない。誰かが群れ全体を見渡し、采配を振るっているわけでもない。それぞれが目の前の世界に応答し、その応答に別の誰かが応じる。その連なりをあとから振り返ったとき、「流れ」が浮かび上がってくるのではないだろうか。

前回、同期とは結果であって本質ではないと書いた。流れもまた、同じなのかもしれない。流れというものが最初から存在していて、それに個体が従っているのではない。互いの応答が積み重なった結果として、流れが立ち上がるのである。だから、流れはつくるものではない。応答が生まれつづけた結果として、流れは現れる。

プロジェクトでも、わたしたちは「流れをつくる」「流れを止めない」と言う。しかし、本当に流れはつくれるものなのだろうか。ある人が、小さな実験を始める。その結果を見て、別の誰かが動く。その変化を受けて、さらに別の誰かが方向を変える。そうした応答が積み重なったあとで振り返ると、「あのプロジェクトには流れがあった」と感じることがある。けれど、その流れは誰か特定のメンバーがつくりあげたわけではない。流れとは誰か一人が生み出すものではなく、関係のなかに現れるものだからである。そう考えると、リーダーの役割も少し違って見えてくる。それは流れをつくることでも、先頭を走りつづけることでもない。応答が生まれつづける場を整え、自らもその応答の輪に加わりつづけることだ。

Project Sprint でも、同じことを考えてきた。定例会議は、流れを管理するためのものではない。互いの探索を知り、応答できる状態を取り戻すための場である。だから会議が終わって再び疎になると、それぞれは自由に動き始める。それでも必要なときには自然と応答が返り、その応答がまた次の応答を呼ぶ。

流れとは、誰かが設計した一本道ではない。世界に応答し、その応答がさらに世界を変え、その変化にまた応答する。その循環が時間のなかに描く軌跡を、わたしたちは振り返って流れと呼ぶのかもしれない。

プロジェクトとは、流れを制御する営みではなく、その流れに参与しつづける営みなのかもしれない。

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Editor's Note

八木翔太郎

今月はEGOS(欧州の組織学会)でKittyさんと共著した論文を発表する機会に恵まれました。といっても3日でエージェンシーに関わる論文22本をプレゼンして応答し合うだけの会でしたが、このProject Theory Probeで探査している領域が走馬灯のように頭を駆け巡りました。

今号では、こころさんが「流れ」というものについて語ってくれています。「互いの応答が積み重なった結果として、流れが立ち上がるのである。だから、流れはつくるものではない」と断言する力強さは、とても人間だけを観察していては出せないものです。一方の学会では、それはそれは論者の立場が面白いくらいにバラバラだったのですが、それは「流れ」がなぜどのように生じているのか、深いところでは共通見解に至っていないという組織学の現状を反映していたと言えるでしょう。

今年の学会のテーマは「モア・ザン・ヒューマンな社会から組織を再定義する(Reframing Organizations in the More-than-Human Society)」でしたが、私たちが「モア・ザン」になれるかどうかは、どれだけ自分たちが人間中心主義に陥っていることを自覚できるかにかかっています。毎年1000人以上が参加する組織学会がこれをテーマに据えるのは、環境保護的な観点からではありません。むしろ組織理論の哲学的・存在論的な限界突破が、このテーマに掛かっている(という直感がある)からでしょう。Project Theory Probeのこの数年の探査がこうした領域に及んでいることと無関係ではありません。

組織を「マネジメント(管理)」するという述語が決して当たり前ではなくなったとき、どのように組織を研究すべきでしょうか。誰が(何が)変化を生んでいるのか。そして上手くいかなかったときに、誰が(何が)どのように責任を取るのか。この2つの問いを引き受けているのが「エージェンシー(主体性)」という概念です。こころさんの言葉を借りれば「流れ」がどのようにして生じているのか、何が起こしているのかを語る際に「エージェンシー」が姿を現します。

「普通に人じゃないのか?」と思うかもしれません。安心してください。そう思うのはあなた一人ではありません。エージェンシーについて真面目に研究している学者の間でも、てんで立場や理解がバラバラなのですから!これはKittyさんが「空間化された時間」を批判する中でも触れてくれていますが、現代の倫理や法の奥深くに意図主義(intentionalism)が潜んでいることが関係しています。「意志を持った個人が組織を機能させ、道具を扱って目標を達成している」という物言いに違和感を覚えにくいのがその証拠です。

しかし、われわれが連載を通じて探査してきたのは、それとは全く違う景色ではなかったでしょうか。中動態の議論で見たように「意志」という概念は古代ギリシャ以前にはありませんでした。ゼロから自らの意志で何かを決めているという前提には哲学的な困難が伴います。こうしたヒューマニズムは誤っているだけではなく、有害ですらあることは、カントを中心とする啓蒙主義的ヒューマニズムが植民地主義的な発想につながってきたと批判するポスト・ヒューマニズムBraidotti, 2013)の議論を追いながら確認してきました。

もし、人の意志と責任が前提にならないならば、どう考えていくべきなのか。たとえばAIエージェントにも意志と責任を持たせれば良いのか。でもこれは擬人化に過ぎません。人間中心を脱しているようで、脱せていないのです。一方で逆説的ですが、かなさんが語るように自分の体に耳を傾けることは重要な活路でしょう。体は否が応でも世界と関係してしまっているのですから!そもそも意志や責任という発想とは別のところからどう世界を捉えられるか——これが今後われわれが考えていくべき問いではないでしょうか。

自分の立脚している存在論(ontology)を峻別しなければ議論にすらならないという事態は、もはや誰の目にも明白で、学会が終わる頃には参加者はそれを肝に銘じようと口々に述べていました。これは哲学だけでなく組織学の分野においても半ばお作法になっていくことでしょう。どの存在論が「正解」という主張は無意味だと思いますが(一長一短あるので)、少なくとも「当たり前」が色々あるのだという前提認識と、自分は何に基づいているのかという自覚くらいは、求められる時代が来るのではないでしょうか。私たちは「モア・ザン・ヒューマン」な社会の戸口に立ったばかりです。